映画『ライオンは今夜死ぬ』 

 YCAMで諏訪敦彦監督の新作映画『ライオンは今夜死ぬ』を観る。

 公式サイトはこちら

 予告編での子どもたちの合唱シーンといい、選曲といい、正直ちょっと躊躇したが^^;、結果的に観て正解だった。

 コート・ダジュールの眩しい陽光と、子どもたちの明るい表情は、死がまとわりつく暗鬱な老境のイメージをオフセットしている。子どもと動物が出てくる映画は警戒せよ、という言葉がよぎるが、ほとんど気にならないのは、南仏のほどよい湿度を含む陽光を見事に刻んだ映像の力だろう。撮影はトム・アラリ。全体的に、薄い水色や藍色といった青系統の色が強調されていて、女性の衣服の色が壁の色を反映する。



 映画は地中海をバックにした映画の撮影シーンから始まる。年老いた俳優のジャン。演じるのはトリュフォーやゴダールの映画への出演で知られるジャン=ピエール・レオ(→ wiki)。  トリュフォーの『アメリカの夜』、ゴダールの『軽蔑』など、二人の監督には映画撮影そのものを題材にしたメタ・シネマがあって、レオは後者には出演していないが、なんとなくそれらの映画を観た(決して同時代ではないが)時代のことを想い出す。

 ストーリー的には、年老いた俳優が過去に愛した女性の幽霊に取り憑かれる話と、子どもたちが映画制作する話が折り重なってできている。それこそ、子どもたちが映画撮影する場面を撮影する、つまり、メーキング映像をみんなで観る、という入れ子状の場面や鏡をうまく用いた撮影法まで見せてくれて、シネマトグラフの伝統への深い愛情が感じられる。

 そもそも映画の撮影地の多くは、リュミエール兄弟の最初期映画(→ブログ)で知られる南仏ラ・シオタだという。

「死は生がつくる影だ」など、主人公がときおり口にする死にまつわる「名言」もちょっと良い。



 この日はあとスタジオBで、山口に8か月滞在したという三宅唱(→wiki)とboid樋口泰人の対談。そして「ワールドツアー」。観客を挟んで三面パネルを二つ配置し、三宅やYCAM関係者がスマホで撮影した1万カット以上の映像のなかから数百選んで6面に映し出す。
 誰もがスマホのカメラで無数に動画を撮影できる時代、映画づくりとは選択することだという残酷な真実を浮き彫りにしているかのようだ。『THE COCKPIT』に出演していたOMSBのライブもあり。

 文中敬称略。

スポンサーサイト

映画『リュミエール!』 

 YCAMで映画『リュミエール!』をみる。

 本作はリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」を用いて、1895年~1905年に撮影された1422本の短編映画のなかから108本を選んで紹介するという作品だ。当時は、50フィート(約17メートル)というフィルムの長さにより、撮影時間は約50秒に限られていた。

 監督・脚本・編集・ナレーションは、リュミエール研究所の所長でカンヌ映画祭総代表のティエリー・フレモー。インタビュー記事(REALTOKYO CINEMA 2017-11-06)で自身が言うには、「監督」ではなく「構成&ナレーション」だが、108本もの短編映画を11章の章立てで物語化するお手並みや、映画を見る大切なポイントをユーモラスに示すナレーションは、まさに映画史映画の「監督」の称号にふさわしい。

 プロデューサーは映画『ラウンド・ミッドナイト』等の監督として知られるベルトラン・ラヴェルニエ(→wiki)。

 冒頭では、映画の歴史を語る際に欠かせない、1895年製作の『工場の出口』と『ラ・シオタ駅への列車の到着』が紹介される。もともと肖像画家だったリュミエールの父親は、リヨンで写真館を開いていた。

 約120年前、19世紀末~20世紀初頭の都市の様子が動画として記録されているという事実そのものが奇跡的だ。世紀末のパリでは自動車は走っていないが、かわりに馬車や路面電車が走っている。都会では野良犬の姿さえ見かけなくなった現在からすれば、馬や犬といった動物が数多く街なかに暮らしていた時代があったことに、あらためて驚いてしまう。

 シネマトグラフは、当時の人びとの暮らしを映し出す。

 川沿いに並んで洗濯する女性たち。古い家屋の壁を崩す労働者たち。袋跳び競走やペタンクに興じる人びと。ジョゼフ・クレルモの曲芸。蒸気や煙や舞い上がる埃。「金魚採り」は、当時すでに中国の観賞魚の習慣がフランスに伝わっていたことを物語っている。「パリ託児所の行列」や「露営のダンス」では、人物のリズミカルな配置と動きが快い。

 固定カメラだけでなく、移動撮影もすでにおこなっている。1897年のセーヌ川にボートを浮かべて撮ったエッフェル塔の「パノラマ」(移動撮影)。気球からの空撮はブレがヒドイが、実験としては意味があった。

 すべてがドキュメンタリー映画というわけではない。出演者はときに演技を試み、演出もあったことがナレーションで伝えられる。

 都会だけではない。リュミエール家の別荘があったシャモニーでは、登山者の姿も撮っている。レジャーとしての登山は、映画と同じく19世紀後半に生まれた。海水浴もしかり。ほかにも、1900年パリ万博で披露された動く歩道。アゼルバイジャン・バクー油田のもうもうと油煙を上げる様子、金角湾から見えるイスタンブール旧市街などなど。

 リュミエール兄弟は、シネマトグラフの事業化と普及に乗り出した。シネマトグラフは、撮影カメラと映写機、プリンターからなる複合機だ。二人は専属カメラマンにシネマトグラフをもたせて世界各国に派遣し、撮影と上映をおこなうよう指示した。この時代は交通と通信の飛躍的発達により、欧米で海外旅行者や移民が急拡大する時代でもあった。

 アレクサンドル・プロミオはアメリカに渡り、フェリックス・メスギッシュやフランシス・ドゥブリエらは帝政ロシアを訪れた。

『リュミエール元年』(蓮実重彦)によると、リュミエール社の社員だった彼らのほかにも、ガブリエル・ヴェール(1871~1936)のような独立したカメラマンがいた。ヴェールはアメリカやメキシコ、キューバ、コロンビア、ヴェネズエラ、マルチニク諸島、英国、カナダ、日本、中国、ベトナム、カンボジアを巡った。日本を訪れたのは彼だけでなく、コンスタン・ジレルも日本を訪問している。
 25歳のヴェールは1896年7月、シネマトグラフを携え、ル・アーヴルから撮影と上映の世界旅行に乗り出した。本書には彼が母親にあてた何通もの手紙が掲載されている。19世紀末の日本の印象が記され、日本で撮影した写真(剣術試合、人力車、踊り、芝居など)をみることができる。

 映画に戻ろう。

 ナレーションは、コメディ映画も山岳映画も、メキシコのスナッフ・フィルムも日本のチャンバラ映画も、ヨーロッパの植民地主義を告発する映画も、ぜーんぶリュミエール兄弟が元祖です!と主張するかのようで、フランス的文化中華思想を自嘲的に?語っていて、なんとも微笑ましい。プロミオが渡米したとき、エジソンが彼を国外追放させようと企てたというエピソードまで挟んでいる(笑)。エジソンはキネトスコープを発明し、リュミエール兄弟と映画の「父」の座を競い合った。「元祖争い」そのものをユーモラスに表した映画まで見せる。フランス映画のアンチ・ハリウッド的姿勢は、それ自体がある種のキャラであり、芸風なのだ。

 映画の起源を語り始めるときりがない。映画の技術史という点では、写真銃を発明したエティエンヌ=ジュール・マレーや連続写真のマイブリッジ、ロールフィルムを発明したイーストマン・コダックの業績に触れないわけにはいかない。カメラレンズの起源にまで拡大すると、ガラスの起源まで語らなければならなくなる。スクリーンに映像を投影するということでは、ヨーロッパのマジック・ランタン/ファンタスマゴリーの長い歴史がある。

 エジソンのキネトスコープは、箱の中をのぞき込むスタイルであり、「現在の撮影カメラや映写機と基本的に機構が同じもので、スクリーンに投影して集団で観る」という意味では、リュミエール兄弟に軍配があがりそうだ。