ナショナルジオグラフィック2018年2月号 

「VISIONS写真は語る」は、フィリピンから東京に来て20年たつというダニー・ドゥンゴ(Danny Dungo)の写真と文によるトーキョー・デイズ。2014年にドローンを飛ばして撮ったという井の頭恩寵公園の写真が良い。満開の桜樹と水面を埋め尽くす花びらのピンク、ブルーシートやグリーンシート、シートで花見の席取りをする人びと。花見というと、あのブルーシートの醜悪さが桜の記憶にどうしても伴って、桜そのもののイメージが悪くなったもんだが、こうやって俯瞰して観ると、それなりに愛すべき日本の慣習なのだよな、と感じる。見開きの銀座の写真は、イラストっぽく処理してる。

 ラブ・ディアスの『立ち去った女』(→ブログ) を観て間もないこともあって、ちょっと関心を持ったのだが、在日フィリピン人(→wiki)の人口は約22万人。フィリピン系日本人の数は約10万人。人口は両国ともざっくり言って約1億人なのに対し、日本は少子高齢化傾向にあり、フィリピンは人口増加を続けている。対照的な両国の人びとが今後、どのように関係を深めていくのか興味深い。

 探求のトビラでは、低高度から詳細画像を得る測量技術測量技術ライダーで撮った写真。

 パトリシア・エドモンズの文は「極限都市」なるプロジェクトを続ける写真家スティーヴ・ユンカーの撮った「世界一寒い都市ヤクーツク」を扱っている。この度の大寒波で、マイナス50度というニュースを耳にして愕然としたが、当地の最低気温の記録はマイナス64度!。

 特集の「善と悪の科学」は、冒頭8ページにわたって銃乱射・殺人が発生した場所のモノクロ写真。倫理的なテーマを、科学的知見とジャーナリスティックな取材・文章・写真・イラストによって浮き彫りにしている。紹介する固有名は暴力の現場で人助けをした、ごく普通に暮らす路傍のヒーローたち。このあたりはクリント・イーストウッドの新作映画『15時17分、パリ行き』の影響かな?
 音楽家や歴史家は概して共感指数(EQ)が高いのに対し、高度に体系立てて考える理系専門家のなかには「共感反応が平均値を下回る人が少なくない」。共感回路の不活性化の理由としては、約7割が遺伝起因という推計あるが、脳の損傷や長期間のストレス、あるいは戦争中のように、集団が敵対心や優越感をもつ傾向が強まると、共感の心が失われることがある」。「サイコパス」や「自己犠牲」のブレインイメージング。

鳥の知能」。ケンブリッジのニコラ・クレイトンは「鳥類と哺乳類では脳の構造が異なる」。鳥類の脳にはヒトの大脳皮質に相当する「外套」あり。長期記憶と意思決定のもとになる神経回路は鳥類と哺乳類で似ている。カラスと類人猿は共通の祖先から枝分かれしたのは3億年以上前だが、同じように複雑な認知能力を発達させたのは、似たような状況に置かれていたからだろうという。社会集団の形成には、仲間の動機や欲求を理解することが欠かせない。食べ物の加工に道具使うのはチンパンジー、オランウータン、カレドニアガラス。

中国の胃袋を満たす」の冒頭見開き写真は雲南省の広大な棚田。細分化された農地というのは日本と共通。昆明郊外の新興住宅街とビニールハウスが広がる景観は圧倒される。「欧米化する中国の食」。日本のケースと比較するデータがあればよかったな。

nationalgeographic.jpではオリジナル連載も満載。

スポンサーサイト

『ユーラシアニズム』(チャールズ・クローヴァー著) 

『ゲンロン6』の予習に読め、と以前、東浩紀のツイッターにあったので、チャールズ・クローヴァーの『ユーラシアニズム』を読んだが、これはヤバイ。オモシロ過ぎる。ロシア情勢を扱った本としては、佐藤優の『自壊する帝国』が面白かったが、それ以降の時代もカバーしている。重なっているところもあるので、併せて読むとよいだろう。

 咀嚼が足りないゆえチト荒っぽいが、途中まで短くまとめてみよう。

 翻訳・解説者の越智道雄の解説によると、ボリシェビキ革命はロシアの甚大なる西欧コンプレックスの克服手段であって、ソ連崩壊により自信を喪失していた時代のロシアで、プーチン政権が西欧超克の次なる「手段」として採用したのが「ユーラシアニズム」だ。

 この構想はニコライ・トルベツコイ(→wiki)とロマン・ヤコブソンが最初に策定し、レフ・グミリョフ(→wiki)がそれを拡大し、アレクサンドル・ドゥーギン(→wiki:Alexander Dugin)とプーチンが彼らの遺産を「政治目的に利用」した。「」内は解説者の言葉で、プーチンはともかく、ドゥーギンが「利用」したかどうかはわからない。

 トルベツコイは、第1次世界大戦とボルシェヴィキ革命によって、何世紀にもわたって統治してきたハプスブルク帝国とオスマン帝国、ロシア帝国が瓦解する激変のなかで、『ヨーロッパと人類』を書き、普遍主義や進歩というヨーロッパが強く主張してきた概念を攻撃し、「ユーラシア文化集合体」概念にもとづくユーラシアニスト運動を発足する。これに共感したピョートル・サヴィツキー(1895-1968)は、自分たちロシア人は「ヨーロッパ人でもアジア人でもない」ユーラシアンである、と強く主張し、ロシア正教に基づくユーラシア国家の建設を提唱したが、スターリン体制では黙殺された。

 歴史・人類学者のレフ・グミリョフ(1912-1992)は、匈奴とフン族、モンゴル諸族の関連性を研究していたが、スターリン批判で収容所送りとなった。1970年前後、エトノス(≒民族)こそ世界史の最も基礎的な概念であり、民族集団への自己同一化は「極めて普遍的要素」と考えて「民族創成」の理論を唱えた(p206)。彼はペレストロイカの最中ではリベラル改革派の強敵となったが、台頭するナショナリストと共産党強硬派の味方とされた。ロシアのエリート層は、グミリョフの理論を「ナショナリズムと国際主義を総合したものと受け止めた」(p238)。

 アレクサンドル・ドゥーギンは1962年生。80年代半ば頃は、ユーリー・マムレーエフ(→wiki)を中心としたモスクワの地下サークル「ユジンスキー・サークル」に出入りし、ハンス・ジーヴァース(ナチのアーネンエルベ(→wiki)の事務長ヴォルフラム・ジーフェルスに由来)という名で、ギターをかき鳴らして『マルドロールの歌』風のオカルト歌曲を歌うようなスキゾ・キッドだった。

 ドゥーギンは1986年に、(後にKGBとの関係が取り沙汰された)ドミトリー・ヴァシーリエフと知り合い、短期間だったが、彼が率いるパーミチャ(後の民族愛国戦線)に所属した。

 グミリョフの「ユーラシア」概念が巷で人気を博していた80年代後半、ドゥーギンは1989年に、『先制の手法』と『福音の形而上学』という2冊の本を刊行した。
 『先制の手法』はルネ・ゲノン(→wiki)に影響を受けたユリウス・エヴォラ(1898-1974)の「伝統主義」理論をテーマにしたエッセイ集。ユリウス・エヴォラ(→wiki:Julius Evola)の名は日本ではなじみが薄いが、ヨーロッパでは新右翼の霊的マスターとして知られ、かのスティーブ・バノンも演説でエヴォラの言葉を引用している(*1)。
 『福音の形而上学』はロシア正教の文脈に沿ってゲノンとエヴォラの伝統主義を書き直したもの。ドゥーギンによれば、それらは思いがけず各10万部ずつ売れたという。
 この売り上げによって彼は、1990年~92年にかけて何度も西欧に旅行し、フランスのアラン・ド・ブノワ(→wiki: Alain de Benoist)ほか「極右」と呼ばれる思想家・活動家と交流し、カール・ハウスホッファー(→wiki)等の地政学やカール・シュミットや「極右」イデオロギーを吸収する。その後、ドゥーギンは……。

 これくらいにしておこうかな。

 現実なのであまりオモシロがっててはいけないが^^;、ドゥーギン以外にも、マムレーエフの親友でソ連軍部の広報担当アレクサンドル・プロハーノフ、エドワルド・リモノフ(→wiki)、クレムリンのスピンドクター、グレブ・パブロフスキー、元KGBの特殊部隊で非合法活動を手掛けていたピョートル・スースロフ、ゼロ年代後半以降のクレムリンの"黒幕"でドストエフスキーの稀覯本に目のないウラジスラフ・スルコフ(→wiki)などキャラの立った人物が続々と登場する。著者の軽妙洒脱な筆致によるところが大きいが、いずれも人文的教養に溢れる策謀家ばかりで、ロシアの現実政治はあたかも生きたポストモダン文学だ。

 ドゥーギンは90年代を通じてロシアにおける地政学の専門家に育ち、ゼロ年代にプーチン政権と深く関わることになる。ロシアがソ連崩壊によって失った中央アジア諸国を再び統制する、つまり失地回復をはかるために、マルクス主義に代わりうるバックボーンとして、ユーラシアニズムや地政学の「ランドパワー対シーパワー」の理論を要請したと言えるだろう。
 日本では80年代に倉前盛通の『悪の論理』が読まれたが、地政学は、アカデミーの世界では一部の例外を除き、ほとんど顧みられることがなかった。それは"異能の経産官僚"中野剛志が後述の書の冒頭で述べたように、「古めかしく、禍々しいニュアンス」を伴った言葉だった。しかし、奥山真司らがゼロ年代頃から地政学や戦略学に取り組んでおり、中東情勢の混乱や中国の台頭を背景に、ロバート・D・カプランの『地政学の逆襲』やエドワード・ルトワックの戦略学の本が話題に上ったのが2014年。2016年3月には佐藤優と山内昌之が『新・地政学』を出し、12月には中野剛志が地政経済学を提唱する『富国と強兵』を刊行して話題となり、今年に入って、数多くの『地政学』関連本が書店の棚を賑わせることとなった。

 ドゥーギンを日本に置き換えて妄想するなら、荒俣宏や中沢新一や倉前盛通に夢中になった「新人類世代」の文化的ヒーローが、スメラ学塾(→ブログ:原節子の死からスメラ學塾へ)の所産や地政学や古神道や『契丹古伝』を自己流に解釈し、中国の台頭に抗うために、ハンガリーやトルコ、中央アジアの国々、モンゴルで汎テュルク主義(→wiki)を掲げる人びとを焚きつけて「テュルク諸国―モンゴル―日本」枢軸を提唱し、防衛省や外務省で勉強会の講師として招かれるようになり、総理となった防衛省出身のカリスマ政治家の思想的メンターになる、みたいな話ではないか。

 1985年に平河出版から出た荒俣宏の『99万年の叡智~近代非理性的運動史を解く』では、ハウスホッファーやトゥーレ協会(→wiki)、霊的国防・霊的革命について語っているし、翌86年には長澤均の『倒錯の都市ベルリン 1918~1945』が出版されている。1992年には荒俣監訳でマイケル・フィッツジェラルドの『黒魔術の帝国』が刊行。70年代から80年代にかけて、ヨーロッパやロシアではナショナリズムとオカルトが入り混じったスピリチュアル保守/反理性主義めいた考え方が、ある程度の知的階層の間でも流行していたと推測できる。
 ドゥーギンはその申し子だ。
(※ジョスリン・ゴドウィンが『北極の神秘主義』で言うには、ナチスとオカルトの繋がりを[事実と想像を織り交ぜて]示した最初の本は、1960年にフランスで初版が出たルイ・ポーウェルとジャック・ベルジェの『魔術師の朝』。本書は1975年に日本で『神秘学大全』 というタイトルで訳書が出版された。ルネ・ゲノンの『世界の終末―現代世界の危機』と『世界の王』の訳書が日本で出たのは、1986年~87年。ちなみに、ゲノンはナチが採用する「アーリア主義」を1921年の時点で批判し、その危険性を警告していたという(by漆原健))

"ポストモダン右翼"を標榜した福田和也が真剣にオカルトや地政学に取り組んで、強力な右翼イデオローグになっていれば、とか、オウム真理教(こっちはオカルトは十分w但し薄っぺら)が日本やロシア、中央アジアの民族派と連携を深め、もっと戦略的にコトを進めていたら…などと無責任に90年代歴史改変ストーリーを想像してしまう。オウムは90年代前半のロシアに浸透して3万5千人もの信者を獲得したし(本書を読んでその理由がよくわかった)、ロシアから武器も調達していたし、自衛隊員の信者獲得に積極的だった(*2)。当時もロシアとの怪しい噂があれこれ飛び交っていたが、ドゥーギンは当時、ハウスホッファーに倣って英米大西洋連合に対するドイツ―ロシア―日本枢軸を構想していたというから、ひょっとしたらひょっとしたかも、だ。ドゥーギンのユーラシアニズムはオウムの教義と通じ合うところがありそうだが、オウムは日本の民族派や伝統主義者の支持を得ることができなかった。

 90年代の日本はバブルが弾け、阪神大震災が起こったが、中国や朝鮮半島は現在に比べるとまだ、右派にとって「脅威」と呼べる存在ではなかったので、ナショナリズムが先鋭化せずに済んだと言えるかもしれない。とはいえ、現在でも油断は禁物。日本の脆弱な民主主義の土壌では、容易にディープステイト(軍や治安機関が裏で支配する体制)に陥ってしまう危険性を秘めている。民主主義が脆弱なのは日本に限らないが、日本では過去、軍事政権(武家政権)が長期にわたって統治し、「武士道」という独特の美学/倫理を育成したという伝統をもっている。軽薄な民衆の集合知に依存する民主主義を特権化する必要はないと主張する者は後を絶たない。

 ゲンロン6では、ドゥーギンの文章が読めるらしい。

【追記 2017.9.16】
 佐藤優と魚住昭の対談本『ナショナリズムという迷宮』で、佐藤優が、オウム真理教に対するフョードロフ(→wiki:Nikolai Fyodorovich Fyodorov)の影響について語っていたのを発見。フョードロフはブラヴァツキー夫人と同時代の人。ちゃんと調べてないが、このあたりのオカルト/陰謀論は、英露間のグレートゲームと深い関わりがあるように思う。



 (*1)英wikiによると、ミルチャ・エリアーデ(→wiki)はエヴォラの親友の一人で、1930年代にルーマニアの反ユダヤ的極右組織・鉄衛団(→wiki)を支持していたとあるが、『エリアーデの回想』でチェックしたところ、彼は2回しかエヴォラに会ってないという。ただ、書き方からして当時からエヴォラとの関係が取りざたされていたことが暗示される。事実はどうなのだろう?

(*2)ドゥーギンと親しかったエヴゲニー・ニキフォロフが、当時のインテリゲンツィアの「創造的生活の遍歴」について言うには「まずヨガ、次はサンスクリット研究、それから新約聖書だ。当時はこれが定番だった。精神的に成熟できたのは、その後だ。誰一人、最初の手がかりなんかつかめはしない。KGBですら、空手は宗教だと信じ込んでいた」(p258)。  

ルネ・ドーマルと〈グラン・ジュ〉 

 ランス美術館展(→ブログ)で〈グラン・ジュ(大いなる賭け)〉"に参加したヨーゼフ・シマ(Josef Sima 1891-1971)の絵画に出逢ったので、数年前に出た『大いなる酒宴』(風濤社2013)の解説をもとにルネ・ドーマル(Rene Daumal)と〈グラン・ジュ〉についてまとめておく。

 風濤社によるシュルレアリスムの本棚は、豊饒なシュルレアリスム運動の所産から日本ではあまり知られてこなかった周辺域の実験的表現を紹介する活動をおこなっているようだ。

 本書には約100ページに及ぶ解説がついていて、かつて読んだ『類推の山』解説で得た情報を更新してくれる。

 ルネ・ドーマルは1908年3月16日、アルデンヌ地方の小村ブルジクールに生まれた。父親のレオンは師範学校の教員だったが社会主義活動のために小学校教員に降格され、後に徴税官になった。
 1914年の第一次大戦勃発に伴い、ドーマル一家は住居を転々とした。何度も転校を余儀なくされたルネは、成績が良かったため、1922年にリセ第3年次(中学3年生)の途中で、ランスのリセ・デ・ボンザンファンに転校。そこでロジェ・ルコント(Roger Gilbert-Lecomte, 1907-1943)等3人と知り合い、「サンプリスト兄弟」と名乗り、秘密結社めいたグループ活動を行う。マラルメやランボーやアルフレット・ジャリを愛読し、神秘思想や東洋思想、オカルティズム、サタニズムに耽り、危険で実験的な「遊戯」を実践した。たとえば「死の淵まで赴きながら明晰に目覚めたままでいることを」に挑戦するなど。

 1925年、ドーマルはバカロレアに合格し、パリのアンリ4世校の高等師範学校・入学準備クラスに入る。(仏語wikiによると、ここでシモーヌ・ヴェイユ(→wiki)と知り合った)。
 しかし、事故により師範学校への入学は諦める。パリに移住後も「サンプリスト兄弟」たちとは往復書簡を交わし、休暇の際にはランスに戻っていた。彼は当時、ランスにおける恩師ルネ・モブランが進める網膜外視覚の実験に協力し、指先で事物を識別する訓練をおこなっていた。

「サンプリスト兄弟」のメンバーは徐々に増えていき、なかにはスポンサーを買って出る大人たちも現れた。その一人がボヘミア出身のヨーゼフ・シマ。本書解説には、シマによるルネ・ドーマルの鼻のない肖像画が小さく載っている。彼はドーマルより15歳年上で、自分のアトリエをグループの活動のために開放した。

 1927年にはシマのアトリエで後に生涯の伴侶となるヴェラ・ミラノヴァ(1905-62)と出会う。ヴェラはシベリア出身のユダヤ人で、当時はヘンドリック・クラマーの妻としてアメリカから渡ってきたところだった。翌年には、すでに『描かれた闇』等を出版していた神秘主義詩人アンドレ・ロラン・ド・ルネヴィルも加わる。

 彼らは1928年6月に〈グラン・ジュ(Grand jeu)〉――大いなる賭け――という雑誌を創刊する。タイトルの由来は諸説あるが、私が気に入ったのは、19世紀前半~20世紀前半にイギリスとロシアがアジアで繰り広げたグラン・ジュ(→wiki:グレートゲーム)説。ドーマルとルコントはキプリング(→wiki)の小説『少年キム』を愛読していた。
 ドーマルの紹介文によると、〈グラン・ジュ〉は文芸誌でも美術誌でも哲学雑誌でも政治雑誌でもなく、本質的なもののみ探究する場であり、すべての教条を否定する「教条破壊(カス・ドグム)」を掲げた。基本理念は「反・個人主義」で、個人的なエゴや欲望を「断念」することによる解放をめざした。

 本書解説より引用。
「創刊号におさめられたドーマルのテクスト「希望なき自由」および死後刊行の「反逆とアイロニー」に示されているように、〈大いなる賭け〉における「断念の哲学」の過激さは、ダダやシュルレアリスムのような偶像破壊的な過激さとは質がちがう。そこにはむしろ、ストア派の賢者や宗教的な殉教者、あるいは「見者の手紙」のランボーにおける自己放棄の激しさがある」。

 ドーマルは「希望なき自由」に「たった一つの解放は、あらゆる行為に、自分を全身的に捧げることだ」と書き、『大いなる酒宴』でも、語り手が「いまこの瞬間のことを考えるんだ」と自分を叱咤する。(おそらくこれは彼がヒンドゥーの聖典『バガヴァッド・ギーター』など東洋思想のなかから学んだ心得だろう。仏教的メディテーションから生まれたと言われる昨今流行りのマインドフルネス(→wiki)にも通じる)。

 アンドレ・ブルトン一派と〈グラン・ジュ〉の抗争劇についてはオモシロ過ぎるのでここでは記さない。本書を購読すべし。

 新フランス評論」編集長のジャン・ポーランは〈グラン・ジュ〉創刊時よりその重要性に着目し、とりわけドーマルを高く評価していた。

 1932年、アラゴン事件で彼を救うための嘆願書にルネヴィルが署名を拒んだことをきっかけにグループが二つに割れ、同年11月30日の会合をもって〈グラン・ジュ〉は事実上解体する。崩壊までの経緯は谷昌親『ロジェ・ジルベール=ルコント』に詳しい(らしい)。

 ドーマルの生涯における大きな転機の兆しは、〈グラン・ジュ〉崩壊の前にあった。

 1930年頃、ドーマルはシマの紹介でアレクサンドル・ザルツマンと知り合う。ザルツマンは『類推の山』に登場するソゴル師のモデルと言われ、ジョージア(旧名:グルジア)出身の貴族の末裔で、大神秘家グルジェフの弟子だった。ドーマルは、クラマーと別れたヴェラとともにザルツマンを通じてグルジェフの教えを学んだ。
 1934年5月にザルツマンは亡くなったが、同年10月から36年4月までジュネーヴにあるザルツマンの妻、ジャンヌの学院でヒンドゥーの伝統や学問を吸収した。
 1935年、ドーマルの詩集「反=天空」がジャック・ドゥーセ賞を受ける。同年、ヒンドゥーの詩学を踏まえた重要な詩論「詩の本質的な性質について」を執筆。『大いなる酒宴』の脱稿もこの頃だという。

 翌36年5月からセーヴルにあるザルツマン夫人のグループで共同生活を送る。この頃、グルジェフ本人にも出会っている。ただ、過酷な身体訓練と禁欲を伴う修行がたたり、ドーマルは左耳の聴覚を失い、健康上の問題を抱えるようになった。
 1939年夏、高地アルプスのペルヴーで『類推の山』の執筆を開始。当時は、老子の『道徳経』に啓示を受けていた。第2次大戦がはじまり、ヴェラがユダヤ人であったことから、健康問題を抱えたまま逃亡生活を余儀なくされる。

 1943年10月にパリに戻るが、闘病生活はその後も続いた。
 1944年5月21日、ドーマルは『類推の山』を未完のまま遺して他界する。



 追記【2017.9.24】
 シモーヌ・ペトルマン(→wiki)が著した『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ』Ⅱによると、1941年のはじめ頃、ヴェイユは南仏のル・ポエ村でドーマル夫妻と会った。「ドーマル夫妻は、ヴェイユ一家と同じ家に住んでいた」(p300)。彼女はドーマルの手助けでサンスクリット語を学ぶとともに、サレ訳の老子『道徳経』を読んでいたという。
 シモーヌ・ヴェイユはドーマルが他界する9か月前、1943年8月24日に肺結核で亡くなった。34歳だった。