ターナー展@北九州市立美術館 

北九州市立美術館

 ようやくリニューアルした北九州市立美術館本館で、オープン記念の『ターナー 風景の詩』展とベスト・コレクション展を観る。

 ターナー展は4章仕立てになっており、第1章は地誌的風景画、第2章・海景――海洋国家に生きて、第3章・イタリア――古代への憧れ、第4章・山岳――あらたな景観美をさがして。スコットランド国立美術館群や郡山市立美術館の所蔵品が多い。

第1章:トポグラフィ。ターナーが17歳の時、ロイヤルアカデミー展に出品した『マームズベリー修道院』(水彩/1792展示)。マームズベリー修道院と言えば、11世紀に人工の翼で飛行を試みたエイルマー(→wiki)が想い起される。
『フォントヒル・アベイの東景、真昼』(水彩/1800展示)は、ゴシック小説の名著『ヴァテック』を書いたウィリアム・ベックフォード(→wiki)の指示で建つこととなった修道院風建築物の工事中を描いた作品。
 ほかにも『ウィトルシャーのストーンヘンジ』(1827-28)など。自然の景観に人工的な建築物を少しだけ添える作品が多い。

第2章:海景。『ヘレヴーツリュイスから出港するユトレヒトシティ64号』(油彩/1832展示)は、映画『ターナー、光に愛を求めて』のヴァニシング・デイのエピソードに登場する。ユトレヒトシティ64号はイギリス名誉革命(1688年)でイギリス議会に招かれたオランダのウィレム3世(→wiki)が出航した艦隊の先導艦。これは海景画というより歴史画なのだ。
 その他、『風下側の海辺にいる漁師たち、時化模様』(油彩/1802展示)など。

第3章:古代への憧憬。専門家でないので断言はできないが、ターナーは目の前に実在する風景を描くときは強いのに、空想の産物を描くと、とたんに絵が弱くなるような気がする(『ユトレヒト号―』は例外?)。ターナーのこの「欠点」を補うように後代、イギリスで勢力を伸ばしたのが、ロマン肥大気味のラファエル前派(→ブログ)ということだろうか。ターナー自身は教養に乏しい下層民だったので、古代史の知識、パトロンたちを通じて得られたものがほとんどだったという。
 第3章テーマとは離れる一点、『遠景に山が見える川の風景』(油彩/1840-50)は、色彩や光、空気感を探求して、具象的な風景がおぼろとなり抽象に接近していった後期の作品。「抽象」というより現象学的アプローチ、という方が近いかな。

第4章:山岳画。解説によると、ブリューゲルの初期作品やサルヴァトール・ローザ(→wiki)という孤高の例外を除いて、山岳は18世紀までヨーロッパ芸術のテーマになることはなかった、そうだ。日本では、中国から導入された山水画の伝統があるが、ヨーロッパでは絵画のテーマにヒエラルキーがあって、歴史画(神話画)を頂点に、肖像画、風俗画、風景画、静物画の順となる。ブログ:『ルドルフ2世の驚異の世界展』 でも触れたが、そこにはカトリックとプロテスタントの宗教対立が、アカデミーなど美術的権威に対してどれだけ影響力を持っていたかに関わっているような気がする。ルーラント・サーフェリーなんかも山岳画と言えるような絵画を残しているのではなかろうか(サーフェリーはしょせん博物画の人として軽視されているのかな?)。
『サン・ゴタール山の峠、悪魔の橋の中央からの眺め、スイス』(水彩/1804展示)や『ルツェルン湖越しに見えるピラトゥス山』(水彩/1842頃)など。ターナーは1840年代前半にヨーロッパに何度も足を運び、おもにルツェルンやハイデルベルクの風景を好んでスケッチしたという。ピラトゥス山はゴンドラか何かで登ったことがある(上でカップラーメン売ってたw)。

第5章:版画作品。ニコラ・プッサンの様式を取り入れた『ノアの大洪水』など。

 ターナーは、1793年までにベツレムの精神科医で美術コレクターのトマス・モンロー(→wiki:Thomas_Monro)に才能を認められたそうだ。母親の精神疾患と関係があったのだろうか?。精神科医と美術の関係は興味深い。草間彌生を発見したのは西丸四方(→wiki)であり、アール・ブリュットに大いに関わるパトグラフィー学会は精神科医の集まりだ。現代美術のコレクターとして名高い高橋龍太郎も精神科医。

 由良君美の『ディアロゴス演戯』には、「崇高」の画家として、ターナーとともにジョン・マーティン(→wiki)を紹介していた。マーティンは英国ロマン派の画家・版画家で都市計画家でもあった。二人の崇高でロマンティックな自然描写は、現代のハリウッド映画にも一部、受け継がれているような気がする。

『コヴェナント』や『ブレードランナー:2049』(→ブログ)を観てメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』やその関連書などを読み直しているのだが(そういえばキネマ旬報12月下旬号に、ダオダディ荘の怪奇談義(→wiki)を扱った映画『ゴシック』の監督、ケン・ラッセルの生誕90年を記念して、今年7月にロンドンで開かれた「Ken Russel:Perspectives, Reception and Legacy」という学会に参加した大森さわこの記事があった)。メアリー・シェリーとターナーは同時代の人。ちなみにターナー(1775-1851)、メアリー・シェリー(1797-1851)、コールリッジ(1773-1834)、ワーズワース(1770-1850)、バイロン(1787-1824)、ジョン・キーツ(1795-1821)・・・。
『フランケンシュタイン』を最初の近代SFとして位置づけたオールディスの『十億年の宴』には、彼女の作品に影響を及ぼしたというエラズマス・ダーウィン(→wiki)に関する記述があるが、ターナーも若い頃、エラズマス・ダーウィンにならった詩を書いていることを本展で知る。

 小倉昭和館で映画『ターナー、光に愛を求めて』を上映していた様子。こういうコラボは素晴らしい。日本は今、好景気だし、ターナーの他の作品を観にいくロンドン観光ツアーのチケットも紹介したらどうかな?

 本展ではターナーの「崇高」な側面よりも、マイルドな風景画を前面に出しているので、ラスキンの『近代画家論』やラスキンの思想的側面を紹介する伊藤邦武『経済学の哲学』、清水真木の『新・風景論』等をネタに書く方が健全な市民と言えるのかもしれない。ラスキンはマルクスと一つ違い。マルクス的な社会主義ではなく、ラスキンーウィリアム・モリス的な「社会主義」のほうが日本に合ってるかも的な議論がある。もちろん世間は何を今さら社会主義という風潮だが、文科省系の行政機関や教育機関、文化施設、地方自治体には、想像以上に社会主義シンパが多いようだ。

スポンサーサイト

『ルドルフ2世の驚異の世界展』 

福岡市博物館

 シーサイドももちにある福岡市立博物館で『ルドルフ2世の驚異の世界展』を観る。
 シネラで昔の映画を見るため、隣接する福岡総合図書館には時折行くが、市立博物館の催しを観るのはこれが初めて。

 2009年にBunkamuraが開いた「奇想の王国」展の拡張版だろうか。九博の『新・桃山展』と時代的に重なる点は、連携企画として素晴らしい。

 神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(→wiki)は世界史の教科書に(たぶん)名前が出てこないが、ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』(1966/文庫2010)やロバート・エヴァンズの『魔術の帝国』(1988/文庫2006)、トマス・D・カウフマンの『綺想の帝国』(1995)等で紹介される通り、ヨーロッパの美術史や科学技術史では欠かせない人物だ(カッコ内は邦訳書の出版年)。

 最初のコーナーでは、ルドルフ2世自身、偉大なるカール5世の弟フェルディナント1世、その息子(つまりルドルフの父)マクシミリアン2世(1527-1576)のほか、マクシミリアン2世の弟でルドルフのコレクションに影響を与えたフェルディナント2世チロル伯(1529-1595)の肖像画が掲げられていた。以前、ウィーンやプラハを旅行した後、インスブルックまで行ってアンブラス城にあるフェルディナント2世のコレクションを見に行った覚えがあるが、徳川家康から贈られたという日本の甲冑が展示してあった。なお、当時の館長ピエルアンドレア・マッティオリ(1501-1577)は当代有数の自然誌家で、植物標本の収集に尽力した人のようだ。

 ルドルフ2世時代のプラハの芸術界を支配したのは、フランドル出身の画家たちだった。
 ざっと観て、ルーラント・サーフェリー(→wiki)の絵画が充実している。その多くは、画家の生地ベルギー・コルトレイク市立美術館の収蔵品(当館長がサーフェリーの略歴をカタログに寄せている)。ルドルフ2世が愛したピーテル・ブリューゲル父(→wiki)の影響が色濃い『村の略奪』(1604)。博物学的関心に溢れるプラハ国立美術館蔵の『鳥のいる風景』(1622)や『動物に音楽を奏でるオルフェウス』(1625)。幻想的な岩山や深い森。数多く描かれる動物たち(牛、鳥…)にはしばしば解剖学的誤謬がみられる。1628年の『二頭の馬と馬丁たち』は例外的に風景がほとんど重視されていない。アンリ・ルソー風の空色の背景に2頭の馬が向かい合うが、馬や人物はルソーに比べ、細緻かつ立体的に描かれている。ウィリアム・マイヤーズの『バイオアート』に載っていたアレクシス・ロックマン(→wiki:Alexis RockmanのBronx Zooなんかはサーフェリーの現在形というか、未来形と言えるかもしれないな。
 アントワープ出身のファルケンボルフ家の画家たちは1586年にプラハを去ったが、サーフェリーはアムステルダムで才能を開花させた後、1603年頃にルドルフ2世の宮廷に招かれた。1610年代後半にはプラハからユトレヒトに移り住んだが、晩年は幸福ではなかった。

 フランドル地方では12世紀から毛織物業が盛んになり、アントウェルペンは毛織物業と北海で獲れるニシンの樽詰め、2つの年市により、交易都市として成長。バルト海と北海の海商団体ハンザ同盟が拠点を置き、イギリスの毛織物業者がこの地を中継地として羊毛を大陸に供給した。フランス、イギリス、ドイツの接点に位置し、ヨーロッパ北西部をバルト海地域や地中海に結ぶ海上ルートの中継点として、16世紀にはブリュージュの地位を奪った。ヒュー・トレヴァー=ローパー(→wiki)の『ハプスブルク家と芸術家たち』によると、「アントウェルペンは、1520年の段階でヨーロッパと新世界の交易を支配する外国為替取引業者を擁する、ヨーロッパの経済的首都だった」。人口は1500年に4万人を越え、最盛期には10万人に達したと言われる。しかし、オランダ独立戦争(→wiki:80年戦争)の激化により、国際商業の中心地はアムステルダムに移っていった。

 フランドル地方では、イタリア・ルネサンス期にほぼ同期して、独特の様式をもつ絵画が数多く描かれた(→wiki:初期フランドル派)。
 神聖ローマ帝国皇帝にしてスペイン国王のカール5世はフランドル出身だが、イタリア・ルネサンス絵画を好み、ティツィアーノを宮廷画家に任命した。それに対し、カール5世を継いでスペイン国王となったフェリペ2世は、フランドルのヒエロニムス・ボスが描いた奇怪な絵画をこよなく愛した。ちなみに今年から来年にかけて、映画『謎の天才画家、ヒエロニムス・ボス』が日本で公開される(→公式サイト)。
 しかし、敬虔なカトリックのフェリペ2世は異端審問でカルヴァン派を厳しく弾圧。1566年、戦闘的カルヴァン派たちは各地で聖像破壊(イコノクラスム)を実行し、膨大な数のフランドル絵画が失われた。これにより、オランダ絵画の主流は、宗教絵画から、風俗画や静物画、風景画、肖像画に移行する。
 カール5世の甥でルドルフ2世の父にあたるマクシミリアン2世は、プロテスタント寄りの人文主義者で、庭園に異国風の植物を栽培させ、エーバースドルフに野獣を飼育する動物園を設けた。父親が晩年ウィーンに招いたアルチンボルトを厚く保護し、祝祭や音楽祭の催しを任せた。

 ルドルフ2世は11歳~19歳まで母方の伯父フェリペ2世の宮廷で過ごし、カール5世の偉業とスペイン黄金時代の栄華とボスの絵画を目の当たりにして育った。父のマクシミリアン2世を継いで、ルドルフは1576年に神聖ローマ皇帝になった。レパントの海戦(1571)では教皇=ヴェネツィア=スペイン連合軍がオスマン帝国を破ったものの、ハンガリー中部・南部は依然オスマン帝国領であり、また、プラハを含むボヘミアはフス戦争(→wiki)以来、プロテスタントの機運が高い土地だった。ルドルフは最初、カトリックの盟主としてプロテスタントを弾圧したが、オスマン帝国との係争地にほど近いウィーンから、やや奥まったプラハに首都を移した。
前掲書によると、ルドルフ2世は戦闘的カルヴァン主義とイエズス会の過激派をともに遠ざけ、「普遍人」であろうとした。

「(ルドルフ2世の)この魔術の世界は中世キリスト教世界の公式の宇宙哲学を否認し、正統派カトリシズムと正統派プロテスタンティズム――両者ともこの宇宙哲学へ回帰していたが――の間の宗派的相違を超越していた。その核心において全キリスト教的(エキュメニカル)であり、寛容主義的であり、瞑想的であり、科学的であり、その周辺部においては錬金術的奇想、占星術的計算、ピュタゴラース的数秘学となった」(『ハプスブルク家と芸術家たち』第3章)。

 彼はティコ・ブラーエ(→wiki)とヨハネス・ケプラーを宮廷付き天文学者に任命した。二人はコペルニクスやガリレオと同じく、17世紀科学革命の基礎となった「世界像の数学化」に大きな貢献を果たした。一方でケプラーは、ピュタゴラス的、あるいは新プラトン主義的ともいうべき数秘術という自然魔術の伝統に深く影響されていた。
 本展ではケプラーの書籍『新星』や『コペルニクス天文学』、天文表の『ルドルフ表』等が展示されていた。

 昨今、映画『エイリアン・コヴェナント』や『ブレードランナー:2049』をみたこともあって、ヨーロッパにおける人造生命の歴史を振り返えっているのだが、ゴーレム伝説の主人公とされるユダヤの神秘思想家ラビ・レーヴ(→wiki)もプラハを何度か訪れ、ルドルフ2世と会ったことが記録されている。ポーランド系ユダヤ人の息子でサイバネティクスの提唱者、ノーバート・ウィーナーは、最晩年の1964年に『God and Golem,Inc』(邦題:『科学と神』)という著書を書いた。
 ほかにも、ポーランドの錬金術師ミカエル・センディヴォギウス(1556-1630頃)や、ベルギーの植物学者シャルル・ド・レクリュース(カロルス・クルシウス)等がプラハに招かれた。

 アルチンボルトが1591年に描いた『ウェルトゥムヌスとしての皇帝ルドルフ2世』が展示してある。アルチンボルトの作品は以前、ウィーンの美術史美術館でまとめてみたが、そういえば今年、アルチンボルト展が東京で開かれ、数多くの集客があったらしい。
 洋梨やリンゴ、ザクロ、イチジク、ブドウ等の果実や、トウモロコシ、ダイズ、ムギといった穀物、タマネギやズッキーニ、カブ、ナス、カボチャ、キャベツ、レタス、トウガラシといった野菜、オダマキやアラセイトウ、チューリップ、バラ等の花でルドルフ2世の顔を合成している。このうちズッキーニ、トウモロコシ、カボチャ、トウガラシは新大陸からもたらされたものだ。本作品は1648年のスウェーデン軍によるプラハ攻撃で略奪され、スコークロステル城に保管された。

 ハプスブルク家の王たちに共通するのは、人文学者や芸術家、科学者、博物学者等に対する庇護の伝統だ。もちろんそれはヨーロッパの王家に共通する点だが、ハプスブルク家の場合、現代の目から見ても際立っている(と思う)。
 こちらのブログでも触れたが、その伝統はオーストリア=ハンガリー帝国の終焉まで続いた。古今東西、「文化に耽溺する王は政治戦略を誤る」という教訓話があるが、政治的リーダーが優れた学術・文化をパトロネージュするというハプスブルク家の伝統が19世紀末~20世紀初頭のウィーン精神を形成し、時代を超えて21世紀の文化・科学にまで深い影響を与えていることは明らかだ。

新・桃山展~大航海時代の日本美術 

 九州国立博物館(→ブログ)で、『新・桃山展~大航海時代の日本美術』を観る。

 遣明使の終焉に始まる第1章 アジアの海と信長の覇権、第2章 秀吉の世界への眼差し、第3章 徳川家康と「鎖国」への道、と3章仕立てになっていて、エピローグとして「屏風(ビオンボ)の軌跡」で締めている。

 大勢の観客が押し寄せても目にできる巨大な屏風絵・襖絵が多い。国宝の狩野永徳『花鳥図襖』、『檜図屏風』(1590)、長谷川等伯『松林図屏風』のほか、狩野元信の『四季花鳥図屏風』(1550)、16~17世紀に描かれた南蛮屏風、唐船・南蛮船図屏風等々。

 4階では『松林図屏風』(綴プロジェクトによる高精細複製品)が撮影できる。
九州国立博物館

 変わったところでは(というか、これが新・桃山展の「新」たる所以だろうか)、南蛮屏風をいくつか展示。たとえば、会津若松の鶴ヶ城に伝来した泰西王侯騎馬図屏風。現在、二つに分蔵され、神戸市立博物館蔵のものは、福岡市博物館で今取り上げられているルドルフ2世(→ブログ)、トルコ王、モスクワ大公、タタール汗の4名が馬上で剣を交える図。サントリー美術館本ではイギリス王(?)、アンリ4世、アビシニア王、ペルシア王が描かれている。うーん、こういうある種"異形"の作品が日本に眠っていたとは。イエズス会のセミナリオで西洋絵画の訓練を受けた日本人画家たちが、輸入銅版画をもとに描いたものだという。

 マニエリスムの特徴が見られる『洋人奏楽図屏風』も面白い。まさに文字通りのマニエラ(様式模倣)。

 10月からジャパン・ソサエティで開かれているらしい杉本博司の新作展「天国の扉」展(天正遣欧使節団の足跡を追ったもの)にも連動している。

 1600年に豊後国臼杵に漂着したデ・リーフデ号(W.アダムス乗船)の船尾に設置されたエラスムス像。1598年にロッテルダムから出向したことが知られており、もとはエラスムス号という船名だったという。当時はエラスムスを信奉するファミリア・カリタティスwiki:Familia Caritatisという秘密結社があって、大印刷業者クリストフェル・プランタンや地理学者アブラハム・オルテリウスらがメンバーとなっていたというから、ひょっとして関係してないのかなあ。リーフデはオランダ語の"愛"、ファミリア・カリタティスはラテン語で「愛の家」。エラスムスの教えがひょっとしたら日本に・・・と想像するのは楽しい。

 四都市・世界図屏風(神戸市立博物館)ではリスボン、セビリア、ローマ、コンスタンティノーブルの都市の様子が描かれている。世界図の方には、外出しで日食図や月食図も。

 初期洋画風画の『婦女弾琴図』も味があって良い。国東半島芸術祭の岐部プロジェクト(→ブログ)で知ったペドロ岐部を取り上げたアントニオ・フランシスコ・カルディム編『日本殉教精華』などもある。

 陶磁器では、"へうげもの"古田織部が所持し、後には松平不昧の手に渡った油滴天目(→wiki:天目茶碗)の代表作(南宋時代12~13世紀)や、わび茶の立役者、武野紹鴎(→wiki)が所持した白い和物天目、荒木重信→千利休→徳川家康に伝わった唐物・染付唐草文茶碗、織田有楽が所持した大井戸茶碗、千利休が長次郎につくらせた楽茶碗、アンフォルメルの黒刷毛 御所丸茶碗……。ベトナムやタイから伝来した陶磁器、タイから漆を運んだ四耳壺なども展示。

 ウォーラーステインが近代世界システムの開始局面としてとらえた16世紀(特に後半)は、世界史的にみても極めて興味深い"豊饒の時代"だった(*1)。それは鉄砲やキリスト教の伝来、石見銀山で産出された膨大な量の銀により日本をグローバリズムに巻き込んだ最初のビッグウェーブだった。16世紀後半~17世紀前半にかけて、日本列島は統一に向かい、キリスト教を一部受け入れ(*2)、銀産出で経済的に豊かになり、朝鮮半島に侵攻して明とも交戦し(→wiki:文禄・慶長の役)、徳川治世に落ち着き、島原の乱を契機にマカオと断交、オランダ商館を出島に移して「鎖国」体制をとる(→ブログ:映画『沈黙』)。

 関が原で西軍が勝利し、ヨーロッパ人と「うまく」交際して重商主義を貫いていれば、日本の近代化の様相は、大きく変わっていたかもしれない。(良い方向かもしれないが、もっと悪い方向に転んだ可能性も捨てきれない)。
 しかし、文禄・慶長の役のダメージは想像以上に重く、結局それが西国の大名・武士たちを疲弊させ、徳川幕府の全国支配を許す原因になるとともに、朝鮮半島に現在まで続く禍根の種を残したとも言える。大陸では明が17世紀初頭から衰退をはじめ、満州の後金(清の前身)が台頭する。朝鮮は1636年に始まる丙子の乱(→wiki)で後金に屈し、明は1644年に滅亡する。一説によると、中国は17世紀の間に、戦乱や伝染病によって、人口が1億人から5千万人程度にまで減少したという。
 産業革命と帝国主義がもたらした19世紀に始まるグローバリズム第2波は、重商主義的な西南雄藩の台頭と結びつき、日本は明治維新を契機に西南雄藩中心の政権に移る。富国強兵路線は途中までうまく行き、欧州列強と肩を並べるまでに至るが、結局のところ、16世紀末と同じく半島・大陸侵攻を繰り返し、20世紀の超大国アメリカによって、さらに大きなダメージを被る。そのダメージは、1980年前後に始まるグローバリズム第3波(それはおもに、欧米露の世界支配に対する中東産油国と日本(産業主義)の異議申し立てへの英米(金融と情報テクノロジー)のカウンターに端を発する)の最中にある現在にも、深い影響を及ぼしている。

 エピローグ編では、マカオで制作され、現在はメキシコ・シティのソウマヤ美術館が所蔵する『大洪水図屏風』を取り上げる。「海を越える桃山美術」と題したビデオによれば、それは裏地の雀紋や蝶番の高度な技術、日本語による作図指示の痕跡から、セミナリオで西洋画を学んだ日本人画家の手によるものと考えられている。日本の屏風はビョンボとして、遥か中南米にまで渡っていったという次第。

 エントランスホールには、豊臣秀吉が造らせたとされる「黄金の茶室」(復元品)。移動可能な組立式で、明の使節を名護屋城に迎えた際や御所での茶会、北野大茶湯でも使用されたという。

九州国立博物館



(*1) 8世紀に拡大を開始したイスラム勢力は、タラス河畔の戦いで唐を破ってシルクロードを掌握し、最盛期には西は北アフリカ・イベリア半島南部、東は北インドまで制覇した。イスラム商人はアフリカ東海岸~インド洋~マラッカ海峡~中国南部に至る航海路を支配した。
 13世紀にモンゴルが急成長し、ユーラシア中央部のほとんどを制圧したが、モンゴル帝国のゆるやかな衰退とともに、オスマン・トルコが14世紀から勢力を伸ばし、16世紀には、ヨーロッパ統一をもくろむカール5世の神聖ローマ帝国と対峙した。
 レコンキスタを果たしたポルトガルは、航海術の発達を梃子に南アフリカ経由の航海路を拓き、16世紀前半にはインド洋海上支配権をイスラム商人から奪い取る。カール5世率いるスペインは、中南米への植民を推し進め、膨大な量の銀を採掘。フェリペ2世の時代には、メキシコの銀貨は当時唯一の世界通貨となり、交易を通じて中国へ、そしてトルコとの戦いや宗教戦争の軍費としてヨーロッパじゅうにばらまかれ、価格革命をもたらした。しかし、その勢いは16世紀末からオランダやイギリス、フランスへと移っていく。
 インドでは、モンゴル帝国を継承し、14世紀後半~15世紀に中東~中央アジアを支配したティムール帝国の末裔、バーブル(→wiki)が16世紀前半にムガール帝国を築いた(タージ・マハル着工は1632年)。イランでは16世紀初頭からシーア派のサファヴィー朝が台頭。16世紀末に首都となったイスファハンは、後に「世界の半分」と呼ばれるほど繁栄を誇った。

(*2)展示カタログ冒頭の中島楽章の文によると、1603年には全国に190か所の教会があり、信者数は30万人にのぼり、1614年には信者数は37万(総人口の3%)に達したという。

 現在、アジアは人口約40億人、ヨーロッパは7.5億人、北米5.5億人、南米4億人、アフリカ大陸10億人。ユーラシアと欧州の人口は合計で全体の7割を超える。中国の「一帯一路」構想(→wiki)は、世界人口の7割以上を占めるユーラシア大陸の東と西を結ぶ旧シルクロードとインド洋航路を両方コントロールしようという壮大な計画だ。それはかつて、シルクロードとインド洋航路を掌握したイスラム帝国にならおうとするものだ。
 歴史的にみると、中国共産党が2049年に向けて進める「100年マラソン」は、アメリカのこれまでのやり方と比較すると遥かに「平和的」にみえる。一部に人権的配慮や国際法上の常識に欠ける点が見られるとはいえ、テストステロンに溢れた男性的なアメリカ文明に対し、大豆(エストロゲン)を好む中国人の文明は比較的、(長所も欠点も含め)女性的に感じられる。

 超大国アメリカや成長するインドは黙っていないだろうが、まあできるだけ肉を控え、植物タンパク質を摂取し、多国間で合意を形成しながら、平和的にいきたいものだ(横丁の隠居w)。