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『実験工房展』カタログより 

 前回ブログからの続き。

 実験工房の活動が初めて国際的に紹介されたのは、ポンピドゥーが1986年におこなった『前衛芸術の日本 1910-1970』。90年代に入ると、日本では佐谷画廊で1991年に「第11回オマージュ瀧口修造 実験工房と瀧口修造」展が開かれ、94年にはグゲンハイムSOHO分館で『戦後日本の前衛美術――空への叫び』( 美術手帖2018年1月号(→ブログ)のキュレーターpickupに、アレクサンドラ・モンローのインタビューが載ってる)が開催、翌年サンフランシスコ近代美術館に巡回。これは海外の研究者たちの関心を喚起した。
 カタログ所収のジャパン・ソサエティギャラリー館長、手塚美和子の文によると、芸術市場はゼロ年代初頭~半ばにかけて世界的に活性化したが、リーマンショックをきっかけにアートワールドの焦点は変化し、作品の売買への過剰な関心が薄れ、「むしろ、社会的、政治的、経済的関心にあわせて流動的に変化する、より非定形な芸術が注目を集め始めた」。芸術家やキュレーターは1960~70年代の芸術史に注目し、ジャスミン革命、アラブの春、ウォール街占拠といった同時代的な反体制運動を重ね合わせるようになった。永久保存を欲するモニュメンタルな作品から一回性のイヴェントへ。(私見:このあたり、エリカ・フィッシャー=リヒテの『パフォーマンス的転回』や、箱モノとしての美術館から、祝祭としての芸術祭への関心のシフトにも関係すると思われるが)。
 2009年にはロンドンのギャラリー、アネリー・ジェダ・ファインアートで「実験工房―日本1951-1958」展が開催される(ライハートの文はこのときのもの)。ムサビの大日方欣一や国立近代美術館の大谷省吾もカタログに寄稿して、研究に厚みが加わった。2010年の韓国・光州ビエンナーレでは、アーティスティック・ディレクターのマッシミリアーノ・ジオーニ(→wiki:Massimiliano Gioni)が、『銀輪』を上映するなど実験工房の紹介に努め、2012年には彼がディレクターを務めるニュー・ミュージアムでも『機械の中の幽霊』展で『銀輪』を披露している。エキソニモの千房けん輔もニュー・ミュージアムのインキュベーター「NEW INC」のメンバー(だった?)。
 余談だが、ジオーニは2013年のヴェネツィア・ビエンナーレで歴代最年少の総合ディレクターを務め、アウトサイダー・アートをキュレーションしたことでも知られる。実験工房の山口勝弘も大学等では建築→法学部で、美術の専門教育を受けていないので、ある種のアウトサイダー・アーティストと言えるかもしれない。

 ほかにも、2011年にはパリの非営利研究センター、ベトンサロンで「実験工房」展が開かれるなど、世界各地で実験工房の活動を紹介する美術館が増えてきている。

 大日方欣一の文では、54年完成の現在所在不明の映画『モビールとヴィトリーヌ』や、「一枚一枚の画面の転換が、音楽とか音響効果とか、言葉などを録音したテープ・レコーダーの回転と自動的に同調してゆく」ソニー前身東京通信工業製オートスライド装置を用いたプロジェクション・アートの話が興味深い。なお、『モビールとヴィトリーヌ』のフィルムには、日劇ミュージック・ホールに依頼され、「女性ダンサーたちが踊る舞台上の空間に投影されることを想定して用意されたヴァージョンが存在し、1954年10月から12月末まで行われた同劇場の公演『神の国から谷底みれば』の第10景「ある神様のヴィジョン」で、実際に、ライブ・パフォーマンスとのアンサンブルという、一般的な映画とはかけ離れたかたちで観客たちに体験された」という。なお、『神の国から谷底みれば』は構成演出が岡田恵吉、加藤忠松。舞台装置を手掛けたのは、三井物産や日本経済新聞社の創業者・益田孝の孫で、その巨額の財産を蕩尽した益田義信(→wiki)。照明設計が大庭三郎。「ある神様のヴィジョン」では、武智鉄二フォトモンタージュにも出演した伊吹まりや、メリー松原、春川ますみ(→wiki)などがダンサーとして出演。ダンスの振り付けは、ルドルフ・ラバンやマリー・ウィグマンに師事した邦正美(→wiki)。彼は第2次大戦後、アルゼンチンのブエノスアイレスにわたり、インターメディア的アート集団Madi(→Madi)の活動に一時参加していたという。『総合造形』創刊号の「山口勝弘インタビュー」で山口は、実験工房とマディの近似性について言及しているそうだ。『ロボット・アヴァンギャルド』(1985)でも少し触れている。

 21世紀に入って以降、欧米以外の前衛芸術史を研究する動きが世界的に活発化している。たとえばクレア・ビショップは『人工地獄』で、東欧と南米の参加型パフォーマンスの比較を行っていて、同じブエノスアイレスで60年代に活躍したオスカル・マソタ(Oscar Masotta)やトルクァト・ディ・テラ研究所(→wiki)等の活動を紹介している。スペイン語を読める人(うーん、昔は多少読めたハズなんだけど^^;)なら、ネットで検索して、Madiに加わったアーティストたちと、オスカル・マソタ、トルクァト・ディ・テラ研究所の関係図なども探れるだろう。アルゼンチンには60年代のラテンアメリカ文学ブームを支えたボルヘスを中心としたグループがあったし、チリ出身のホドロフスキー(→ブログ:『エンドレス・ポエットリー』)も、南米スペイン語圏のアヴァンギャルドのネットワークに関わっていて、たしか60~70年代にはメキシコシティで演劇セラピーめいたことをやっていた。ルイス・ブニュエル(→ブログ:ブニュエルに関する記憶)のメキシコ時代の映画も、こうしたスペイン語圏の前衛文化とともにあったとみるべきだろう。

 未来主義やダダイズム、シュルレアリスムといったヨーロッパに始まった前衛運動が、いかに欧米以外の世界に伝播し、それぞれの地域でいかなる文化や技術と交流し、いかに各地の文化に影響を与えたか(与えなかったか)は、興味深いテーマとなりうる。

 文中敬称略。

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映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』 

 YCAMでスティーヴン・カンター(→wiki:Steven Cantor)の映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』をみる。

 主人公のセルゲイ・ポルーニン(→wiki:Sergei Polunin)は1989年、ウクライナ南部に位置する人口40万人の都市ヘルソン(→wiki)に生まれた。
 ウクライナでダンスといえば、コサックダンスを思い浮かべる(ジジイ^^;)が、19世紀後半からバレエの中心地となったロシアの伝統を継ぐ旧ソ連圏では、恐らく幼少期からのダンス教育が盛んという背景事情もあるのだろう。ポルーニンは小学校の頃から体の柔軟性と身体能力により、バレエ・ダンサーとしての素質を見出される。
 首都キエフのダンス学校で専門的な教育を受けるには、宿舎費用も含め、多額のお金がかかる。子どもの将来に賭けるため、父親は遠く離れたポルトガルまで出稼ぎに行き、父方の祖母も外国の地で辛い介護の仕事に就く。家族の期待を一身に受けたポルーニンは、優秀な成績を収め、13歳で渡英してロンドンのロイヤルバレエ学校に入学する。そして、19歳でロイヤルバレエ団最年少のプリンシパルになる。



 十代の青春をバレエ一筋に打ち込んだポルーニンは、自分に多大な期待をかける両親が、父親の出稼ぎをきっかけに離婚に至ったことを知る。身体の皮膚にタトゥーを入れ、コカインを吸入する。そして2012年1月、彼は突然ロイヤルバレエ団を辞める。
 ポルーニンはアメリカでの活動を望むが、アメリカのバレエ団は彼の素行を不安視して受け入れない。
 そこで彼は、ロシアのテレビのオーディション番組に出演する(ロシアのテレビ番組を見るのは数十年ぶり(たぶんブログ:ソ連旅行1991以来)なので、その資本主義的ド派手っぷりに驚く)。才能のあるポルーニンはもちろん注目を浴び、ロシアのダンスシアターに迎え入れられる。
 ただ、イギリスでもロシアでも、バレエは伝統芸能の世界であり、才能に恵まれた若いポルーニンにとっては、息苦しさを覚える旧態依然とした世界だ。ポルーニンは、自らを伝説化するため、ファッション写真家のデヴィッド・ラシャペルと組んで、ホージアの『Take Me To Church』のPVに参加することを決意する。



 伝記映画にするには短か過ぎるポルーニンの半生(まだ20代!)だが、ヘルソンからキエフ、ロンドン、モスクワ、ロサンゼルス、ハワイ、ノヴォシビルスク…と、舞台が地球上を転々とするので若い人でも退屈しないだろう。

 ポルーニン役を演じるのは本人だ。さまざまな映像記録機器が安く手に入るようになった1990年代以降に育っただけに、カンター監督は、家族が撮影したホームビデオや、学校の友人たちや本人がスマホのカメラで撮った映像、ニュース映像や新聞記事、テレビ番組の映像などを巧みに利用し、今どきのファウンド・フッテージ的な作品に仕上げている。恐らくオリジナルで撮影された映像は20%に満たないのではないか。酔っ払って眠ったポルーニンの顔を落書きだらけにする友人たち。雪の積もったロンドンの路地で、素っ裸になって転げまわるポルーニン。

 ウクライナ南部の90年代から現在までの政治情勢には、いっさい触れていない。クリミア半島の根元にあるヘルソンは、首都キエフや西ウクライナとは異なり、親ロシア派が主流を占める土地柄だ。キエフ経由で西側(ロンドン)に渡るが、やがてロシアに帰属していくというのは、クリミア危機(→wiki)を経てロシアに編入されたクリミア半島の存在をどうしてもちょっと想起させる。

 父親のたたずまいが、曰く言い難い魅力をそなえていた。

映画『ザ・ダンサー』 

 KBCシネマでステファニー・ディ・ジュースト監督の映画『ザ・ダンサー』(LA DANSEUSE/2016)をみる。

 主人公はモダン・ダンスの先駆者として19世紀末~20世紀初頭のヨーロッパで一世を風靡したロイ・フラー(→wiki)。演じるのはミュージシャンで女優のソーコ。フラーの若きライバルとなるイサドラ・ダンカンは、ジョニー・デップとバネッサ・パラディの娘、リリー=ローズ・デップが演じている。



 1862年、シカゴ近郊の田舎町フラーズバーグで生まれ育った主人公は、10代半ばで女優を目指して劇団に入る。しかし、がっしりした体格の彼女に与えられたのは、ヴォードヴィルやバーレスクでの男性役だった。ダンサーとして訓練を積む機会はなかったが、幻灯機の照明や蒸気のベールなど新しいテクノロジーを駆使した最新の舞台装置、舞台演出を学ぶ機会はあった。19世紀後半のアメリカ東部は移民に沸き返っていた。トマス・エジソンの活躍に代表される"電気と発明"の時代であり、照明の普及とともに新たなナイトカルチャーが開花する時代だった。
 彼女はひだのある長い衣装をまとい、両腕と胴体をあわただしく動かし、投光器の前に色付きガラスを置いて色光を浴びながら、波打つような幻想的なダンスを開発して評判になる。

 1892年、パリのフォリー・ベルジェールで活動を始める。照明効果をさらに磨いて大成功をおさめ、「光の妖精」とまで言われた。

 フラーと同様、アメリカ(サンフランシスコ)で生まれたイサドラ・ダンカン(1877-1927)は、自伝『魂の燃ゆるままに』に記している。
「この驚くべき女性は、液体になり、光になり、すべての色と火になり、そして最後に、永遠へと立ち昇ってゆく不思議ならせん形の炎へと変わっていった」。
 しかし、映画でダンカンが言うように、長い衣装を身にまとい反り返って踊るフラーのダンスは肩に負担をかける。取り巻きの女性たちがフラーの背中に氷嚢を当てる場面が何度も出てくる。

 フラーは自分で踊るだけでなく、優れた若いダンサーの発掘や育成にも努めた。ただのダンサーで終わることなく、興行主として成功を治めようという事業家的野心が多分にあった。
 1900年のパリ万博では川上貞奴を後援し、ヨーロッパツアーも敢行する。

 映画としてはもっとうまく作ってほしかったという気持ちもあるが、モダン・ダンスやコンテンポラリー・ダンスへの関心が希薄となった現在では、モダン・ダンスの歴史――ロイ・フラーやイサドラ・ダンカン、川上貞奴――への関心を喚起するという点だけでも評価すべきだろう。実在した伝説的ダンサーを題材にしたダンサー伝記映画は、これまでも『裸足のイサドラ』やハーバート・ロスの『ニジンスキー』があったが(もっとあるような気がするが…思い浮かばない^^;)、最近はルドルフ ・ヌレエフの伝記映画『白いカラス』も上映されるらしくて、パフォーミング・アーツの歴史が貴重な観光資源となる欧米では、それなりに需要が見込めるのだろう。

 モダン・ダンスの歴史はある意味、映画やジャズの歴史を先駆けるものだったと言えるかもしれない。アメリカの大衆芸能のなかに生まれ落ち、「芸術」として評価されたいと望み、ヨーロッパの審美眼に挑戦した。ヨーロッパのアートは20世紀に入って前衛化の道を加速させ、「純粋知覚」を研ぎ澄ます方向にむかう一方、ヨーロッパ以外の地域で育った「アート」にも関心を寄せた。「ヨーロッパの退廃」「西洋の没落」という自嘲意識と新興勢力(ロシア、アメリカ、日本……)への目くばせ。アメリカ(や日本の)一部アーティストは、階級の高いヨーロッパ人の趣味に付き従って前衛化へとひた走り、大衆的な趣味から遊離していった……。

 ロイ・フラーのダンスは一部の写真を見る限りおおっとなるが、下のような映像も残っていて、イロモノに見えなくもないw。



 レズリー・ダウナーは、『マダム貞奴―世界に舞った芸者』第7章で、1900年パリ万博で大評判となった貞奴とロイ・フラーの関係について述べている。面白かったのは川上音二郎と貞奴が『袈裟』を演じる際、フラーが、史実になかったハラキリシーンを加えるように迫った話だ。昔も今も変わらぬヨーロッパの嗜虐趣味、スプラッター好きは困ったもので、ハラキリはヨーロッパの流血好みの文脈で日本の典型的イメージを形成した。フラーは劇場の外に「今日はハラキリあり!」という告知を貼りだした。史実にこだわって拒絶する音二郎と興行面にこだわるロイは長々と議論を続け、ロイはとうとう日本の栗野公使(→wiki)に調停を依頼したという。