懐かしのエヴァンゲリオン 

 古本屋巡りというのもたまにはいいものだ。思わぬ掘り出し物にめぐり合うことがある。大瀧啓輔の『エヴァンゲリオンの夢』がそれだ。というか、出版されたのは2000年なのだから、『エヴァンゲリオン』と大瀧の両方に関心をもっていた私としては、もっと早く気づいていなければならなかった。
 エヴァンゲリオンといえば1995年に放映されて以来、爆発的なヒットを記録したアニメだ。さほどアニメに関心がなかった私でも、ビデオで見てその謎めいた設定やメタアニメ的な物語進行に魅了されたものだ。ネルフ(神経)やゼーレ(魂)といった象徴的な名前の機関やロンギヌスの槍を突き刺された醜悪なアダム、人類補完計画、聖書や聖書の正典・外典から引用される語彙、天空に現れるカバラの象徴――セフィロートの樹などいくつもの謎が複雑に入り組む『エヴァ』は、本来なら「カルト的人気」という評価で終わるはずなのだが、驚くことに商業的にも大きな成功をおさめてしまった。
 『エヴァ』については数多くの解釈がなされ、さまざまな関連本が販売された。私にもそれがデビルマンと同様に「残酷な神と戦うデビル(ここではリリス)の子孫たち」という基本構造をもっていることや、使徒との闘いが結局のところは他者との接触を恐れる引きこもり少年の内面を表現している、というような大雑把な理解はできたが、登場する具体的なアイテムそれぞれについて何を表現しているのか、ビデオを観た当時は正直言ってほとんど理解できなかった。というか、大事な時間を費やしてまで解釈していったい何になるの? と諦観を決め込んだ。
 そういえば『エヴァ』以前にも同じような思いをしたことがあった。あれは確かSF作家フィリップ・K・ディックの発狂記念作『ヴァリス』を読み終わった時だ。『ヴァリス』は小説だが、これもまた多数の西洋オカルト・ジャーゴンに彩られた作品で、巻末には訳者が数十ページにも及ぶ解説と訳注を寄せている。学生時代にバンコクの安宿で腹痛にあえぎながら読んだのだが、オカルトの素養に欠けていた私には内容がほとんど理解できず、訳者のオカルト解説ばかりを貪り読んだものだ。
 アウトサイダーアートに興味を抱くようになったのは『ヴァリス』を読んで1~2年後のことだが、オギュスタン・ルサージュが「ティアナのアポロニウス」に導かれて絵を描き始めたという解説を「藝術新潮」で読んだとき、名前の主の素性がすぐに理解できたのも、『ヴァリス』訳注を読んでいたからだ。私は当時、日本ではほとんど一般に知られていなかった「ティアナのアポロニウス」という固有名詞に惹かれ、オカルトやアウトサイダーアートという実社会にまるで役に立たないものに引き込まれていった……。
 その『ヴァリス』の翻訳者こそが、『エヴァンゲリオンの夢』の著者、大瀧啓輔である。彼はディック作品の他にも多くのラヴクラフト作品やマルコム・ゴドウィンの『天使の世界』、フレッド・ゲティングズの『悪魔の事典』などを翻訳しており、荒俣宏と並ぶ西洋オカルティズム史研究の第1人者である。アナクロニズムとしてのオカルトという意味では東西を問わぬ幅広い視野で勝る荒俣に軍配をあげるが、『エヴァ』のような現代的なメタSFとオカルトの融合作品については大瀧こそが最も語るに相応しい。
 彼は本作の文中で『エヴァ』に遭遇したとき、この作品を解釈=翻訳することは自分の責務だと感じた、というようなことを述べている。ところどころで『ヴァリス』にも触れ、『ヴァリス』続編の『聖なる侵入』ではヤハウェが処女懐胎により人体をまとったため、自分が神であることすら忘れはてるが、世界にあまねく存在するシェキーナーに接することで本来の自分を想起する。一方『エヴァ』ではシェキーナーに通低するレイが想起を必要とする存在になっているのが興味深い、などと語っている。
 また、登場人物が三人一組のセットで現れるシーンが多く、四人目が登場すると三人のうちの誰かが除去される法則があることを鋭く指摘する。襲来する使徒が殺されるたびに進化を遂げ、最終進化形こそがヒトガタである渚カヲルだと言い、アダムと接触するために襲ってくる使徒たちは卵子に群がる精子のようだと説く。なぜ最後の使途、カヲルが登場するとき、ベートーベンの第9を口ずさむのか、リリスの子孫たる人類とアダムの子たる使徒の関係について説得力のある解釈を披露する。一方で類本にありがちなエヴァンゲリオンとグノーシスの関係については、狭義のそれとは一切関係ないときっぱりと否定している。

 現在アメリカでは『エヴァ』の実写化プロジェクトが進行中だという。『マトリックス』で新たなSFエンターテイメントを成功させたアメリカ文化が『エヴァ』をベースにいかなる神話世界を作り上げるのか、じつに興味深い。『マトリックス』の商業的成功は、ありきたりの物語に飽きた人々や難解な設定の解釈を楽しむ若い知的スノッブ層を取り込んで成功した『エヴァ』の前例に負うところがあると思う。できれば、この本を英訳して脚本家やプロデューサーに読ませたいものだ。日本人による西洋オカルト解釈がどう受け止められるのか知りたい。
 もし、『エヴァ』の思想が正確に反映された映画となれば、『ダ・ビンチ・コード』以上にカトリックの逆鱗に触れるはずだ。いや、むしろ『ダ・ビンチ・コード』は欧米の一般大衆が『エヴァ』を受け入れるための心の準備ではないのか、とさえ思う。
 マリア信仰の裏側にはヨーロッパで異教とされた伝統的な地母神信仰が隠され、男性中心主義に貫かれたカトリック教会が歴史的に土着の地母神信仰を封印してきたことは、昔から民俗学や歴史学の世界では常識だった。
 『エヴァ』の世界では地球防衛のために積極的に闘うのは女たちだ。ミサトでありリツコであり、母の魂を帯びたエヴァンゲリオンだ。男たちは陰謀や暗躍に明け暮れるだけだ。彼女たちはエンジェル――唯一男性神の精子の攻撃を迎え撃つ。使徒とアダム(じつはリリス)の接触による人類滅亡と再生は、精子を受け入れ小さな死―petite mort―つまりエクスタシーを経て新生児の誕生にいたるヒエロガモス(聖なる結婚)のプロセスを表現するかのようだ。『エヴァ』は昨今のシンプルな女性マンセー主義に迎合することなく、地母神の恐るべき破壊的側面を露わにし、星間戦争ならぬ性間戦争と、不一致の一致の苛烈な真実にも迫っている。10年も経って言うのもなんだが、あらためて30年に1作出るか出ないかの傑作だと言えるだろう。

4488023606エヴァンゲリオンの夢―使徒進化論の幻影
大滝 啓裕
東京創元社 2000-08

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