【 アール・ブリュット ポスター展 】
アウトサイダー・アートというのは芸術家となる訓練を受けていない人たちが芸術家になるつもりなどさらさらなく、ひたすら私的に偏執的に創り出したもので、結果としてそれが見る者たちに芸術を感じさせるような作品のことだ。作家の多くが知的障害者で、強迫観念が極度に塗り込められたような作品が多い。
銀座資生堂ギャラリーが昨年秋にアール・ブリュット展を開催し、芸術新潮も14年ぶりくらいに アール・ブリュットの特集を組んだので、だいぶ日本でもアウトサイダアート/アール・ブリュットが浸透してきたように思う。
アウトサイダーアートというのはジャン・デュビュッフェの提唱した「アール・ブリュット」(生の芸術)の英訳語だ。英語の政治力が圧倒的に強いために日本でもこちらのほうが有名になって私までそれに加担した(ほとんど影響力はないが)わけだけど、本来は「アール・ブリュット」が正しい。まあ、デュビュッフェもアール・ブリュットの定義にこだわり過ぎてグダグダになってたわけだし、アートのカテゴライズなんてなんとなくわかる程度でいいよね。
アウトサイダー・アートの有名な作家といえば、数年前に東京のワタリウムで展示会があったヘンリー・ダーガーで、ダーガーの生涯を描いた映画が今年、日本でも上映されるそうだ。
ブレイクしたらサイトでいじましくアフィをやっている私の懐にも若干のおこぼれが回ってくるかもしれないのだけど、アート系の映画だから東京だけの単館上映にとどまりそうな気がする。
ところで今、大阪でアール・ブリュットのポスター展をやっているそうだ。場所は地下鉄四ツ橋線四ツ橋駅にある&'s Bar(アンズバー)。大阪近辺にお住まいで興味のある方は寄ってみてください。
もし今回見逃しても、毎月一週間づつアール・ブリュットの紹介活動をおこなうそうなので、ギャラリースケジュールで予定を確認してみてください。
3/13(mon)〜3/19(sun) : &'s scene■
『Art Brutポスター展 』〜生の芸術の世界〜
http://www.andsshop.com/
- [2006/03/17]
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【 ミケランジェロと恐るべき教皇 】
アダムの創造
神のごときミケランジェロ
ユリウス2世の生涯のライバルは、かの悪名高きロドリコ・ボルジアだった。ボルジアは1492年にアレクサンドル6世として教皇に 選出されたが、息子のチェザレとともに政敵を次々と毒殺し、愛人との間に十数人の子どもをつくり、実娘ルクレチアとの近親相姦 まで囁かれた。 ユリウス2世も負けてはいない。かつての仇敵の息子チェザレを味方につけて教皇に選出されると、ローマの高級娼婦を片っ端から 愛人にし、美食を好み、梅毒と通風を患っていた。アレクサンドルの浪費で底をついた教会財政を立て直すために、民衆に酷税を課 せ、えげつない聖職売買で収入を稼いだ。マルチン・ルターが火の舌でもって教会批判を開始するわずか十年足らず前のことだ。
ミケランジェロは教皇の指示に従い1508年から1512年にかけて天井画を描いた。絵画より彫刻を重視していた彼は当初、乗り気で はなかった。それでも手際の悪い助手たちを全員くびにして、3年半もかけてひとりで完成させた。この天井画ばかりはいかなる図版 を見るよりも実物を見ることをお勧めする。『アダムの創造』はその一部で、ミケランジェロ
創造されたばかりのアダムが父なる神より人さし指を通して生命エネルギーを与えられるというイメージは、聖書の旧約聖書のど こにも表現されていない。ミケランジェロ
ユリウス2世はかんしゃくもちのサディストで、気に入らないことがあるとすぐに従僕を杖で殴りつけた。天井画を描いている最中 にも何度か訪ねてきて、愚痴をこぼすミケランジェロ
(以上、参考文献は『システィナ礼拝堂とミケランジェロ
- [2006/03/14]
- ルネサンス・マニエリスム |
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【 『着衣のマハ』の理由 】
『着衣のマハ』
『裸のマハ』
この二枚の絵が公衆の面前に晒されたのは1808年のことだ。
大航海時代には世界を席巻したスペインだったが、その後国力は低下傾向にあった。カルロス3世時代(18世紀半ば)に多少盛り返
したものの、続くカルロス4世が無能だったため、政権は王妃マリア・ルイーサとその愛人ゴドイに委ねられた。ふたりにとって金と
権力は思うがままだった。しかし、これに業を煮やしたカルロス4世の息子、フェルナンド7世はポルトガル討伐を理由に侵攻してき
たフランス軍に呼応、アランフェスで反乱の狼煙を上げた。ゴドイは逮捕され、莫大な資産が没収された。資産のなかにはゴドイが
収集した1000枚以上にのぼる絵画が含まれており、『着衣/裸のマハ』もそのなかにあった。
カトリックの伝統を守る敬虔なクリスチャンは、『裸のマハ』を初めて見たとき卒倒したに違いない。そこに描かれていたのは、
陰毛を晒け出した生身の女だったからだ。当時は裸婦画自体が珍しく、あったとしても神話上の女神かニンフに限られていた。しか
も、『着衣のマハ』があるために脱衣という行為がいやでも想像され、エロティシズムが引き立つ。抽象のベールを帯びた美しいヌ
ードではなく、劣情を刺激する厄介なネイキッド――。
当時、敬虔なカトリックの伝統を引き継ぐスペインでは、異端審問所が依然幅を利かせていた。彼らは、この禁断の絵を依頼した
のはゴドイ本人で、描いたのは宮廷画家フランシス・ゴヤであることを突き止めた。ゴドイは愛人ペピータ・トゥドーの裸身をゴヤに描かせ、同一ポーズの着衣画も描かせていつでも替えられるようにしていた、と噂された。
スペイン映画の巨匠、ビガス・ルナの映画『裸のマハ』(DVD/ビデオ【字幕】
/ビデオ【吹替】
)は、この絵をめぐって、王妃の寵愛によって25歳で宰相にまで上り
詰めた美少年のゴドイ、王妃マリア・ルイーサ、ペピータ・トゥドー、王妃に対立するアルバ公爵夫人、ゴドイの正妻・チンチョン伯爵夫人、そしてフランシス・ゴヤの愛憎を描いた作品だ。ゴヤがひそかに思いを寄せるアルバ公爵夫人の毒殺疑惑に絡んだミステリ仕立てになっていて、お勧めの作品だ。徳間文庫からビガス・ルナ原著で『裸のマハ―名画に秘められた謎』
という本も出ている。
ゴヤは1746年にアラゴン王国の旧都サラゴサの近郊に生まれた。マドリードの王立サンフェルナンド美術アカデミーの奨学試験に
2度も落選し、1775年以降は王立タピスリー工場で下絵を描いていた。1780年に王立アカデミーの会員に迎えられ、1786年には国王
カルロス3世付きの画家となる。そして1789年のカルロス4世の即位に伴い、あらためて宮廷画家に任命された。
ところが1792年には原因不明の大病に罹り聴覚を失う。ある感覚器官が損なわれると他の機能がそれをカバーするために
より鋭敏となり、創造能力を高めるというが、彼の場合も名作と呼ばれる作品を生むのは聴覚を失って以降のことだ。
先述の政変のあと、フランスの皇帝ナポレオンはカルロス4世とフェルナンド7世の両者を幽閉し、兄ジョゼフをスペイン王位につ
けた。これにはスペイン民衆も怒り心頭に達し、ナポレオン軍に徹底抗戦した。ゲリラという言葉はここから生まれたという。
混乱を極めるなか、ゴヤは「戦争の惨禍」などの銅版画をつくり続けた。しかし、1819年にはマドリード近郊に別荘を購入し、「
聾唖の家」と名づけて引きこもった。そこで彼は凄惨な連作絵画『黒い絵』を制作した。
その後、彼はフェルナンド7世と仲違いしたままフランス・ボルドーに亡命し、1823年に没した。享年82歳。
プリハードコムは、『着衣のマハ』について56cmx92cm [M20B号]
を、『裸のマハ
』については56cmx92cm [M20B号]
と95cmx166cm [80号 変形]
を提供している。
- [2006/03/06]
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【 エルム街のフュースリ 】
ケン・ラッセルといえばザ・フーのロックオペラ『トミー』や『アルタード・ステーツ 未知への挑戦』
の監督でエイズで亡くなった映画人として知られるが、彼の
作品『ゴシック』
に、フュースリの『
夢魔(Nightmare)』
にそっくりな構
図のシーンが出てくる。
『ゴシック』は、1816年の5月にロマン派詩人バイロン卿が所有するジュネーヴ湖畔の別荘に集まった男女がおのおの怖い話を書こ
うと思い立つが、やがて恐ろしい夜を迎える……という話だ。その男女とはバイロンの他にロマン派詩人のシェリーとその恋人メア
リー、メアリーの異母妹クレア、バイロンの主治医ジョン・ポリドリである。その夜がきっかけとなって、メアリー・シェリーはS
Fの祖として名高い『フランケンシュタイン』
(1818年)を書き、ポリドリは最初の吸血鬼小説「ヴァンパイア」を
書く。つまり、二〇世紀になって何度も映画化された二大怪物は、同じ夜に産み落とされたと言いたいようだ。
ヴァンパイアの伝説はそれ以前からあったが、ポリドリは「ヴァンパイア」で初めて青白き美青年の吸血鬼を描いたと言われてい
る。モデルはバイロン卿。『夢魔』
で上半身をのけ
ぞらせた女の上にうずくまる悪魔は、確かに吸血鬼を想像させる。あるいは女に淫らな夢をもたらすインキュブスか。後ろのカーテ
ンから頭を覗かせる馬は、たぶんNightmare――夜(night)の雌馬(mare)に掛けているのだろう。
メアリー・シェリーの母、有名な女権論思想家のメアリー・ウルストンクラフトはフュースリを熱烈に愛し、「
精神的な妻としてでもいいから同居させて欲しい」と迫ってフュースリ夫人から拒絶されたそうだ。ケン・ラッセルが『夢魔』を引
用したのは、メアリーをフュースリの精神的な娘と言いたかったのかもしれない。(ひょっとするとフィジカルな
娘かもしれんが……)
『岩波 世界の美術 ロマン主義』によると、フュースリは「夢は芸術の中で最も開拓されていない領域の一つ
だ」と宣言している。まさに20世紀のシュルレアリストの先駆者と言えよう。この絵には夢の持つ大いなる力と侵犯性が見て取れる
。
フュースリは1741年チューリッヒの生まれ。父親は肖像画家で、スイスの優れた文学者
たちと交遊があった。コレギウムでは教師のボドマー(ミルトン『失楽園』やシェイクスピア作品などの翻訳・紹介で名高い)に影
響を受け、のちに骨相学者として有名になるラヴァーターと親交を結ぶ。ふたりは1762年にチューリヒの代官の不正を告発して騒動
を巻き起こし、ベルリンに逃亡。フュースリはボドマーや英国大使のつてを頼って1764年にロンドンに移住する。
翌65年には新古典主義の聖典、ヴィンケルマン『古代美術模倣論』の英訳本を世に出す。その後スイス時代から崇敬していたジャン
=ジャック・ルソーに会い、67年に『ルソーの著作と生涯について』を刊行。
つまり彼の若い頃の関心領域は、美術だけにとどまらず思想や文学まで幅広かったのである。しかし、官学派の巨頭ジョシュア・
レノルズから画家になるよう勧められ、ようやく画家の道を進む決心をした。1770年から8年間イタリアに滞在して、画家としての修
業を積むが、時は1770年代、ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を発表して迎えたシュトゥルム・ウント・ドランク期。古典主
義的技法の習得に励む一方で、頭の中はロマン主義に夢中だった。美術では特にミケランジェロに傾倒し、そのマニエリスム的側面
を踏襲した。
帰英したフュースリはロンドンの文化人サークルの中心人物となり、1782年にはロイヤル・アカデミーに『
夢魔』
を出品して好評を博した。その後、彼はダンテやシェイクスピア、ミルトンなどの文学作品をテーマに幻想性に富んだ絵画を描いた。99年にはロイヤル・アカデミー教授に就任したが、業界の「問題児」ウィリアム・ブレイクとも親交を結んだ。(参考文献:由良君美の『ディアロゴス演戯』)
美の帝国フランスの「美術政治」によるものか、あるいはイコノクラスムの伝統を引き継ぐプロテスタントの血のせいか(彼らは
美術より音楽を重視した)、イギリスの美術はどうも今一つぱっとしない。しかし、フュースリやターナー、ロセッティ、ジョン・マーチンなど重要な画家が何人もいることに注目しなければならない。
フュースリは20世紀後半になって再評価され、関係本が数多く出版されている。一例は以下のとおり。
"Henry Fuseli"Carolyn Keay著
"Life and Times of Henry Fuseli"Peter Tomory著
"Henry Fuseli (British Artists S.)"Martin Myrone著
- [2006/03/04]
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【 ロマンチックって何? あるいはドラクロワ(2) 】
「民衆を導く自由の女神」
(1830年作)
ニューヨークにある自由の女神像は、アメリカ独立100周年を記念してフランスが1886年に贈ったものだ。
製作者のフレデリック・バルトルディは、ドラクロワが本作品で描いた女神と自分の母親をモデルに自由の女神像をつくった。
ドラクロワは、1830年7月28日に起きた事件をもとにこの絵を描いた。当時は皇帝ナポレオンが国外に追放されて王政復古の時代を迎えていたが、言論の自由を奪われたパリ市民はついにバリケードを築いて武装蜂起した。いわゆる7月革命である。ドラクロワはセーヌ川の対岸でこの様子を見て民衆のパワーに圧倒された。革命に流血はつき物だが、彼は血と暴力にまみれた革命の荒々しい現実をやわらげるため、自由の女神を革命のシンボルとして描き加えた。フランス百年戦争におけるジャンヌ・ダルク、60年安保闘争における樺美智子――ヒロイックな戦闘・革命には必ず女神(=供犠)が求められる。
ちなみにバルトルディはフリーメイソンの一員だった。かつて自由の女神像の台座には「フランスのフリーメイソンからアメリカのフリーメイソンに贈られた旨とフリーメイソンシンボルの入ったプレートがあった」(Wikipedia「自由の女神」より)という。
フリーメイソンといえば、かつては世界的陰謀をたくらむ謎の秘密結社として数多の小説に登場していた。五木寛之とかね。しかし、ここ十数年の研究の結果、その全貌がだいぶ明らかになってきた。要するに彼らは近代精神を信じるブルジョワジーの親睦団体に過ぎなかった。フリーメイソンと一言で言ってもいろんな支部(ロッジ)があって、中には確かにいかがわしい秘儀をおこなったり政治的な暗躍を試みたりする人もいたかもしれない。しかし世界的な陰謀をたくらむ一枚岩的な秘密結社とはわけが違う。例えるなら一部に怪しい連中を抱えてしまった経団連、という感じだろうか。現代人は経団連にいかがわしい企業が紛れ込んでいても経団連に所属する大企業すべてがいかがわしいとは思わないだろう。ライブドアは自粛を迫られたけれど。
フランス革命やアメリカ独立の立役者にフリーメイソンが混じっていたと言われると、確かにそうかもしれない。しかし、朴訥なキリスト教徒にはそれが恐ろしい世界的な陰謀に思われた。「フリーメイソンの陰謀論」の多くは、やり手の資本家連中に搾取される農民や都市貧民のロマンチックな想像だった可能性が高い。
だから、もしあなたの身近にフリーメイソンの陰謀論を唱える人がいれば、大地に根ざした純朴な田舎の人だなあと思えばいい。ただし、純粋に「血と大地」を信じる連中だって暴走すればフリーメイソンと同じくらい?恐ろしいのだ。その代表がナチスドイツ。彼らは豊かな大地と自然に込められたゲルマン魂を信じて国家社会主義を唱え、フリーメイソン=ユダヤ連合の野望を打ち砕くため、その牙城であるイギリス・アメリカに戦いを挑んだ。同じく豊かなる自然を神と仰いだわが大日本帝国とともに……。
かくしてフリーメイソン神話は精神の田舎者、もとい純朴な方々の間で何度でもよみがえる。オウム真理教の信徒だって「フリーメイソンと戦っていた」そうだから。
最近では、明治維新をもたらした坂本竜馬や長州藩を裏で操っていたのは長崎のグラバーを主とするイギリス人フリーメイスンであって、それが昭和の妖怪・岸信介やその孫の安倍晋三にまでつながっていて……という日本メイソン・サガまであると聞く。ああ、人間の想像力って素晴らしい。
私はフリーメイソンの陰謀論と聞くと、スイスのアドルフ・ヴェルフリやアメリカのヘンリー・ダーガーを思い出す。彼らは特に職業的な画家でも作家でもなかったが、長大な空想物語を挿絵つきで何万枚とかき続けた。何万枚ですぜ何万枚。あるいは超古代史や偽史(竹内文書とか宮下文書とか……)の世界。
正直なところ、わたしはこれらの世界を愛してやまない。退屈な事実より面白い仮説を偏愛し、誰に頼まれたわけでもなく数々の想像を組み立てて長大な物語を描き続ける妄執。現実に恵まれない弱者たちのロマンチックな空想と片付けてしまうのは簡単だが、ときには社会の実力者までもがそれらに魅せられてしまうから不思議なものである。
話がすっかり脱線したが、想像力を重んじるロマン主義の話ということでご勘弁を。
実物は260x325cmだが、プリハードコムは61cmx73cm [P10号]
と70cm×85cm P15号
を提供している。
- [2006/03/01]
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