煙巻ヨーコ ダンスセッションに行く。 

 YCAMスタジオAでおこなわれた「ALL LOVES YOU! 煙巻ヨーコ ダンスセッション 」に行く。「古い着物を甦らせる。展」中日の夜で、京都あたりならともかく、山口のような田舎でこうした客層が全く異なるクラブイベントとディープな和の世界との大きな振幅を楽しめるとは、東京在住時には思ってもみなかったことだ。
 18時から約4時間にわたるイベントで、DJとしてボアダムスのEYEのほかOORUTAICHI、カジワラトシオ(DJ BING)、JUZU a.k.a. Moochy、周南peopleのHARUCHIKAが参加。VJはrokapenis、舞台デコレーションをOLEO、ライティングをYAMACHANGが担当した。もちろん煙巻ヨーコ(東野祥子)が4時間ぶっとおしで踊るわけでなく、煙巻プラス各DJによるダンスセッションと、参加者が踊れるダンスタイムが交互に設けられている。ダンスセッションでも踊ることは可能だが、最後の最後に一緒に踊れる時間が来ることを知っていればガマンのしがいがあるというものだ。
 ボアダムスのヤマタカEYEというとかつて高円寺の20000ボルトや野外レイブでヴォイス・パフォーマンスを楽しんだものだが、相変わらず独異のスタイルで観客を沸かせ、こちらも楽しませてもらった。
 最後のセッションはカジワラトシオのノイズ系の音&煙巻のソロダンス。その狂おしいばかりの音響とダンス・インプロヴィゼーションには心底惚れ惚れした。迂闊にもこれまで知らなかったのだが、カジワラトシオはWEBで拾ったプロフィールによると、数多くのパフォーマンス・イベントを企画するほか、Phonomenaレーベルを運営してジョン・アップルトンらの未発表音源をリリース、96年から即興音楽家としてクリスチャン・マークレー・トリオの世界ツアーにも参加している人らしい。なんとニューヨークのA-1 Recordの元店長だったそうで、 97年秋に2週間ばかりNYCに滞在した私(宿泊はニュージャージーだったから厳密には「滞在」とはいえんが^^;)は、何度かイーストヴィレッジのこの店に足を運んで買物した記憶がある。
 エレクトロに即興ノイズ、音響が混じるのは大の好みだ。4つ打ちさえ刻んでいればどんなスタイルのノイズ、インプロヴィゼーションがかぶっても客は踊れるのだと信じている。とにかく現在のところノイズ=音響に閉塞感を感じることはない。まあそれも1日のどれだけを音楽や音響の聴取に費やしているかによるのかもしれないが。



 これほどのイベントが前売り1,800円(但しany会員)で参加できるというのは、市営の文化施設ならではのことだが、同時に「市営文化施設の主宰イベント」という言葉のイメージを完全に覆すもので、「市民代表」を自称する精神の御老体だけの意見がまかり通る「公営文化事業」とは明らかに一線を画している。ある程度新しい文化動向に理解のある層が公的機関の幹部クラスに就く時代になったということだろうか。
 県内では他市に比べ学生数が圧倒的に多いのだし、願わくば山口市内に民間ベースで好音質のクラブスペースがあって欲しいのだが、残念ながら今のところこれといった話を聞かない。むしろ今回DJとして参加しているHARUCHIKAのpeopleが周南でひとり気を吐いているようだ。昔に比べ、夜遊びそのものに無上の喜びを得られなくなった者としては、すぐにでも行ってみたいというところまではいかないが、何かのイベントの際にでも出向いてみたい。
 観光社会学者のジョン・アーリーが述べたように(参考→)、ハイカルチャーとローカルチャー、芸術生産と商業生産との区分がなくなることが文化規範としてのポストモダンであるならば、YCAMの今回のイベントは明らかにその規範に即したものと言えるだろう。

剥がされる面皮の下〜高嶋晋一のパフォーマンスと「顔の現象学」 

 鷲田清一の『顔の現象学』は驚くべき書だ。これだけ深い内容をこれだけわかり易く書いた本に遭遇するのは、記憶を辿る限り初めてではないだろうか、とさえ思う。ことわっておくと、ここで言う「わかり易い」とは、「意味」に落ちやすい、とか多義性の縮減というトラップをそなえている、というのでなく、「意味」という縮減性の罠に気づかせる、ということであり、同時に私の意識下に堆積した、複数のというより多数の、しかし無数ではない「文脈」のいくつかにつながるということである。

 鷲田は数多くの哲学者や文学者、美術批評家、文化史家、精神科医等の言説を引きながら、《顔貌》の謎を現象学的に解いていく。それだけではない。《表情》や《素顔》《化粧》《羞恥》、さらには《顔貌性》の正体に迫っていく。
 例えば、中井久夫が『記憶の肖像』でエリオットの「詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうへひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだ」という言葉を引きながら、手の形にこだわるふりをして中井の注意を手に向けさせることで、被写体・中井の顔から意識を取り除く手練の写真家の話をする部分を引用したかと思うと、羞恥心の発生機序を解説し、ウィルソン・ブライアン・キイのサブリミナル刺激を語った後、「被写体としての身体、映像としての顔とは、まさに陵辱された身体の跡、あるいは、陵辱されるべく差し出された顔の跡なのである」と綴る。続いてE・レヴィナスを引いて「ひと」という自己同一的なものの現前としての顔や《鏡》としての他者の顔を語り、それを三木清や宮川淳の諸テクストにつなげ、「自己同一性の間隙」から出現する「内面」へともっていく。さらには、ロラン・バルト『明るい部屋』を経由して、「顔とは政治的なものだ」と言うドゥルーズ=ガタリ『ミル・プラトー』へと逢着し、「あらゆる多義性を縮減し、同化し、単一の同一的な座標軸上に配分し、登録してゆく作用」「記号系への縮減」である「顔の社会的生産」について述べる。



 さながらディスク・ジョッキーならぬテクスト・ジョッキーだが、もちろん本書は他者の言説のパッチワークなどではない。鷲田自身の思想的生地があった上で、彼自身の思考の綾が他者の言葉や概念に貫入し、それらを縫い合わせている。
 とにかく解説を加える必要がないくらいローコンテクストで、要約するとしても要約からこぼれ出るものが実に勿体無く、しかも文庫本なのでローコストという、ただただ買って読むことをお勧めする以外にない書である。

 本書を読むに到った経緯をすべて語るわけにはいかないが、そもそもの発端は他でもない、高嶋晋一のパフォーマンスである。YCAMでは現在、コンタクト・インプロヴィゼーションで名高いスティーヴ・パクストンを取り上げる「Phantom Exhibition〜背骨のためのマテリアル」展を5月24日〜8月31日にかけて催しているが、この開催に合わせ、〈アート + メディア + 身体表現〉のテーマを表に出した新鋭2組のアーティストの作品による企画展「インターイメージとしての身体」(newClear 《大脇理智+Alessio Silvestrin》+高嶋晋一)を開催している。
 もう3週間前になるが、5月22日にはスティーヴ・パクストンの34年ぶりの来日/初来山の歓迎イベントとして、大脇と高嶋による身体表現パフォーマンスのデモがあった…。(続く)

暮沢剛巳『現代美術のキーワード100』を読む。 

 今年の4月に出た暮沢剛巳『現代美術のキーワード100』(ちくま新書)を読む。
 暮沢剛巳は、川俣正(編)による『セルフエデュケーションの時 代』で「アウトサイダー・アート」の項を担当していて、数ヶ月前にそれを知ったのだが、さすがにプロの評論家だけあって私のサイトの説明より遥かに洗練さ れた言葉で表現している。暮沢はネット記事や事典の項目等で現代美術のキーワードを解説してきた人。平易な文章で概説的に書くというのは、エラ い批評家は小ばかにしてやりたがらない仕事だが、社会・文化のさまざまな分野で専門化・細分化が進んだ現在、各界の事情を門外漢(=アウトサイ ダー)にも分かりやすく解説するテクニックは最もニーズが高いのではあるまいか。しかも暮沢の場合、ただわかり易いだけでなく、ときに示唆に富んだ解説も あってこちらの理解が深まる。
 例えばMoMAの初代館長・アルフレッド・バー・Jrが制作したモダンアートの動向マップの扱いにしても、20世紀前半は「ダダイズム」や「キュビズム」といっ たように「〜イズム」が使われていたのに対し、60年代からはほとんど「ポップ・アート」や「ミニマル・アート」など「〜アート」と呼ばれるようになった経緯は谷 川渥の本で知っていたが、これを受けて「自明性の喪失」−つまり既存の常識に照らせば誰も美術と認めないようなものを美術として扱うために「〜アー ト」と名指す必要があった、と補足していて、うまいなあ、と感心する。
 個別に見ていくと、項目によっては物足りない点やそうなのかなあ…と疑問に思う箇所、著者の関心バイアスを感じされる箇所にも遭遇するが、それは それ、理解の取っ掛かりなのだから、いちいち「目くじら立てないで」興味に応じて別の解説書を当たっていくのが正しい使い方だろう。



 なお、本書に「アウトサイダーアート」の項がなく、代わりに「アール・ブリュット」の項があるのはどういうことなのだろうか。私自身「アウトサイダー・アートの 世界」を立ち上げて何年か立った後、「「アール・ブリュットの世界」としたほうが良かったのではないか、英米語優位のグローバリズムに知らず知らず[微力 ながら]加担してしまったのではないか…」と思うこともあったが、セコい話で検索順位で高順位を獲得してしまうと無碍に変えるわけにもいかず、今では開き 直って放置状態である。アウトサイダーアートvs.アール・ブリュットの「言葉の政治闘争」は今も続いているのかもしれない。

 連邦美術計画やマイクロポップ、悪趣味、クール・ジャパン、日本という表象、脱構築の項が面白かった。デリダの「脱構築」は英文学者の由良君美が 訳語として考案したものとは知らなかった。

 ただ単にキーワードを羅列して解説しているわけでなく、「動向編」と「コンセプト編」に分けており、各項目も「概要」「詳説」「展開」の3つに分けて構成 している。
 ヘビーユーザーでない一般人にとって、ウェブの主な用途は、ショッピングと辞書だと聞いたことがある。ウィキペディアがいつのまにか大きな影響力をもって きたのもそんな事情が反映されている。しかし、ウィキも項目によっては情報の精度に欠けるところが見受けられ、ひとたびイイカゲンな記載に遭遇すると、 「やっぱりウィキだよねえ…」とウィキ全体への信頼が揺らいでしまう。
 そういう意味では、あらゆる分野が細分化される時代、信頼性の高い著者によるキーワード辞書は重宝で、学生時代は現代アートを追いかけていた けど最近は仕事が忙しくてそんな時間の余裕もないなあという人、アート関係の記事を書く若い記者、文化関係の広報を担当していて現代アート関係 の文章を書くのに基本的な素養を身につけておきたいと思っている人などにおススメである。