エルム街のフュースリ 

『夢魔』

 ケン・ラッセルといえばザ・フーのロックオペラ『トミー』『アルタード・ステーツ 未知への挑戦』 の監督でエイズで亡くなった映画人として知られるが、彼の 作品『ゴシック』に、フュースリ『 夢魔(Nightmare)』 にそっくりな構 図のシーンが出てくる。
 『ゴシック』は、1816年の5月にロマン派詩人バイロン卿が所有するジュネーヴ湖畔の別荘に集まった男女がおのおの怖い話を書こ うと思い立つが、やがて恐ろしい夜を迎える……という話だ。その男女とはバイロンの他にロマン派詩人のシェリーとその恋人メア リー、メアリーの異母妹クレア、バイロンの主治医ジョン・ポリドリである。その夜がきっかけとなって、メアリー・シェリーはS Fの祖として名高い『フランケンシュタイン』(1818年)を書き、ポリドリは最初の吸血鬼小説「ヴァンパイア」を 書く。つまり、二〇世紀になって何度も映画化された二大怪物は、同じ夜に産み落とされたと言いたいようだ。
 ヴァンパイアの伝説はそれ以前からあったが、ポリドリは「ヴァンパイア」で初めて青白き美青年の吸血鬼を描いたと言われてい る。モデルはバイロン卿。『夢魔』 で上半身をのけ ぞらせた女の上にうずくまる悪魔は、確かに吸血鬼を想像させる。あるいは女に淫らな夢をもたらすインキュブスか。後ろのカーテ ンから頭を覗かせる馬は、たぶんNightmare――夜(night)の雌馬(mare)に掛けているのだろう。
 メアリー・シェリーの母、有名な女権論思想家のメアリー・ウルストンクラフトはフュースリを熱烈に愛し、「 精神的な妻としてでもいいから同居させて欲しい」と迫ってフュースリ夫人から拒絶されたそうだ。ケン・ラッセルが『夢魔』を引 用したのは、メアリーをフュースリの精神的な娘と言いたかったのかもしれない。(ひょっとするとフィジカルな 娘かもしれんが……)
 『岩波 世界の美術 ロマン主義』によると、フュースリは「夢は芸術の中で最も開拓されていない領域の一つ だ」と宣言している。まさに20世紀のシュルレアリストの先駆者と言えよう。この絵には夢の持つ大いなる力と侵犯性が見て取れる 。
 フュースリは1741年チューリッヒの生まれ。父親は肖像画家で、スイスの優れた文学者 たちと交遊があった。コレギウムでは教師のボドマー(ミルトン『失楽園』やシェイクスピア作品などの翻訳・紹介で名高い)に影 響を受け、のちに骨相学者として有名になるラヴァーターと親交を結ぶ。ふたりは1762年にチューリヒの代官の不正を告発して騒動 を巻き起こし、ベルリンに逃亡。フュースリはボドマーや英国大使のつてを頼って1764年にロンドンに移住する。 翌65年には新古典主義の聖典、ヴィンケルマン『古代美術模倣論』の英訳本を世に出す。その後スイス時代から崇敬していたジャン =ジャック・ルソーに会い、67年に『ルソーの著作と生涯について』を刊行。
 つまり彼の若い頃の関心領域は、美術だけにとどまらず思想や文学まで幅広かったのである。しかし、官学派の巨頭ジョシュア・ レノルズから画家になるよう勧められ、ようやく画家の道を進む決心をした。1770年から8年間イタリアに滞在して、画家としての修 業を積むが、時は1770年代、ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を発表して迎えたシュトゥルム・ウント・ドランク期。古典主 義的技法の習得に励む一方で、頭の中はロマン主義に夢中だった。美術では特にミケランジェロに傾倒し、そのマニエリスム的側面 を踏襲した。
 帰英したフュースリはロンドンの文化人サークルの中心人物となり、1782年にはロイヤル・アカデミーに『 夢魔』 を出品して好評を博した。その後、彼はダンテやシェイクスピア、ミルトンなどの文学作品をテーマに幻想性に富んだ絵画を描いた。99年にはロイヤル・アカデミー教授に就任したが、業界の「問題児」ウィリアム・ブレイクとも親交を結んだ。(参考文献:由良君美の『ディアロゴス演戯』)

 美の帝国フランスの「美術政治」によるものか、あるいはイコノクラスムの伝統を引き継ぐプロテスタントの血のせいか(彼らは 美術より音楽を重視した)、イギリスの美術はどうも今一つぱっとしない。しかし、フュースリやターナー、ロセッティ、ジョン・マーチンなど重要な画家が何人もいることに注目しなければならない。
 フュースリは20世紀後半になって再評価され、関係本が数多く出版されている。一例は以下のとおり。

"Henry Fuseli"Carolyn Keay著
"Life and Times of Henry Fuseli"Peter Tomory著
"Henry Fuseli (British Artists S.)"Martin Myrone著

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ロマンチックって何? あるいはドラクロワ(2) 

「民衆を導く自由の女神」 (1830年作)

 ニューヨークにある自由の女神像は、アメリカ独立100周年を記念してフランスが1886年に贈ったものだ。製作者のフレデリック・バルトルディは、ドラクロワが本作品で描いた女神と自分の母親をモデルに自由の女神像をつくった。
 ドラクロワは、1830年7月28日に起きた事件をもとにこの絵を描いた。当時は皇帝ナポレオンが国外に追放されて王政復古の時代を迎えていたが、言論の自由を奪われたパリ市民はついにバリケードを築いて武装蜂起した。いわゆる7月革命である。ドラクロワはセーヌ川の対岸でこの様子を見て民衆のパワーに圧倒された。革命に流血はつき物だが、彼は血と暴力にまみれた革命の荒々しい現実をやわらげるため、自由の女神を革命のシンボルとして描き加えた。フランス百年戦争におけるジャンヌ・ダルク、60年安保闘争における樺美智子――ヒロイックな戦闘・革命には必ず女神(=供犠)が求められる。
 ちなみにバルトルディはフリーメイソンの一員だった。かつて自由の女神像の台座には「フランスのフリーメイソンからアメリカのフリーメイソンに贈られた旨とフリーメイソンシンボルの入ったプレートがあった」(Wikipedia「自由の女神」より)という。
 フリーメイソンといえば、かつては世界的陰謀をたくらむ謎の秘密結社として数多の小説に登場していた。五木寛之とかね。しかし、ここ十数年の研究の結果、その全貌がだいぶ明らかになってきた。要するに彼らは近代精神を信じるブルジョワジーの親睦団体に過ぎなかった。フリーメイソンと一言で言ってもいろんな支部(ロッジ)があって、中には確かにいかがわしい秘儀をおこなったり政治的な暗躍を試みたりする人もいたかもしれない。しかし世界的な陰謀をたくらむ一枚岩的な秘密結社とはわけが違う。例えるなら一部に怪しい連中を抱えてしまった経団連、という感じだろうか。現代人は経団連にいかがわしい企業が紛れ込んでいても経団連に所属する大企業すべてがいかがわしいとは思わないだろう。ライブドアは自粛を迫られたけれど。
 フランス革命やアメリカ独立の立役者にフリーメイソンが混じっていたと言われると、確かにそうかもしれない。しかし、朴訥なキリスト教徒にはそれが恐ろしい世界的な陰謀に思われた。「フリーメイソンの陰謀論」の多くは、やり手の資本家連中に搾取される農民や都市貧民のロマンチックな想像だった可能性が高い。
 だから、もしあなたの身近にフリーメイソンの陰謀論を唱える人がいれば、大地に根ざした純朴な田舎の人だなあと思えばいい。ただし、純粋に「血と大地」を信じる連中だって暴走すればフリーメイソンと同じくらい?恐ろしいのだ。その代表がナチスドイツ。彼らは豊かな大地と自然に込められたゲルマン魂を信じて国家社会主義を唱え、フリーメイソン=ユダヤ連合の野望を打ち砕くため、その牙城であるイギリス・アメリカに戦いを挑んだ。同じく豊かなる自然を神と仰いだわが大日本帝国とともに……。
 かくしてフリーメイソン神話は精神の田舎者、もとい純朴な方々の間で何度でもよみがえる。オウム真理教の信徒だって「フリーメイソンと戦っていた」そうだから。
 最近では、明治維新に寄与した薩長や坂本竜馬を裏で操っていたのは長崎のグラバーを主とするイギリス人フリーメイスンであって、それが昭和の妖怪・岸信介を経由してその孫の安倍晋三にまでつながっていて……という日本メイソン・サガまであると聞く。ああ、人間の想像力って、なんて「素晴らしい」のだろう。
 私はフリーメイソンの陰謀論と聞くと、スイスのアドルフ・ヴェルフリやアメリカのヘンリー・ダーガーを思い出す。彼らは特に職業的な画家でも作家でもなかったが、長大な空想物語を挿絵つきで何万枚とかき続けた。何万枚ですぜ何万枚。あるいは超古代史や偽史(竹内文書とか宮下文書とか……)の世界。
 正直なところ、わたしはこれらの世界を愛してやまない。退屈な事実より面白い仮説を偏愛し、誰に頼まれたわけでもなく数々の想像を組み立てて長大な物語を描き続ける妄執。「現実」に恵まれない弱者たちのロマンチックな空想と片付けてしまうのは簡単だが、ときには社会の実力者までもがそれらに魅せられてしまうから不思議なものである。
 話がすっかり脱線したが、想像力を重んじるロマン主義の話ということでご勘弁を。

ロマンチックって何? あるいはドラクロワ(1) 

「キオス島の虐殺」

 ドラクロワがロマン主義の巨匠だと聞いたときは、違和感を感じたものだ。 どう見てもロマンティックではなく社会主義リアリズムではないか。
 しかし、ダヴィッド の新古典 主義がアカデミーの主流を占めていた当時、ギリシア・ローマの古典美のカノン(規範)に反するドラクロワのダ イナミックな構図と強烈な色彩の絵画は、ロマン主義と呼ばれた。冷たい形態美よりも人間の熱い内面を重視したロマン主義運動は フランス革命後の19世紀初頭に生まれたが、もともとは18世紀後半に文学の領域から生まれたものである。シュトゥルム・ウント ・ドランク――疾風怒濤――ゲーテの小説『ウェルテル』やシラーの戯曲『群盗』に代表されるドイツのロマン主義文芸運動である 。それは理性と調和を重んじる古典主義や啓蒙主義の対抗概念であり、情熱と感性と想像力を重視し、体制打破や自然志向、あるい は異国的なもの、未知のもの、神秘的なものへの憧憬を特徴としている。
 なるほど、言われてみるとドラクロワの絵は、社会主義リアリズムというより革命運動のアジテーション絵画の ように見える。というか、革命嗜好の連中が彼の情熱を模倣したというのが正しい言い方だろう。
 この絵の主題は、1822年4月に起こった実際の事件をもとにしている。当時ギリシアはオスマン・トルコの支配下にあったが、各地 で独立紛争が勃発していた。その最中にトルコ軍が地中海に浮かぶキオス島に上陸、住民2万人を虐殺した事件のことである。ヴィクトル・ ユゴーは「葡萄の島キオスはもはや陰鬱な暗礁でしかない」と詠い、ロマン派の青年たちの心を揺さぶった。当時ドラクロワは26歳 。正義と革命に熱く血を滾らせる盛りであった。
 勝ち誇る馬上のトルコ人兵士、拉致される裸婦、陵辱の果てに死に絶える若い母親、その母にすがりつく赤子、 途方に暮れる老婆……、同世代の新古典主義の巨匠、アングルの諸作品と同じく東方――トルコを描いているが、アングルの典雅な世界とはまったくの対極にある 。
 実物は422x352cmというから途方もなく大きい。プリハードコムは85cmx73cm [F15号] の複製画を提供 している。


[ドラクロワを知るための1冊]

ドラクロワの絵画作品を彼の書簡や日記などと共に紹介する本。表紙は「民衆を導く自由の女神」 だ。