カーサ・ブルータス2017年8月号~動物園と水族館 

 カーサ・ブルータス2017年8月号は動物園と水族館を特集。「センス・オブ・ワンダーを呼び覚ます」生きもの空間を、ニュースタイル、環境再現、都市型、ふれあい、専門型の5つのキーワードで紹介している。

 建物がガラスドームで覆われ、屋外に「蛇の目ビーチ」を備えたアクアマリンふくしま。53haに及ぶ広大なよこはま動物園ズーラシア(オカピがいる)。環太平洋10地域を14の水槽で再現し、植物を含む620種約3万点!の生きものが暮らす海遊館(大阪天保山)やニフレル(→ブログ)、アクアパーク品川、クラゲ専門の鶴岡市立加茂水族館、長崎ペンギン水族館……。

 猪熊弦一郎現代美術館(→ブログ)やMoMA新館等を手掛けた谷口吉生(→wiki)による葛西臨海水族園のデザイン思想について、また、生息環境展示にいち早く取り組んだ日本展示学会会長の若生謙二(→wiki)へのインタビュー記事がある。
 記事にも出てきた宇部のときわ動物園には、今年2月に行った。日頃はTVの動物番組さえ見ないのに、昨年5月にニフレルに立ち寄ったのをきっかけに、たまには動物園もいいかなと思って足を運んだのだが、若い頃行った動物園のイメージとは変わっていて新鮮に感じたものだ。
 動物、特に人間に近い他の霊長類の行動をみるのは確かにオモシロイ。サル1匹1匹に名前をつけているが、これは個体識別法、またはジャパニーズ・メソッドと呼ばれ、昔は欧米の研究者から「擬人主義」として揶揄されることが多かった。しかし、日本の霊長類研究者やフランス・ドゥ・ヴァール(→wiki)らの粘り強い努力があって、人間の心の起源をめぐる進化心理学の世界的潮流のなかで見直されつつある。
 観光はある意味ライトな人類学的行為になりうるが、霊長類学を伴うと、ちょっぴり深みを増すだろう。なんかwiki:霊長類学をみたら、霊長類学は人類学のサブカテゴリ―として内包されるケースもあるようだ。
 デカルトは動物=機械論を唱えたが、現代の哲学者ピーター・シンガー(→wiki)は「霊長類に部分的な人権を与えよ」なんて言ったらしい。実際に行動を観察してみると、なんとなく気持ちはわかる。たしか東浩紀は「デカルトが動物機械論を唱えたのは、ヨーロッパにサルがいなかったから」とか言ってる。

ときわ動物園 ときわ動物園
ときわ動物園 ときわ動物園
 上画像2枚はときわ動物園のフサオマキザル。下左はエリマキキツネザル(パンダかよw)、下右はシシオザル(老賢者の風格)。

 世界で観るべきBEST3は、市民ZOOネットワーク代表の佐渡友陽一が動物園を担当。近年大規模リニューアルしたスイス・チューリッヒ動物園、ニューヨークのブロンクス動物園(コンゴ・ゴリラの森)、シンガポール動物園(世界最大のオランウータンの群れを飼育)を選出。動物園先進国では環境エンリッチメント(→wiki)が主流になっているという。
 水族館BEST3は『水族館学―水族館の発展に期待をこめて』の著者、西源二郎が選んでいる。第一にモントレーベイ水族館(HPが出資し、ジュリー・パッカードが館長)、そしてアトランタのジョージア水族館、モナコ海洋博物館。曰く「豪華な設備や派手な仕掛けではなく、スタッフの力量こそが水族館の価値を決める」。
 過去に出張や観光で訪れた都市がほとんどだが、当時はあまり関心なかったので^^;、そんなのあったっけ?て感じだw。

 未来の動物園では、ビャルケ・インゲルス/BIG(→WIRED:ビャルケ・インゲルスのNYC改造計画)のコペンハーゲン動物園「パンダ舎」が2018年完成予定。同じくギルシュクド動物園を拡張したZOOTOPIA(→COURRIER JAPON 2014.8.20)が2019年にオープン予定。

 動物園ではないが、デトロイト郊外にあるヘンリー・フォード博物館(→wiki)も紹介していた。

 Window On The WorldではMVRDV(→ブログ)が手がけて今年5月に完成した「ソウル路7017」やクラパット・ヤントラサー率いるがLAのフリーメイソン寺院を改築した「マルシアーノ・アート・ファンデーション」等。

 観光地が自然の景観や温泉、名所旧跡・歴史的建造物だけで集客できる時代は終わった。ユネスコ世界遺産への登録によるお墨付きもいいが、むしろ新しい驚きや感動こそが必要とされる。
 イノベーションとは何も新しい商品アイデアや新技術の発明のみを指すわけではない。医療、介護、観光施設、公共サービスなどなどあらゆる分野で進んで行くべきだろう。

 Casa BRUTUSはときおり各ジャンルの格付けっぽいもの(美術館やらリゾートホテルやら)を特集する。えーーー!!!なんで○○が入ってないの??とガタガタ文句を言う人もいようが、アウトサイダー(観光客)にとっては入り口となるガイドブックだというのも一つの事実。気に入らなければそれぞれの専門家やオタが各ランキングを発表したり、ランキング批評をすればよいのであって、今度は何を取り上げるかによってオタ本人の趣味や見識や価値観が晒されることになる。

 そういえば少し前に、日本のアートパワー100というのもあったね。

 文中敬称略。
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国立民族学博物館(2) 

国立民族学博物館

 国立民族学博物館(1)からの続き。

○岡本太郎と民族学
 ブログ:太陽の塔に書いたように、岡本太郎は1930年から10年間、パリに滞在した。岡本が1930年代のパリに滞在したことの意味は極めて大きい。

 アメリカの"狂騒の20年代"は、大量生産と大量消費が循環を繰り返し、自動車や映画、蓄音機、電話、ラジオのような新技術が大衆の間に普及した時代だった。金融界は第一次大戦で疲弊したヨーロッパに多額の投資をおこない、20年代後半にはヨーロッパでも"黄金の20年代"と呼ばれるようになった。
 しかし、1929年のウォール街の暴落により、一転して世界恐慌の時代に突入。アメリカの対欧投資が引き揚げられ、ドイツ・フランスは経済危機に見舞われ、社会・共産主義政党や国粋主義的な政党などの急進的な主張が支持を集めて政治的混迷を招いた。ソ連ではレーニンの後を継いだスターリンが、国家主導の工業建設を強力に推し進め、1930年以降も大きな経済成長を成し遂げていた。内実は政治犯の強制労働に支えられる点も大きかったが、ヨーロッパの知識人の中にはソ連の著しい成長を横目で見て、社会主義を称賛する声が少なくなかった。ナチスの台頭もまた、スターリンのイデオロギーによる大衆動員の「成功」に倣ったところが大きい。フランスではナチの台頭に対抗して人民戦線政府が36年に樹立したが翌37年には崩壊、ナチスの拡大に伴い政治的混乱を極めていった。
 当時、美術の世界的首都であったパリでは表現主義や抽象主義、シュルレアリスムが台頭していた。芸術の前衛主義と政治の前衛主義の密接な結びつきは、シュルレアリストたちの行動を辿るとわかる。

 岡本太郎は激動の時代に、ヨーロッパの19世紀後半から続く前衛の動向を、濃縮した形で身体・脳裏に吸収した。彼はパリで美術品を見て回るだけでなく、自分でも作品を発表するとともに、ソルボンヌで哲学や美学、社会学などを聴講した。ピカソがアフリカ彫刻に興味を持って『アビニヨンの娘たち』を描いたことも影響したのだろう、岡本は抽象的な哲学や社会学より生々しい人間の根源に触れられる民族学に惹かれ、フランス民族学の大家マルセル・モース(→wiki)のもとで学んだ。
 1931年に開かれたパリ植民地博覧会は半年間に3400万人が来訪するほど成功したと言われる。そこで見られた民族学的展示――「人間動物園」(→wiki)は人気を博したが、スペンサー流の社会進化論や人種差別、植民地主義に根ざしたものだとして批判する人びとが、シュルレアリストをはじめとして少なからずいた。この点は現在に至るまで民族学や人類学につきまとう問題点だ。
 社会学主義を打ち出したデュルケムの従兄弟であるモースは、この植民地博の開催に際しておこなわれたダカール・ジプチ伝道旅行を指導し、彼の一番弟子だったマルセル・グリオール(→wiki)が『幻のアフリカ』で知られる詩人ミシェル・レリス等とともにこれに参加した。この伝道旅行で集められた儀礼習俗の資料はトロカデロ民俗誌博物館に集められ、1937年開催のパリ万博の催事として創設された人類博物館(ミュゼ・ド・ロンム)に収蔵された。岡本は人類博物館で開かれたモースの講義を受講し、トロカデロや人類博物館に展示された民族学的資料の数々に触れて大いに刺激を受けた。

 1940年、岡本はドイツ軍の侵攻が間近となったパリを逃れて帰国したが、延期していた徴兵検査を受け従軍した。42年に中国戦線に送られ、長安で半年ほど俘虜生活を送った後にようやく帰国することになった。
 戦後の岡本太郎は『夜明け』や『重工業』、『森の掟』などの挑戦的な大作を描くとともに、花田清輝や野間宏、埴谷雄高らと「夜の会」を結成。安部公房らの学生グループ「世紀」がこれに加わり、戦後日本の前衛運動を先駆けた。
 1951年、東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受け、翌52年、「四次元との対話―縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表。その後も秋田や島根、徳島など日本列島の各地をフィールドワークした。それらをまとめて1956年に出した『日本の伝統』は、当時のベストセラーとなった。
 日本の先史時代の歴史は、戦前では古事記・風土記の記述が中心だったが、戦後、登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘など考古学上の大きな発見が相次ぎ、考古学の知見に基づく先史時代像が有力になってきた。『新建築』の編集長だった川添登は1955年1月号での丹下健三との対談をきっかけとして翌年まで「伝統論争」を展開し、岡本太郎も寄稿した。

 その後、岡本が大阪万博にどのように関わっていったかについてはブログ:太陽の塔の通り。

 国立民族学博物館(3)に続く。

国立民族学博物館(1) 

国立民族学博物館

 Expo'70パビリオン(鉄鋼館)のあと、同じ万博記念公園内に立つ国立民族学博物館(以下、民博と略す)に行った。
 民博は1977年にオープンしたが、大阪万博といわば一セットとして誕生した話については何度か耳にしたことがある。この機会に渋沢敬三と梅棹忠夫、岡本太郎の3人の活動を軸として民博前史を短くまとめておこう。

○渋沢敬三とアチック・ミューゼアム
 国立の民族学博物館を設立する運動は戦前にさかのぼる。
 渋沢栄一の孫で戦時中に日銀総裁や大蔵大臣を務めた渋沢敬三(1896-1963,→wiki)は、十代の頃から柳田國男と交流するなど民俗学に関心が深く、小・中学校時代以来集めていた動植物・鉱物の標本などを東京・三田綱町の渋沢邸の裏庭にあった物置小屋に収めて展示してアチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)と称していた。柳田國男が精神文化に重点をおいたのに対し、渋沢は"もの"に着目し、民俗学仲間たちとミューゼアム同人を組んだ。大学卒業後、横浜正金銀行に入行してロンドン支店に勤務したが、仕事のかたわらオスロー野外博物館やスカンセン民族博物館、コペンハーゲン人類学博物館、ウィーン美術史博物館、大英博物館など、ヨーロッパの博物館を見て回り、民族学への関心を強化した。
 1925年に帰国すると、再興アチック・ミューゼアムの第1回会合が開かれ、郷土玩具の収集が始まった。昭和初期にはアンスロポロジー(人類学)・プレヒストリー(先史学)、エスノロジー(民族学)の頭文字をとってAPE会という若い民族学者たちの会があり、渋沢は1934年、白鳥庫吉(→wiki)をかついで、彼らとともに日本民族学会を設立して理事となった。
 収集品の増加に伴い、渋沢邸の物置小屋が狭くなると、渋沢は同人の高橋文太郎から寄付された保谷の土地に民族学研究所と付属博物館を創設(1937年開設)し、アチック・ミューゼアムの資料を移管した。
 同じ頃、皇紀2600年記念事業として国立の歴史博物館の設立運動が起こった。日本史の黒板勝美を中心とした運動で、白鳥や石黒忠篤、渋沢らは当初、独自に民族博物館の設立運動を開始したが、後に黒板らの運動に吸収される。しかし、それはブログ:大阪万博お祭り広場にも書いたように、国際情勢の緊迫化から万国博の夢とともに霧散した。
 柳田國男らと民族学雑誌『民族』を編集し、渋沢敬三の援助でウィーンに留学した岡正雄(→wiki)が積極的に動いたことで、1942年に文部省直轄の民族研究所が設立された。これに伴い、学会はその外郭団体に再編され、財団法人 日本民族学協会となった。なお、岡正雄の民族研究所創設については、中生勝美の『近代日本の人類学史~帝国と植民地の記憶』の第5章民族研究所:戦時中の日本民俗学 が詳しい。諜報活動やアヘン取引にもからむ昭和通商との関係や総力戦研究所との関係にも触れている。同じ頃、アチック・ミュージアム同人は日本常民文化研究所と改称された。
 民族研究所は国策機関であったため敗戦に伴い廃止されたが、日本民族学協会は戦後も活動を続けた(このあたりが民族学―京都学派の「近代の超克」―スメラ塾―未来学の「怪しい」関係(→ブログ:原節子の死からスメラ學塾へ)への想像力を召喚するのだが、やすやすと陰謀論に堕するつもりはない)。
 戦後、1951年に博物館法が制定され、石田英一郎(→wiki)や、渋沢に師事した宮本馨太郎(→wiki)が陳情し、文部省資料館内に民族資料収蔵庫ができた。
 民博が設立されるとアチック・ミューゼアムの収集品は、後述する万博テーマ館の地下展示用に梅棹忠夫や泉靖一らが世界各地から収集した資料とともに、民博に移管された。

国立民族学博物館

○梅棹忠夫
 後に民博の初代館長となる梅棹忠夫は、1941年に京都大学理学部に入学して動物学を専攻、今西錦司を隊長とするポナペ島調査隊や大興安嶺探検隊に参加した。43年に日本民族学協会(のちの日本民族学会)に入会、44年には大学院特別研究生制度で兵役を延期され、石田英一郎や藤枝晃らがいた蒙古善隣協会西北研究所に赴任した。なお、西北研究所の活動については、先述の『近代日本の人類学史』第6章  内陸アジア研究と京都学派 に詳しい。
 梅棹は1946年に帰国すると、オタマジャクシの社会を数理的に解析した研究を行った。この研究(「動物の社会干渉についての実験的ならびに理論的研究」)は日本における数理生態学の先駆けとなり、1961年に京大から理学博士号が授与された。
 1949年に大阪市立大学助教授となり、秋には今西隊長の屋久島踏査隊に参加。51年に雑誌『思想』に「ヤク島の生態」を寄稿して柳田國男から注目される。
 1955年、京大人文科学研究所の非常勤講師となり、木原均を総隊長とする京大カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。これは梅棹が動物学・生態学から民族学・人類学に軸足を移す契機となった。翌56年、当探検の体験をまとめた『モゴール族探検記』を岩波から出版してベストセラーとなる。翌57年には『中央公論』に「文明の生態史観序説」を発表した。
 1959年には同じく『中央公論』で「日本探検」シリーズの連載を開始。このシリーズは第1回が福山、第2回は綾部・亀岡の大本教、第3回では北海道独立論、第4回が高崎山、第5回が事務革命、第6回が名神道路、第7回が出雲大社となっており、桑原武夫(→wiki)は大本教編を絶賛した。
 同年、『婦人公論』に「妻無用論」を発表して"炎上"。この頃から日本で普及し始めたテレビにも盛んに出演した。1963年1月、『放送朝日』1月号に「情報産業論」を発表(後に『中央公論』に転載)。そして、1964年春頃から林雄二郎、小松左京、川添登、加藤秀俊らと「万国博を考える会」を始める。同年、梅棹は日本民族学会の理事となり、泉靖一らとともに博物館設立運動を推し進めていく。

 参考文献:『梅棹忠夫―「知の探検家」の思想と生涯』山本 紀夫 (著)
        『民博誕生―館長対談』

 国立民族学博物館(2)に続く。