アクショニズムあるいは自由へのオブセッション 

 ウィーン美術史美術館といえば恐らくドイツ語圏でも最大規模の美術館だろう。中世から20世紀初頭に至るまで神聖ローマ皇帝や各国の 国王を数多く輩出したハプスブルク家の美術コレクションがぎっしり詰まっている。
 その美術史美術館の道路を隔てた向かい側は、美術館や文化施設、ガーデンレストラン、カフェ、店舗が40以上も立ち並び、ミュージア ム・クォーター(MQ)と呼ばれている。アートが文化の中心に据えられ建築や先端ファッション、グルメと密接に結びつく文化の形は、一般 人のアートへの関心度に雲泥の差があるとはいえ、都心で美術館が増えてきた東京も大いに見習って欲しいものだ。
MUMOK MQ内には主要な美術館が2つある。エゴン・シーレのコレクションで有名なレオポルド美術館とMUMOKー(Museum Moderner Kunst Stiftung Ludwig Wien)―近代美術館ルードヴィヒ財団ウィーンである。MUMOKは正面から見て右手にあり、設計はオルトナー&オルトナー(Ortner & Ortner)。上掲写真のように濃い灰色の御影石を貼りつけた特徴的な建物だ。
 エロティック・アートを数多く展示し、ある展示会では全裸または水着着用で来館した人を無料にしたレオポルド美術館もなかなか「変」 だが、このMUMOKもかなりイッている。今年の3月から6月にかけては前回紹介したイヴ・クラインの展示会を開いているし、過去にはアントナン・アルトーのフィルム&デッサン展や過剰な反美学に耽るマイク・ケリーの“UNCANNY”展なども催している。20世紀美術のコレクションはオーストリア最大規模で、絵画や彫刻、インスタレーション、写真、映像作品などをおよそ9000点所有しているそうだ。キュビスムや未来主義、表現主義、ダダ、シュルレアリスムといった戦前のクラシックなモダニズム作品も充実しているが、重点はむしろ戦後美術の動向に置かれている。ジャクソン・ポロックやルチオ・フォンタナらによる50年代のアブストラクト、同じく50年代にアメリカ的大衆消費主義を背景として登場したウォーホール、リキテンシュタインらのポップアート。イヴ・クライン やジャン・ティンゲリーらが1960年にフランスで結成したヌーヴォー・レアリスム。ナム・ジュン・パイクやヨゼフ・ボイスらが参加し、日本ではオノ・ヨーコが有名なフルクサス運動。50年代後半に始まるハプニング―パフォーマンスアート運動の大きな潮流において最も過激な活動として知られるウィーン・アクショニズムなど。
 特にアクショニズムに関しては活動拠点の中心がウィーンだったこともあり、1フロアを用いて詳しく紹介している。
ヘルマン・ニッチ(1)  ウィーン・アクショニストと呼ばれるのは、主にヘルマン・ニッチ(またはニッチュ)、オットー・ミュール、ギュンター・ブルス、ル ドルフ・シュヴァルツコグラーの4人である。彼らは1965年にウィーン・アクショニズム・グループを結成し、裸体の男女が互いに生血を擦 りつけあい、鶏や魚の死骸や生肉を投げあう猟奇的パフォーマンスを何度も繰り広げた。もともとは代表格のヘルマン・ニッチ(あるいはニッチュ Hermann Nitsch,1938-)が1957年に思いついたOMシアター(Orgies-Mysteries Theatre)のコンセプトを具現化、発展させたものだ。ニッチはOMシ アターの一つの具体化として、巨大キャンバスに赤いペンキを垂らして殺戮の流血シーンを想像させる"poured painting"シリーズを60年代 初頭から開始した。オットー・ミュールがこれに共鳴し、続いてブルスとシュヴァルツコグラーが加わり、アクションはより一層過激さを 増していった。
ヘルマン・ニッチ(2)  ニッチは宗教的な「供犠」「生贄」をモチーフとして子羊や豚、雄牛を会場の上で屠殺し、内臓を摘出しておびただしい血をぶちまけた。これはエレウシスの秘儀に始まるヨーロッパ伝統の供犠文化、嗜虐文化を受け継いだものに違いない。アクショニストの中で今日までこうした血なまぐさいアクションを続けているのは彼だけだ。2005年にも格式高いウィーンの国立歌劇場で「ディアギレフの夜」と題したバレエを演出し、動物を解体して臓物や生血を素っ裸の男女に塗りたくる映像を流して観客からブーイングを浴び、大いにスキャンダルを呼んだ。彼の公式サイトはこちらにある。
オットー・ミュール  オットー・ミュール(Otto Muehl,1925-)は62年にニッチと共に最初の「公開アクション」をおこなった。肉体と食物、汚物、絵具から なる人体料理のパフォーマンスを好んで繰り広げ、「マテリアル・アクション」と名づけた。彼はその後、ウィリアム・ライヒの精神分析 に強い関心を抱き、肉体解放を唱えるラディカル・セラピーを開発してコミューンの主宰者となる。コミューンの活動の様子は、ドゥシャ ン・マカヴェイエフ監督の1974年の映画『スウィート・ムーヴィー』に描かれている。まさに放縦と無軌道が加速した1970年前後の狂騒時 代を端的に表している。ところが後年、未成年に対する性的虐待の罪で逮捕され、7年にわたる懲役生活を送った。公式サイトはこちら
 ギュンター・ブルス(Gunter Brus,1938-)は自分の肉体をサドマゾチックな自傷行為の道具として用いた。アクショニズムがより過激な ボディ・アクションに向かったのは、彼がいたからこそである。1968年にはオーストリアの国旗に脱糞して家族と共に国を追われるが、後 に帰国を許されている。
シュヴァルツコグラー  シュヴァルツコグラー(Rudolf Schwarzkogler,1940ー1969)は当グループに最後に加わったが、4人のうちで最も若いのに自分の肉体を駆 使せずもっぱらモデルを使ったため、メンバーからチキン扱いされることもあった。しかし、ヘルマン・ニッチ曰く、彼のアクションはた だの過激さ残酷さだけを追い求めるのでなく、独特の優美なエロティシズムを備えており、クリムトやエゴン・シーレに見られるエロスと 死が密接に結びつくウィーン美学を継承していた。また、シェーンベルクやジョン・ケージの前衛音楽、アジアの神秘主義、ショーペンハウエルの哲学についても語れるだけの知性をもっていたという。
 彼は前回述べたとおり1969年、当時28歳のときにウィーンの自宅のアパートから身を投げて死んだ。オットー・ミュールの証言が正しいとすれば、彼はイヴ・クラインの『虚空への跳躍』(Saut dans le vide)に衝撃を受けて、クラインの影響にどっぷり漬かっていたそうだ。

 フランスの作家、ミシェル・ウエルベックが1998年に発表した小説『素粒子』に、ウィーン・アクショニストへの言及がある。この小説 は西欧文化がもつセックスに対するオブセッションの悲哀を描いて欧米の文壇に大いなるセンセーションを巻き起こし、文中で展開される思想がラエリアン・ムーブメントとの影響関係が囁かれるいわくつきの作品だ。およそ30ヶ国で翻訳され、日本でも2001年 に邦訳が出版されている。
 主人公の一人である文学青年くずれの国語教師ブリュノは、やっとものにできた女性がかつて十代のころ悪魔主義的なカルト集団に関わ ったことを聞いて、ヒッピー・コミューンがいかにしてサタニズムと結びつき殺人カルトに発展するかについて解説し始める。そして「90 年代のシリアル・キラー(連続殺人犯)は60年代「ヒッピー」の私生児であり、その両者の祖先は50年代(ママ)ウィーンのアクショニス トに見出される」と語る。アクショニストは芸術の美名の下に自由と解放を絶対視してディオニソス的な獣性と悪を解き放ったというのだ。
 90年代から現代にかけては日本でも残酷な殺人事件が相次いだ。80年代末の宮崎勤事件や94-95年のオウム・サリン事件、97年の酒鬼薔薇 聖斗事件など。2000年以降は状況がさらに悪化し、今年に入ってからも妹を殺して両乳房と下腹部をえぐり取りノコギ リと文化包丁で解体した歯科医の次男、夫をワインボトルで撲殺して遺体をバラバラにしたセレブ妻、母親の頭部を切断してバッグに入れ て持ち歩いた高校3年生が登場した。いずれも暴力団や暴走族の関係者ではなく、裕福な家庭に生まれ育った者たちや名門進学校の生徒だ。
 現代の殺人者たちがウィーン・アクショニズムやヒッピー的な思想に直接的な影響を受けた形跡は見当たらない。しかし、オウムの出家集団はオットー・ミュールらのヒッピー・コミューンを髣髴とさせるし、白人と黒人の最終戦争を「ヘルタースケルター」と呼んで女優のシャロン・テートらを惨殺したマンソン・ファミリーの拡大バージョンではないかという意見も見られた。マンソンほかジェフリー・ダーマーやヘンリー・リー・ルーカス、エド・ゲインといった悪名高いシリアル・キラーが90年代以降に一部でもてはやされ、一種の実録殺人ブームとなったのは記憶に新しい。
 殺人実録ものや残酷シーンの多い映画や小説を娯楽として楽しむ行為は断じて社会的に禁じられてはならない。しかし、ネット社会の到来によってあらゆる情報がたやすく手に入る状況下、それらが全体的なモラル低下と結びついて、嗜虐的な殺人の増加に何がしかの影響を及ぼしていることは認めざるを得ない。たとえば2005年にタリウムで母親を殺害しようとした静岡の女子高生は、グレアム・ヤングというイギリスの有名な毒殺犯を英雄視していた。
 現代の殺人が全て自由と解放への苛烈な希求や行き過ぎた自由のもたらす獣性に起因するわけではない。しかし、60年代以降のリベラリズムを謳歌した者たちが子どもの親となる時代になって、それまで当然のことだとして守られてきた規律-規範の意識が致命的なまでに 緩みつつあるという指摘は、いかにも保守的な人びとがぼやきそうなことで抵抗があるものの無下に否定できない。近年の若者の保守反動傾向は、行き過ぎたリベラリズムの振り子の揺れ戻しなのかもしれない。
 ブリュノはアクショニストを悪の権化としてとらえたが、一方で芸術は炭坑のカナリア――つまり、環境の変化を敏感にとらえて人類にいち早く警告する――という、いささか都合の良い言い方がある。
 現代社会は自由――虚空への跳躍を試みて転落死したシュヴァルツコグラーと同じ道をたどるのか?
 それともヘルマン・ニッチのように老いてなおも観客から大ブーイングを浴びながらわが道を行くのか?

 なお、『素粒子』の文中に「ヘルマン・ニッチは未成年に対する強姦の罪でオーストリアの監獄につながれている」というくだりがあるが、これはニッチではなくオットー・ミュールのほうだと思われる。ニッチが獄中にいた話は知られていないし、ミュールは1991年から97年まで監獄にいたので小説の時代背景と一致する。訳者は文学青年崩れのさえない中年男がインテリ気取りで展開するいいかげんな一人語りの後に続く地の文ということで、あえて放置したのだろうか。

 ※ヘルマン・ニッチの作品は、横浜トリエンナーレ2008(~ 11月30日)で観ることができる。



【参考文献】



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ルーヴルあるいはクラインの壷 

 ルーヴル美術館はときおり「危険」な展示会を催すことがある。
 たとえば2001年10月~翌2002年1月に開かれた『犯罪のような絵画』展がそうだった。19世紀から20世紀後半にかけての嗜虐的な美術作品を展示する試みで、ゴヤルドンブレイクマグリットらの暗鬱な絵画とともに、イヴ・クラインやウィーン・アクショニストの「全身芸術家」的な活動を記録写真や映像で紹介していた。

アクショニズム

 上の画像は当時のナポレオンホールで撮ったもので、アクショニストの記録映像の一部が映っている。
 彼らの活動内容については次回に述べるとして、今回はイヴ・クライン(Yves Klein)について書こう。
 クラインは1928年にニースで生まれ1962年に心臓麻痺で亡くなったフランスのアーティストである。ウルトラマリンブルーをさらに濃くしたようなIKB(International Klein Blue)という色を発明して特許を取得したことで知られている。IKBによる作品「青いスポンジ」は東京の原美術館で見ることができる。
 彼は若いころ警察主催の柔道教室に通い、本格的な柔道家になろうと思い立って、1952年から日本に1年ほど滞在した。日仏学院でフランス語講師を務めながら講道館で稽古に励み、当時の欧米人として最高位の柔道4段を取得したという。
 1954年に帰国したが欧州柔道連盟は彼の段位を認めず、彼は柔道家としての道を断念した。続いて絵画作品を画廊に持ち込むが出品を断られてしまう。
 1956年にやっとモノクローム作品が認められ、57年にはベンガル花火を用いた『1分間の火の絵画』を発表。その後もガスバーナーでキャンパスに火の軌跡を描く『火の絵画』を作り続けた。
 また、1958年頃から『人体測定』シリーズと題する一連のパフォーマンスを繰り広げた。これは全裸の女性にIKBの塗料を塗ってキャンパスに転写したりスプレーで輪郭をかたどったりするものだ。滞日時に見た魚拓や力士の手形、あるいは広島の原爆の高熱で一瞬にして蒸発してしまった人の代わりに壁に残った人型の焼け跡の影響だと言われている。じじつ「ヒロシマ」と題された作品群が残っている。

虚空への跳躍  ルーヴルの『犯罪のような絵画』展に展示されたクラインの作品は、1960年に彼自身が発行した新聞『日曜』(dimanche)の第1面に大きく載せたモンタージュ写真である。(左画像)
 写真には高い塀の上から両手を大きく広げて跳躍する彼自身の姿が写っている。モンタージュ写真の存在をよく知らない人なら彼がその後、道路に思いきり身体を叩きつけて重傷を負ったと思ったに違いない。じじつこの写真は大きなスキャンダルを呼んだ。タイトルは『虚空への跳躍』(Saut dans le vide)。

 彼が空と空の色である青にこだわったことには理由がある。
 真っ青な空と海に恵まれたニースで生まれ育った彼は、高校で後に廃物利用のアートワークで有名になるアルマン・フェルナンデス (Armand Pierre Fernandez,1928年~2005年)やクロード・パスカルと親友になり、ある日、世界を3人で山分けする約束をした。そのときクラインは空を選択したのだ。

 かつて、1950年代後半から1970年代前半にかけて、欧米や日本でパフォーマンスやハプニングと呼ばれる芸術活動が盛んに行なわれた。イヴ・クラインやウィーン・アクショニストもその流れにあって重要な役割を果たした。彼らにとって絵画とは人間の自由な想像に対する桎梏であり、権力の道具であって、アクション――身振りによって芸術という制度から解放されると考えた。それはいわばダダの流れを汲む反芸術という芸術だったかもしれない。

 『犯罪のような絵画』という企画展名は、ドイツ語の"Malerei als verbrechen"からきており、ウィーン・アクショニストのひとり、ルドルフ・シュワルツコグラーが1966年に書いたマニフェストの中から引用されたものだという。

 彼にとって絵画芸術は人間の自由を妨げる犯罪だったのだろうか。
 シュワルツコグラーは1969年に自宅のアパートの4階から身を投げて自殺した。

 そう、イヴ・クラインの『虚空への跳躍』を身をもって実践したのである。



平野啓一郎とユイスマンス 

 平野啓一郎といえば1999年に23歳で芥川賞を受賞した純文学作家だが、その受賞作品『日蝕』に、魔女の汚名を 着せられたアンドロギュノス――両性具有者――が火刑台へと引き立てられるシーンが出てくる。主人公は、想像 を絶する拷問を受けたうえ観衆から石を投げつけられて血だるまとなったアンドロギュノスからえもいわれぬ芳香 が漂ってくるのを嗅いで、スヒーダムの聖女リドヴィナを思い起こす。

4101290318日蝕
平野 啓一郎
新潮社 2002-01

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 この聖女リドヴィナ、ウォラギネの『黄金伝説』には紹介されていない。元ネタは恐らくユイスマンスの『腐爛の華』だ ろう。
 本書によると、リドヴィナは15歳で健康を害し、その後38年にわたって次々に襲い掛かってくる病苦に耐え忍ん だ末に亡くなった人物である。その生涯は旧約聖書のヨブも顔負けの凄絶さで、尿道結石から極度の神経痛、肺臓 と肝臓のカリエス、ペスト等の重病に罹り、全身は皮下溢血で紫色に膨れ上がっていたるところ腫瘍に蝕まれ、腫 瘍が爆ぜて血膿にまみれ、傷口は腐敗して蛆がわいたという。

4336035660腐爛の華― スヒーダムの聖女リドヴィナ
J.K.ユイスマンス 田辺 貞之助
国書刊行会 1994-02

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 リドヴィナは列聖されていないので、厳密には聖女ではなく福女である。
 カトリックでは厳密な手続きによってまずは福者として認められ、さらに長く煩雑な列聖手続きを経てやっと聖人に認定される。
 圧制者の手によって殺された殉教ではないからなのだろうが、生き地獄のような生涯を送った彼女が聖人として認められないのはなんとも割り切れない。
 ただ、いずれにせよ彼女がイエスと同じく人類の罪を背負い、生け贄として神に差し出されたことには変わりない。

 原初的な宗教に供犠は付き物だ。昔は日本だけに限らず全世界的に人身御供や人柱の慣習があった。贖罪の子羊として神に身を捧げたイエスを信奉するキリスト教は、まさに供犠の思想を中心に据えた宗教と言えるだろう。
 圧制者の残酷な拷問に耐え忍んだ挙句に殉教した者が聖者として崇敬されるとなると、聖人伝はいかに聖人が残酷な目にあったかを文章で競っているかのように読めてしまう。じじつ『黄金伝説』には残虐な拷問シーンがいくつも登場する。
 カトリシズムは神の愛(アガペー)や隣人愛を重んじる愛の宗教だと言われるが、実のところ東洋人には到底信じがたい罪悪に対する密かな欲望と淫虐趣味にまみれた宗教と言えるかも知れない。

 ユイスマンスはたいへん 興味深い作家で、たとえば出世作の『さかしま』では主人公のデ・ゼッサントはそれぞれ別の種類の酒が入った小さ な酒樽をいくつも並べ、あたかも音楽を聴くような感覚で1滴ずつ別の酒を喉に注いでいく、という「口中オルガ ン」のアイデアを披露している。それぞれの酒の味覚を楽器の音に対応させるというのだ。

4309462219さかしま
J.K. ユイスマンス 渋澤 龍彦
河出書房新社 2002-06

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 彼の作品は小説としてはいささか単調で展開の妙に欠け、性格描写や心理描写もややステロタイプなのだが、眼に見えるものの描写だけはマニアックなまでに精緻だったりする。たとえば『大伽藍』は前半がほとんど聖堂の描写ばかりである。
 ユイスマンスに関すると っておきの伝説といえば、澁澤龍彦が『悪魔のいる文学史』に記しているブーラン元神父スタニスラス・ガイタの呪術合戦 だ。
 ブーランは性的密儀を執り 行う怪しげな宗教家で、ガイタはアンドロギュノスの美学を唱道して象徴派画家――特にベルギーのクノップフデルヴィルらに影響を与えたジョゼフ・ペラダンと共に「薔 薇十字カバラ会」を創設したオカルト研究家。ガイタがブーランの不穏な噂を嗅ぎ付けて彼を告発したことがきっ かけで、両者の間で「呪術戦争」が始まった。
 ユイスマンスは悪魔学についての著書――後の『彼方』である――を執筆しようと考えてブーランに資料収集の協力を求め、いつのまにかブーランに篭絡されてしまう。
 モロー ルドンなど美術の趣味は ペラダンと似通うものの、ユイスマンスブーラン側に味方してガイタジョゼフ・ペラダンを批判した。
 ガイタの呪術(?)は効果てきめんで、ユイスマンスがリヨンのブーランの元を訪れるとブーランや彼の弟子たちが何もないのに空中に飛ばされては床に叩きつけられていたという。
 そしてブーランは1893年に心臓麻痺で急死。ユイスマンスの若い友人ジュール・ボワは、ブーランの死はガイタの呪殺だと新聞記事に書いてガイタと決闘沙汰にまで及んだ。そのガイタも1897年にモルヒネの過剰摂取で死亡。
 以上のエピソードについては、ロバート・バルディックの『ユイスマンス伝』に詳しく載っている。

4054007244ユイスマン ス伝
ロバート バルディック Robert Baldick 岡谷 公二
学習研究社 1996-11

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 なお、ユイスマンスは『腐爛の華』の出版から4年後に舌癌となって激痛に悩まされたが、リドヴィナのように 神より与えられた苦痛として受け止め、亡くなるまで痛み止めの薬をいっさい拒否したという。

 さて、平野啓一郎だが、一時は「三島由紀夫の再来」とまで絶賛されたものだが、どうも最近はこれといって話 題を提供してくれない。優れた文学者たるもの現代的な問題に背を向けてはならないという一般論にとらわれてい るのかもしれないし、若いのだからいろんな文学表現に挑戦するのも良いのだけど、そろそろまた『日蝕』の頃の ような伝統美学の世界に回帰して欲しい。1読者の身勝手な要望だが、あの難解な常用外漢字はほどほどでいいと して、デ・ゼッサントのようにアナクロなまでに芸術至上主義の世界を極めて欲しいものである。