【 ロマンチックって何? あるいはドラクロワ(1) 】
ドラクロワがロマン主義の巨匠だと聞いたときは、違和感を感じたものだ。
どう見てもロマンティックではなく社会主義リアリズムではないか。
しかし、ダヴィッド
の新古典
主義がアカデミーの主流を占めていた当時、ギリシア・ローマの古典美のカノン(規範)に反するドラクロワのダ
イナミックな構図と強烈な色彩の絵画は、ロマン主義と呼ばれた。冷たい形態美よりも人間の熱い内面を重視したロマン主義運動は
フランス革命後の19世紀初頭に生まれたが、もともとは18世紀後半に文学の領域から生まれたものである。シュトゥルム・ウント
・ドランク――疾風怒濤――ゲーテの小説『ウェルテル』やシラーの戯曲『群盗』に代表されるドイツのロマン主義文芸運動である
。それは理性と調和を重んじる古典主義や啓蒙主義の対抗概念であり、情熱と感性と想像力を重視し、体制打破や自然志向、あるい
は異国的なもの、未知のもの、神秘的なものへの憧憬を特徴としている。
なるほど、言われてみるとドラクロワの絵は、社会主義リアリズムというより革命運動のアジテーション絵画の
ように見える。というか、革命嗜好の連中が彼の情熱を模倣したというのが正しい言い方だろう。
この絵の主題は、1822年4月に起こった実際の事件をもとにしている。当時ギリシアはオスマン・トルコの支配下にあったが、各地
で独立紛争が勃発していた。その最中にトルコ軍が地中海に浮かぶキオス島に上陸、住民2万人を虐殺した事件のことである。ヴィクトル・
ユゴーは「葡萄の島キオスはもはや陰鬱な暗礁でしかない」と詠い、ロマン派の青年たちの心を揺さぶった。当時ドラクロワは26歳
。正義と革命に熱く血を滾らせる盛りであった。
勝ち誇る馬上のトルコ人兵士、拉致される裸婦、陵辱の果てに死に絶える若い母親、その母にすがりつく赤子、
途方に暮れる老婆……、同世代の新古典主義の巨匠、アングルの諸作品と同じく東方――トルコを描いているが、アングルの典雅な世界とはまったくの対極にある
。
実物は422x352cmというから途方もなく大きい。プリハードコムは85cmx73cm [F15号]
の複製画を提供
している。
[ドラクロワを知るための1冊]
ドラクロワの絵画作品を彼の書簡や日記などと共に紹介する本。表紙は「民衆を導く自由の女神」
だ。
- [2006/02/28]
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【 何も言うな。アングルを見よ(1) 】
ルーブルを見ずして一生を終えてはいかんだろう、と何年か前に生まれて初めてパリのルーブル美術館を訪れた。
いや、驚いたねえ。アートと美食で食っているフランスの権威を象徴する巨大な建物である。広いのなんの。日本人や中国人のツアー客がうじゃうじゃ這い回っているが、なにせ広いものだから「モナリザ」や「ミロのヴィーナス」像の周辺を除けば気を削がれることなく堪能できる。
そのとき最も惹かれた絵のひとつが、アングル
の「グランド・オダリスク」
(上)である。半身を大きく捻って振り返る裸婦の表情は格別である。古典的な美をそなえつつそれから逸脱せんばかりの官能性。エロティックとエレガンスの絶妙なブレンド。何よりも、この世ならぬ場所へといざなう悦楽的な眼差し。全体に眼を向けてももちろん素晴らしい。
構図は実に計算されている。中心に膝頭が置かれ、対角線に沿って長い腕や脚が伸びている。胴体の左側の輪郭線や右腕の線は、正中線の上部を中心とした円弧に忠実だ。胴体が異常なまでに長くデフォルメされていると当時の批評家は目くじらを立てたというが、ぜんぜん気にならない。むしろ、絵画史上屈指のデッサンの名手アングルが人体の規範を裏切ってまで表現したかった新たなる曲線美のイデアが強く感じられるではないか。
フランス革命を果たして神よりも人間が中心を担うようになった時代にあって、アングルは保守派ならではの慎みを保ちつつも、神の支配する古典的な比例美を逸して、人間の求める新たなる美の規範を築いたのだ。
「グランド・オダリスク」の構図は、師匠のダヴィッド
が1800年に描いた「レカミエ夫人の肖像」
(上)の影響を汲んでいる。
見比べてみると、こてこての古典主義者ダヴィッド
との歴然たる違いが見て取れる。アングルはドラクロワなどのロマン主義に対抗して新古典主義の旗手に担ぎ上げられたが、この場合の「ロマン主義」はあくまでも古臭い美術史用語でしかなく、本質的にはモダンアートの源泉であるロマン主義の巨匠と言うべきだろう。
イギリスの有名な美術史家ケネス・クラークは「裸体美術の成功の鍵は、誘惑的なまでにエロティックであると同時に、美術品として冷静に鑑賞しうる新たな肉体美の形式を創出することにある」と語ったそうだが、本作品はその要件をじゅうぶん満たしている。贅沢に時間をかけて精妙に描かれた細部の陰影もまた、なんとも素晴らしい。
なお、オダリスクのオダはトルコ語で「部屋」の意味。日本でも側室という言葉があるように、トルコの後宮に生きるスルタンの側室――ハーレムの美女、を意味する。ナポレオンのエジプト遠征はフランスに東方趣味をもたらしたと言われており、アングルはローマ留学中の1814年にこれを描いている。
ルーブルで眼にした名作の数々が、優れた技術の複製画として入手できるという。
絵画はできるだけ本物を見たほうがいい。写真では感じ取れないアウラがそこにはあるからだ。複製画でも同じサイズなら、本物に近いアウラを感じられるだろう。本物のサイズは91x162センチでプリハードコムの用意した複製画は61cmx92cm。理想を言えばアングルの別作品「泉」
のように同サイズの複製画が欲しいところだが、見ればわかるようにけっこうなお値段となる。
自宅を美術館にするつもりでないなら、3分の2サイズでもじゅうぶんだろう。書斎の壁に『グランド・オダリスク』を掲げてライトアップし、ブランデー・グラスを傾けながら鑑賞する。
これ以上の贅沢はほかに思いつかない。
- [2006/02/27]
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【 何も言うな。アングルを見よ(4) 】
かつてソープランドはトルコ風呂と呼ばれていた。トルコ政府のクレームにより改名を強いられたのだが、トルコ風呂やハーレムという言葉が男性諸氏のエロティックな妄想を掻き立てたことには、もちろんそれなりの理由がある。アングルの「トルコ風呂」
も、トルコ風呂のエロティック・イメージ形成に多大な影響を与えたひとつに違いない。
それにしてもまあ、女の匂いでむせ返るような情景である。なまめかしい肉体をくねらせて多彩なポーズをとる裸婦が二〇人あまりもひしめき合っている。玉を転がすような艶笑がそこかしこから聴こえ、甘酸っぱい匂いがこちらにまで漂ってきそうだ。アングルは晩年の八二歳でこの絵を描きあげたというが、北斎しかり、ピカソ
しかり、天才と呼ばれる画家は老いてなお性に貪欲だった。
彼はトルコには一度も行ったことがない。この絵は18世紀にコンスタンティノープルに在住した英国大使夫人の浴場見聞記をもとに描いたのだそうだ。ひとりひとりの肢体をじっくり見ていると、ポーズにせよ表情にせよ、いずれも個性豊かである。背中を向けてマンドリンを弾く裸婦は、アングルが若いころ描いた「浴婦」
の焼き直しである。上体をのけぞらせている女は、かつてよく模写をしたインド彫刻の女体にそっくりだが、モデルは彼の2番目の妻デルフィーヌだそうだ。つまり、この豊麗な女体の標本箱のような作品は、彼が過去に描いた裸婦画の集大成なのだ。描きあげたのは最晩年の1883年だが、若い頃をいろいろ思い出しながら描いたに違いない。
円形の枠組は、一度完成した四角い作品の四隅を切って丸くしたせいだという。あたかも壁にあいた覗き孔から窃視しているような感覚が味わえる。本物は直径108センチ。プリハードコムの複製画は57cmx64cm [F8号]
である。
- [2006/02/27]
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【 何も言うな。アングルを見よ(3) 】
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「浴婦」
、いわゆる「ヴァルパンソンの浴女」はアングルがローマ留学中に描いた傑作のひとつ。肉付きのひとつひとつが精緻に描かれて、まるで生きているかのようだ。薄汚れて見える白いシーツの襞がなんとも艶っぽい。とくに左腕にまつわりついたシーツが不思議な存在感を醸している。肘から先が切断されたがゆえに巻かれた包帯のようにも見える。こうなるともうアングルはハンス・ベルメールやロマン・スロコンブのような畸形美術の祖に位置づけられるが、ちょっとそれは牽強付会に過ぎるだろう。
サルバドール・ダリが女の背中をよく描いたのは、彼が尊敬するアングルの影響だと言われている。背中は後背位を想起させるとともに、窃視への欲望を象徴する。フェミ系の評論家たちは、女の背中ばかりを描くダリを、女と正面切って向かい合えない脆弱な精神の持ち主とあげつらったが、決してそうではない。男の性欲はきわめて「脳」的ゆえに、ときには接触よりも窃視を欲してしまうのだ。
ハイパーリアルに描かれたシーツとは対照的に、足元に見える電気のコンセントみたいな「ライオンの口」はハーレムの浴場をあらわすだけで、まるで取ってつけた感じだ。あとで弟子が描き加えたのだろうか?
- [2006/02/26]
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【 何も言うな。アングルを見よ(2) 】
アングルの「泉」
である。「グランド・オダリスク」
に比べると官能性では劣るが、そのぶん乙女の清純なエロス(死語^^;)が薫ってくる。この絵画は1820年にフィレンツェで構想されたが、水甕を肩に乗せたポーズはフォンテーヌブロー派の浮彫によく見られるテーマだ。水甕とそこから流れ落ちる水が何を象徴するか想像してほしい。ただし決してそれを口にしてはいけない。
ここで、アングルの略歴をおさらいしてみよう。
Jean Auguste-Dominique Ingre (1780-1867) : トゥールーズ近郊のモントーパンに生まれ、画家・彫刻家であった父にデッサンを学んだ。
トゥールーズの美術学校を経て97年にパリに上京、ダヴィッド
の弟子となる。1801年に「アガメムノンの使者たち」でアカデミーの美術賞であるローマ賞を受賞したが、ナポレオンのエジプト遠征による財政的事情からローマへの留学を1806年まで延期される。
ローマではフランスが所有していたメディチ家の別荘に寄宿して古代遺跡やルネサンス美術を訪ね歩き、デッサンの研究を重ねた。とくにラファエルに傾倒して模写を繰り返したというから、彼独特の典雅にして優麗なる画風はラファエロ
の影響である。ローマ時代に「エディプスとスフィンクス」(1808)、「浴婦」
(1808)、「グランド・オダリスク」
(1814)などを描き上げたが、これらの作品はいずれも「ゴシック的」、「変」だと酷評され、アングルは留学期間を終えてもイタリアに滞在し続けた。
1824年にアカデミーに呼び戻されると、アングルは新たに台頭してきたドラクロワ
らのロマン主義運動に対抗する新古典主義の旗手として担ぎ上げられた。サロンに出品した「ルイ13世の請願」が認められてパリにアトリエを開く。1828年より美術学校の教授として後進の指導にあたるが、34年「聖サンフォリアンの殉教」の不評に気落ちし、アカデミー・ド・フランスの院長としてローマに引きこもる(〜41年)こともあった。
その後アングルは大御所としてパリの画壇に君臨し、55年のパリの万国博覧会では大々的な回顧展が開かれた。
最晩年の1863年には、裸婦画の集大成である「トルコ風呂」
を完成する。(ところが、これも顧客の奥方に不興を買い、引取りを拒否されている)
プリハードコムは「泉」について、本物と同サイズの163x80cm[M100号]
を用意している。フレーム付で63万円は、ちょっと立ちくらみのするお値段だが、きっと値段相応の贅沢感が得られるに違いない。92cmx56cm
[M20B号]
のほうはフレーム付で105,000円。
- [2006/02/25]
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