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『異端の統計学 ベイズ』(2)~ジョン・テューキーほか 

 『異端の統計学 ベイズ』(1)からの続き。

 チューリングの同僚、アーヴィング・ジョン・グッドは著者曰く、サヴェッジ(→wiki:Leonard_Jimmie_Savage)、デニス・リンドレー(wiki:Dennis Lindley)と並ぶ、1950~60年代のベイズ・ルネサンスを率いた"三羽ガラス"の一人。

1946年には、チューリングの弟子として彼の着想をまとめた『確率と証拠の重みづけ』第1稿を書いたが、発表は1950年。後述のように、グッドはプリンストン大学にあった暗号学のシンクタンク「国防分析研究所」で1年過ごした。

 ジョン・テューキー(→wiki)は1915年生まれ。ブラウン大学で化学の学士号(1936年)と修士号(1937年)を取得後、プリンストン大学ではトポロジーで博士号を取得。数学と科学の橋渡しをするデータ・アナリストとなった。
 第2次大戦中には、プリンストン大学でB-29の機関銃の照準に関わるオペレーションズリサーチのグループと仕事をしたが、ベル研究所のトップだったウィリアム・O・ベイカー(→wiki: William O. Baker)によると、テューキーは大戦中、エニグマの解読を手伝うチームに所属した。

 1945年末、フォン・ノイマンがプリンストン高等研究所のために電子計算機を設計した際、テューキーはコンピュータ・アーキテクチャや電子式の加算回路の設計を手伝った。
 1946年、クロード・シャノンと親しく、シャノンの「バイナリー・ディジット」に代わるものとして「ビット」という言葉を造った。なお、テューキーは線形計画法やANOVA(分散分析)、データ解析など数多くの用語をつくりだしたことで知られる。
 1948年、テューキーとクロード・シャノン、ジョン・R・ピアース(→wiki:John R. Pierce)は、共同で陰極線装置の特許を出願した。

 1951~56年に、マッターホルン計画を進めたフォレスタル・リサーチ・センターで管理者・軍のシステムアナリストとして在籍。
 プリンストン大学の統計学教授を務め、当大学で超極秘暗号学シンクタンク、「国防分析研究所」(IDA)を立ち上げるのに一役買った。1955年10月には、前述のアーヴィング・ジョン・グッドをイギリスに訪ねる(グッドは1年、IDAに所属することとなった)。いっぽう初の地対空ミサイルシステム「ナイキ」のために航空力学や軌道、弾頭の概略をつくり、(スピルバーグの映画『ブリッジ・オブ・スパイ』にも登場した)スパイ機U2機をつくるよう、アイゼンハワーに説得するために力を尽くした。

 52年頃?からCIAの科学技術諮問委員会と、ウィリアム・O・ベイカーが重要な役割を果たした国家安全保障局の科学諮問委員会に加わり、ソ連の暗号解読等に携わった。59年には米ソの核実験停止に関わる会議に派遣され、地震計の記録データを解析すれば地下核爆発と地震を区別できることを示してソ連代表をあっと言わせたという。(条約順守状況を相互確認できることがわかり、米ソは63年に部分的核実験禁止条約に調印)。
 ハーバード大学の統計学者フレデリック・モステラー(→wiki:Frederick Mosteller)との共著が多い。
 1960年の大統領選(ケネディ対ニクソン)で、テューキーはNBCに雇われ、世論調査を分析、見事にケネディ勝利を早期に確定した。この調査がきっかけとなり、ベイズの法則の威力や有効性が一部に知れ渡るようになったが、テューキーは具体的な調査方法に関して緘口令を敷いた。
 1980年にテューキーがNBCのコンサルをやめて以来、28年間、大統領選の世論調査にベイズ派の技法が使用されることはなかったが、538.comのネイト・シルバー(→wiki)が2008年11月の大統領選で階層ベイズモデルを使った。シルバーは49の州で勝者予想を的中させたことで高い評価を受けた。

 第17章は現在の話。「人間の脳もベイズ的に機能している」という話が興味深い。
 エメリー・N・ブラウン(→wiki:Emery_N._Brown)は、マシュー・A・ウィルソンとともにラットの脳が自らの位置情報を処理する過程をカルマン・フィルターで説明。
 ヒトは不確かで移ろいやすいこの世界で何とか生きながらえようと奮闘する。ところが実際にヒトの知覚や運動系が作る信号は不完全だったり曖昧だったり、変わりやすかったり、ランダムなゆらぎによって誤りを含んでいたりすることが多い。(中略)ベイズはこの紛らわしい世界に有益な理論的枠組みとして登場した。
 ケンブリッジのダニエル・ウォルパート(→wiki:Daniel Wolpert)は、テニスゲームでプレーヤーが弾むボールに関する事前知識と実際にやってくるボールに関する知覚データを組み合わせていることを明らかにした。脳は広範囲の可能性を記憶として蓄積する一方、それらにさまざまな確率を割り振っている。ウォルパートは、話すことから行動することまで、人間のあらゆる行動の基本にベイズ的思考法があると考える。生物の脳は、ベイズ的に考えることで世界の不確かさを最小限にするように進化してきた、と。


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『異端の統計学 ベイズ』(1)~チューリングほか 

 シャロン・バーチュ・グレインの『異端の統計学 ベイズ』(2013)を読む。

 21世紀に入った頃から?ロボット工学では「ブーリアンからベイジアンへ」というスローガンが囁かれるようになったが、いまやベイズ統計学は、認知科学や人工知能研究、神経生理学、社会学から巨額金融取引、Eコマースまで、数多くの領域で欠かすことができなくなった。

 本書はまず、発見者のトマス・ベイズにはじまり、中心極限定理の発見で名高い偉大な数学者ラプラスのエピソードへとつなぎ、ラプラス批判の波を経て、「主観」という言葉が「非科学的」というラベリングを招いた時代や、カール・ピアソンとロナルド・フィッシャーによる統計学の確立を語っている。そして、いわゆる「頻度主義」と熾烈な闘いを繰り広げたベイズ主義者たちの「活躍」を章毎に紹介しながら、「頻度主義」の圧倒的支配のなか、アカデミックな研究では伝統的に「うさんくさい」と片隅においやられていたベイズ確率が実際のところ、19世紀から軍事面(たとえば砲術分野)では使われており、大戦時にはオペレーションズ・リサーチや暗号解読の分野で有効な手段として重用されていたことを明らかにしている。

 4章ではチュ-リングを擁したブレッチリー・パークで、どれだけ暗号解読にベイズ手法が活用されたかを解説している。

 チューリングは暗号解読の際に、いくつか複数の仮説を立て、日々集まってくる情報で、仮説の確信度合いを更新していったが、これはまさにベイズ更新にほかならなかった。
 彼は、エニグマ暗号のメッセージを解読する過程で、手作業でボンブの負荷を減らす方法として、労働集約的でベイズ的な方法を思いつき、バンベリスムスと名づけた。「証拠の重みの変化を表す最小の単位」としてバンという単位を編み出したが、著者の見解によると、これは基本的にシャノンの、ビットという情報尺度と同じものだった。シャノンの情報理論によると、ベイズ式に含まれる事後確率が事前確率が同じくらいなら、得られた情報は少ないということになる。(ちなみにビットの名付け親、ジョン・W・テューキーに関しても第13章で取り上げている)。
 チューリングは断片的な情報が次から次へと集まってくる状況下で、推測が正しい確率がどれくらいあるのか見積もるため、バンを用いて複数の逐次仮説を判別していった。その意味で、彼は「逐次分析(→wiki:Sequential analysis)の先駆者だった。「逐次分析」は同時期、アメリカでA・ウォールド(→wiki:Abraham Wald)が工業製品部品の検査のために独自に開発。
(なお、アンドルー・ホッジスはチューリングの伝記『エニグマ』上巻p324で、C・S・パースが1878年に、科学的実験の役割は、一つの仮説の尤もらしさに対して、それを増減させる「証拠の重み」を与えることだという考えを説いたことを示している)。
 チューリングの同僚には、後に人工知能の先駆者となるドナルド・ミッキー(→wiki)や、暗号学の権威となるアーヴィング・ジョン・グッド(→wiki:I.J.Good)らがいた。

  ドイツがソ連に侵攻すると、エニグマとは異なる新しい暗号が用いられるようになり、イギリスではタニー・ローレンツ暗号と命名された。チューリングは1942年7月、タニー・ローレンツ暗号機のホイールを取り巻くカムのパターン数を減らすためにチューリンゲリーと呼ばれるベイズ的な手法を編み出す。
 ただ、エニグマのほうも四つ目のホイールが増設され、42年にはボンブによる解読作業も暗礁に乗り上げ、Uボートは大西洋上で暴れまわった。しかし、42年末、解読の要になる暗号表の載ったコードブックを獲得して、バンベリスムスの能力がフルに活用できるようになった。
 ケンブリッジでのチューリングの数学教官マックス・ニューマンは、タニー・ローレンツ暗号解読を自動化したいと考え、ミッキーやグッドと新たな機械を作り始める。エンジニアのトマス・H.フラワーズ(→wiki)はガラスの真空管を使ったらどうかと提案。ニューマンの後押しを得てイギリスの電話網を運営していたポストオフィス・リサーチステーションで、世界初の大規模な電気式デジタル計算機コロッサス第1号をつくり、44年2月5日初めてメッセージを解読した。
 ただ、(最近、1945年7月1日に、日本への原爆投下に最終同意署名をした旨の秘密文書が明らかにされた)チャーチル首相は戦後、自分たちがタニー・ローレンツ暗号を解読できるという事実をソビエト政府に知らされたくないために、自国の暗号解読を極秘事項とした。
 チューリングは戦時中の後半、イギリス情報局秘密情報部のラジオセキュリティサービスで音声暗号に関わる研究をおこなっていた。45年には国立物理学研究所に移り、初期コンピュータACEの設計を進める。1948年、ニューマンがイギリスの原子爆弾のために、世界初のプログラム内蔵型デジタル計算機をつくろうとしていたマンチェスター大学に招かれ、Manchester Mark Iのソフトウェア開発に従事。また、1950年10月には、「Mind」誌に人工知能の問題を提起し、後にチューリングテストと呼ばれるものを提案している。

 本書では、チューリングの晩年の悲劇の背景についても触れている。ソビエトの原爆実験(1949)や中国共産党による中華人民共和国の建国(1949)により、アメリカではマッカーシーと非米活動委員会の「赤狩り」に代表される極度の警戒感・緊張感が生じる。イギリスでも1950年に、上流階級に潜んでいたスパイ、同性愛者ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがソビエトに逃亡。さらに二人に逮捕の手が迫っていることを告げたのは、ケンブリッジ卒業の同性愛者で王室づき芸術アドバイザーでもあったアンソニー・ブラントだった(→wiki:ケンブリッジ・ファイヴ)。英米の政府は同性愛のスパイ・スキャンダルの発生を極度に恐れ、国家機密に深く関わるチューリングに対する警戒心が過剰となり、結果的に彼の早すぎる死を招くこととなった。

(続く)