FC2ブログ

映画『クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代』 

 YCAMスタジオCでミシェル・マリー(Michelle Mally)監督の映画『クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代』(原題:Klimt & Schiele - Eros and Psyche)をみる。

 本作はおおむね、2000年にノーベル生理学・医学賞を受賞した有名な神経学者、エリック・カンデル(→wiki)の『芸術・無意識・脳』のサマリーをベースに、何人かの研究者の言葉を加え、クリムトやエゴン・シーレの作品を置く観光名所の映像をちりばめた、ウィーンのシティ・プロモーション映画という感じだろうか。最後はしっかりウィンナー・ワルツで〆る。
 そういえば、 昨年4月にパリに完成した新世代デジタルミュージアム、ラトリエ・デ・リュミエール「光のアトリエ」のこけら落としはテーマがクリムト。今年は、東京都美術館と豊田美術館で『クリムト展』が開催されたのだった。

 ブログ:映画『エゴン・シーレ 死と乙女』でも書いたように、ウィーンは、性と死に取り憑かれた都市とイメージされる一方、19世紀末から20世紀初頭にかけて、アートとサイエンスが交遊を通じて互いに刺激しあった都市としても知られている。

 クリムトやエゴン・シーレと精神分析の話だけでなく、ベルタ・ツッカーカンドルのサロンにはじまり、ヨーゼフ・ホフマンやクリムトが始めたウィーン分離派運動、オットー・シュミットのヌード写真収集、シュニッツラーのエピソード、18世紀の彫刻家フランツ・クサヴァー・メッサーシュミット(→wiki: Franz Xaver Messerschmidt)の頭像の話なども『芸術・無意識・脳』に書いてあるので、映画で紹介された内容をもっと知りたいと思った人は、本書を開くと良いだろう。

 本書の解説に載った経歴によると、エリック・カンデルは、1929年にウィーンでおもちゃ屋を営むユダヤ人家庭に誕生した。ナチスに追われて1939年に家族とともに渡米し、ハーバード大学に進学して歴史を学んだが、アンナ・クリス(父親は美術史家で精神分析家のエルンスト・クリス(→wiki:Ernst Kris))と交際するうちに精神分析医を目指すようになる。精神分析医になるには医師の資格が必要だったため、ニューヨーク大学の医学校に進学するが、次第に基礎生物学に惹かれるようになり、臨床家への道をあきらめ、脳科学の小さなチームを率いるようになる。
 時代の違いもあるが、フロイトが医学部の生理学研究所で神経細胞を研究した後に精神分析医になったのとは逆のコースを歩んだのだ。
 カンデルは精神分析が科学者たちから「非科学的」とダメ出しされる時代の風潮に抗い、実験を通じてフロイトが提唱した「抑圧説」を可能にする神経メカニズムも存在することを証明した。いまや、彼の『カンデル神経科学』は世界じゅうで神経科学を学ぶ学生たちに読まれている。彼のアートに対するサイエンスからのアプローチの試みは、日本でもいくつかの本で紹介されている。

 映画で紹介された1864年生まれのベルタ・ツッカーカンドル(→wiki: Berta Zuckerkandl)は、ウィーンの進歩的な新聞の発行者でオーストリア初の一般向け科学誌を発刊した父親のもと、小説家や画家、彫刻家、音楽家、建築家、科学者らが集う社交サロンを主催。当時、支配的だった保守的な芸術団体、クンストラー・ハウスに異議を申し立てるクリムト率いるアーティストグループを擁護し、分離派の建築や芸術作品に経済的支援をおこなった。

 ヨーゼフ・ホフマン(→wikiはオットー・ワグナーのもとで働いた建築家で、ラファエル前派(→関連ブログ)にも関わったウィリアム・モリスのアーツ&クラフト運動(→wiki)が掲げる「総合芸術」と「生活の芸術化」の考え方に影響を受け、同じくワグナーのもとにいた建築家のヨゼフ・マリア・オルブリッヒやクリムトとともにウィーン分離派を立ち上げた。1898年に完成したセセッション館の設計はオルブリッヒだが、ホフマンは内装の一部を手掛けた。
 1902年の第14回ウィーン分離派展では「総合芸術としての展示会」を強く打ち出し、ベートーヴェンをテーマにして、マックス・クリンガー(→wiki)がベートーヴェン像をつくり、クリムトが壁3面にわたってベートーヴェン・フリーズを描き、マーラーが第9を指揮した。
 ホフマンはその後、生活の芸術化を進めるため「ウィーン工房」を設立。そこでつくられた工芸品は、オーストリア応用美術博物館(MAK)に収蔵されている。

 アルトゥル・シュニッツラー(→wiki)は、ウィーン大学で医学を学んだ後、心理学や催眠療法に関心を抱き、その後、文学に没頭して前衛的な文学運動"ユングヴィエナ"のリーダーとなった。彼の書いた『夢小説』は、スタンリー・キューブリックの遺作『アイズ ワイド シャット』の原案となった。シュニッツラーの第2子、リリは17歳で20歳年上の男性と結婚したがうまくゆかず、18歳の若さで自殺した。シュニッツラーは彼女の自殺から3年後に亡くなっている。

 ほかにもいくつか印象に残った点を以下に列記。
・クリムトが肖像画を描いたエミーリエ・フレーゲ(1874-1952)は、女性をコルセットから解放した「リフォーム・ドレス」を手掛けた前衛的なファッション・デザイナーで、フレーゲ姉妹のモードサロンで販売したそうだ。先述のヨーゼフ・ホフマンもこのサロンに関わっている。
・エゴン・シーレが「縦」に描いた裸婦画について、美術館では男性異性愛者のキュレーターが誤って「横」に展示することが目立ち、それは「裸の女性は横たわっているもの」という男性異性愛者のバイアスなのでは、という話があった。
・ケンブリッジ大学で美術史を学んだファッションモデル/女優のリリー・コール(→wiki)が出演していた。リリーには21世紀のベルタ・ツッカーカンドルになって欲しいなぁ的な期待が込められているのだろうか。



 YCAM上映の洋画で日本語ナレーションというのは新鮮。
 なんか理由があるのかなぁと思ったら、ナレーションは三宅唱監督の映画『君の歌はきこえる』で主演を務めた柄本佑(→wiki)なのね。そうか、柄本佑は柄本明の息子で、奥さんは『万引き家族』(→ブログ)で信代を好演した安藤サクラなのか。リリー・フランキーの配偶者役だったから、もっと年齢が上だと思ってた^^;。
 さらに、wikiによると安藤サクラの父は奥田英二で、母方の親戚には国連での難民支援活動で世界的に名高い緒方貞子(→wiki)がいる。彼女の緒方姓は岳父・緒方竹虎に由来。そういえば以前のブログで、緒方竹虎を大河ドラマの主人公に!なんて書いたら、主役ではないけど今年の大河ドラマ『いだてん』に、主人公・田畑政治の朝日新聞時代の上司として緒方竹虎が登場して、彼を演じたのがリリー・フランキー。うーん、なんか関係妄想がふつふつ湧いてきたよw。

 文中敬称略。

スポンサーサイト



映画『コールド・ウォー』 



 YCAMスタジオCでポーランドのパヴェウ・パヴリコフスキ監督の『コールド・ウォー あの歌、二つの心』をみる。公式サイトはこちら

 YCAMだけ日本語のサブタイトル「あの歌、二つの心」が「あの声、二つの心」になってるのは、何か意味を込めてのことだろうか。ポーランド語の原題Zimna wojnaは冷たい戦争。「二つの心」は本作のなかで何度か歌われるフォークソング。歌の内容にかかわる新解釈だろうか。

 概要はこちら(→wiki)。

 冒頭、ポーランド民謡をうたうシーンでガツンとやられる。一瞬にして上質の音楽映画を期待させる何かに包まれてしまう。

 1948年なのに、オープンリールのテープレコーダめいたものが映っていたので、この時代にテープレコーダが存在していたのかな、と気になったが、ドイツのマグネトフォン(→wiki)かな。

 数十年ぶりにミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』を読んだところなので、チェコとポーランドの違いはあれど、なんとなく共通して伝わってくるものを感じ取ってしまう。厳密にはさらに少数民族とか絡んでいるのかもしれないが、アウトサイダーにはわからない。

 アフター・『ザ スクエア』(→ブログ)時代のシネフィル御用達映画の傾向だろうか。以前のように無暗に「難解さ」を振りかざすことがない。それでも、観客によってはストーリーの提示が足りなさすぎ~と感じる人もいようが、それはパンフレットを買って読め、という暗黙のメッセージだ。たとえば、チェコの例をあげると『マルケータ・ラザロヴァー』のような、かつての激動の時代を代表する映画に比べると、遥かにインクルーシブに出来上がっている。スタンダード・サイズのモノクロ映像、上映時間88分には、文字通り「オールド・ファン」の健康への配慮がうかがわれる。

 挿入される音楽もマニアック過ぎることなく、私ごときでも聴いたことあるなぁと懐かしむ曲目をときに挟んでくれる。記憶力低下により、曲名は失念しまくりだがw。ガーシュウィンやコール・ポーター、スターリン・カンカータ、インターナショナル……。エンディングがゴルトベルク、というのだって、ありがちかもしれないけど悪くない。

 主人公ズーラを演じるのはヨアンナ・クーリク。ヴィクトルはトマシュ・コット。

 撮影監督のウカシュ・ジャルは、パヴリコフスキの『イーダ』や『ゴッホ 最期の手紙』でも撮影を務めた。

 編曲・演奏のマルチン・マセツキ(→wiki:Marcin Maseckiの略歴は日本語では今のところポーランド広報文化センターでみられる。1982年ワルシャワ生まれ。98年に実験的ジャズユニットAlchemikを結成。本人のブログはこちら

 ローカルなフォークソングと、普遍性を希求してときに専横的にもなる西洋音楽との衝突、確執、摩擦……すっかりまるくなった前衛を前衛と呼ぶかどうかは別として、東欧的「前衛」の伝統を引き継ぎ後世に伝える映画だ。



『フラワーズ・オブ・シャンハイ』と『檳榔売りの娘』 

 福岡シネラの台湾映画特集で、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』と『檳榔売りの娘』を観る。
 前者は19世紀後半の上海の遊郭文化を描き、後者は21世紀初頭の台北の風俗を描いていて組み合わせがウマイ。登場する嗜好品も前者はアヘン、後者はビンロウを扱っていて特徴的な差異が見て取れる。

 『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(35ミリ/121分)は、『悲情城市』(1989)等で知られるホウ・シャオシェン監督(→wiki)の1998年公開映画。"盟友"エドワード・ヤンの『台北ストーリー』では主演も果たしている。

 ほとんどが屋内撮影で、電気照明が普及していなかった時代の蝋燭やガスランプの明かりがつくりだす映像が好い。昔の上海の遊郭を描いた映画といえば、寺山修司が監督した『上海異人娼館』(1981)を想い出すが、雰囲気が全く異なる(といっても記憶はうっすら^^;)。『上海異人娼館』は時代背景が1920年代というのもあるが、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』に登場する19世紀後半の娼婦たちは、衣服の襟を首のところまできっちりとめていて、肌の露出が全くないに等しい。役人たちが好んで通う高級娼宿が舞台だからというのもあろうか。そういう堅そうな人びとが普通にタバコを吸うような感覚でアヘンをくゆらしているところがオモシロイ。もはやタバコ好きも居場所を失いかけているが、「アヘン戦争でイギリス帝国主義によってむりやり阿片を押し付けられた昔の中国」という歴史イメージをくつがえすようなところがある。

 映画には「ジャンケン飲み」、つまり、ジャンケンして負けたらグラス一杯の白酒(→wiki)を一気飲みするという酒の場の余興が登場する。80年代後半に初めて上海を旅行したとき(→ブログ:上海~青海省1987)は、食堂でよく目にしたものだ。ただ、昨年暮れに訪ねたときは、見かけなかった。場所によっては今でもやっているとは思うが。

 原作はハン・チーユンの古典文学、『海上花列伝』(→wiki)。1884年……という年号が出てくるので、日清戦争より前の話だ。ただ、まあ、正直に現代の一般人の感覚で言えば、物語の起伏がなさ過ぎて退屈してしまった。主演はトニー・レオン。

2本目は、『檳榔売りの娘』(2001年/35ミリ/106分)。リン・チェンシェン(林正盛)監督のベルリン国際映画祭監督賞受賞作品。

 絶叫ではじまって絶叫で終わる、という映画。兵役を終えて台北の街にもどってきたシャオフォン。母親につきまとわれて閉塞感をおぼえるイーフェイ。イーフェイは家出して友人と檳榔(ビンロウ)売りの露店をはじめる。定職に就けず、半グレの友人とのつきあいから次第に転落して黒社会とのボーダーラインをさまようシャオフォン。檳榔売りのテレビ取材をきっかけに芸能界からスカウトされてアイドルへの道を駆け上がっていくイーフェイ。二人の同棲生活を描いている。シャオフォンがイーフェイの濡れた髪をドライヤーで乾かす場面とか好かったな。

 『嗜好品の文化人類学』第4章によると、若い娘が露出の多い格好でビンロウを売る台湾の風俗は、中国の四大美女のひとりの名前にちなんで「檳榔西施」と呼ばれるそうだ。たしか2000年前後くらい?に日本でも少し話題になったような気がする。「風俗」といっても、フーターズとかバドワイザー・ガールとかの類で、日本でもかつて話題になった膝枕耳かきサービス(→wiki:耳かき専門店)に比べると「視覚サービス」にとどまっている。本書によると、ビンロウの実をキンマの葉でくるんで噛む習慣は台湾だけでなく、パプアニューギニアやトンガ、さらにはパキスタン(本書第5章によると「パーン」と呼ばれるらしい)でもみられるらしい。

「檳榔西施」に惹かれたわけではないが^^;、ビンロウ屋台の写真集とかウェブサイトとかに刺激されて、たしか2000年5月のGWに一週間ほど台湾を旅行した。台北に2、3日いて故宮とかみた後、蘭嶼(→wiki)に渡ってみる予定だったが、天候が悪化して、四重渓温泉に寄り、そこでいくつかビンロウ屋台を目にした。「檳榔西施」はいなかったがw。四重渓から台南、高雄とまわったような。デジカメで撮った画像は古いPCのハードディスクのなかに眠っていて取り出せないままになってるw。

 そういえば今回の台湾映画特集では蘭嶼(ランユー)島を舞台にした『飛び魚を待ちながら』という映画も上映していた。

 台湾までの飛行機は北九州空港からも出ているので、そのうちにまた旅行してみたいとは思っているのだが。