ヴォイニッチ写本 

 知っている人は知っているが知らない人はまるで知らない、というか知らなくてもいい、否、知らないほうがいい、という世界は数多くある。
 ヴォイニッチ写本の世界もそのひとつだ。
 2006年1月に『ヴォイニッチ写本の謎』(青土社)が日本で出版された。ヴォイニッチ写本については高橋健氏のサイトを見て概要は知っていたので、書店で本書を見かけたときは、つい手に取ってぱらぱらとめくってみた。すると偶然にもアウトサイダーアートに言及するページが目に留まって購入するにいたった。ひょっとすると本書はアウトサイダーアートと精神医学とオカルト、陰謀論――偽史的なるものの関係、ひいては精神疾患と想像性の関係をひも解くという私の生涯研究テーマ(?)に何らかの示唆を与えてくれるのではないかと期待したからだ。

 ヴォイニッチ写本(Voynich Manuscript)というのは、1912年にローマ近郊のモンドラゴネ寺院でポーランド系アメリカ人の古書商ウィルフリド・ヴォイニッチが発見したという、未知の文字で記された彩色挿絵入り古文書だ。14~16世紀に作成されたと考えられるが、挿絵として描かれているのは、地球上に存在しないような植物、天体や星雲、薬壷、裸婦の入浴シーンなど。いずれも稚拙ながら丹念に描かれている。
 言語学者や暗号学者が解析したところ、本文はでたらめな文字列ではなく明らかに単語と文法と統語法をそなえた言語だと判定された。しかし今もって解読されていない。
 写本の表紙にはヨアンネス・マルクス・マルチの筆名でイエズス会の神学者アタナシウス・キルヒャー(1601~1680)に宛てられた1665年8月19日付けの書簡が添付してあり、それによると写本は神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の蔵書に含まれていたもので、もともとイギリス人のロジャー・ベーコンが著したものであるという。
 ルドルフ2世(在位:1576~1612)といえば、渋澤龍彦や荒俣宏の愛読者、オカルト愛好家にはよく知られた錬金術マニアの収集狂。ロジャー・ベーコン(1214~1294)は、これまた西洋オカルト史にたびたび登場する「驚異学者」自然哲学者。しかも宛名はイエズス会士のくせに万能学者だったアタナシウス・キルヒャーときたもんだ。
 ヴォイニッチは写本の写しを多数の学者に送りつけ、興味を抱いたウィリアム・ロメイン・ニューボールド博士とともに研究を開始した。二人はロジャー・ベーコンがアナグラムや暗号に通暁していたことで確信を強め、膨大な文献から傍証をかき集めて仮説を立て、1921年にフィラデルフィア医師会で発表。曰く「この写本はベーコンが執筆し、ジョン・ディーが発見し、彼とその弟子で霊媒師のエドワード・ケリーがルドルフ2世の朝廷にもたらしたものだ」
 ジョン・ディー(1527~1608/09)は、16世紀後半のイングランドでエリザベス1世の占星術師を務めた数学者だ。当時のイングランドはカトリックの強国スペイン・フランスに囲まれた少数派の親プロテスタント小国に過ぎなかった。そんな弱小国の海軍がスペイン無敵艦隊を打ち破ったのも、彼の数学と科学技術の知識がイングランドの造船技術と海軍力を飛躍的に強化したからだという説がある。それだけではなく、古ブリテン神話を用いてエリザベス女王を神格化し、のちのイギリス帝国主義の基礎を築いたと言われている。エリザベス1世は陰謀逆巻く外交情勢を勝ち抜くために国務大臣フランシス・ウォルシンガム卿に命じて諜報組織をつくらせたが、ジョン・ディーはその創設メンバーの一人だったという説が濃厚だ。確かにディーは1585年ころルドルフ宮廷に何度も足を運んでおり、カトリックの王たる皇帝の立場と帝国内プロテスタント勢力への親近感との間で揺れていたルドルフ2世の動向を見守っていた。ポーランドやチェコのプロテスタント系領主と政治工作をおこなっていたふしもある。このあたりのことを知りたければ、『魔術の帝国』(R.J.W.エヴァンス著)や『魔術的ルネサンス』『世界劇場』(フランシス・イエイツ著)、『魔道書ネクロノミコン』(コリン・ウィルソン序文)などを読むと良いだろう。

 とにかくヴォイニッチの写本発見後、数多くの研究者が写本の解読に夢中になった。戦前の日本外務省の暗号「パープル」を解読したウィリアム・フリードマン(William Frederick Friedman,1891~1969)もその一人だった。『ヴォイニッチ写本の謎』によると、フリードマンは「なぜヴォイニッチ写本にこだわるのかと問われ、まだ誰も読んでいないからだ」と答えたという。
 イエール大学の中世哲学教授ロバート・ブラムボー(Robert Brumbaugh)も写本に強い関心を抱き、写本解読を試みるなど研究を重ね、1970年代におけるヴォイニッチ写本研究の第1人者となった。医学博士でアマチュア暗号研究家のレオ・レヴィトフ博士は、13世紀に教会から弾圧され滅亡した異端カタリ派こそが写本を制作したのだという説を披露した。とにかく、真面目に実証主義的な研究を続ける学者からトンデモ本作家まで、多くの人がヴォイニッチ写本の解読に熱中した。
 『ヴォイニッチ写本の謎』の著者は、前半でこのようにヴォイニッチ写本の来歴に関係があるとされる歴史的人物や写本解読に夢中になった人びとの行動や写本の解釈について紹介する。
 そして第7章に至って、写本製作者の創造行為を駆り立てた強迫観念と似たものを備えている例としてアウトサイダーアーチスト、とりわけ霊媒アートの作家たちを取り上げている。写本に出てくる植物と似た「地球外植物」を描くアンナ・ゼマンコヴァや荒れ狂う刺繍を編み続けた マッジ・ギル、火星語による啓示を受け、火星文明を描いたエレーヌ・スミス(本書ではドイツ語読みでヘレネ・シュミット)など。ちなみにエレーヌの主治医フルールノワは、エレーヌ・スミスの火星語はフランス語のアナグラムと単純な文字変化に過ぎないと断定した。ウニカ・チュルンが病に苛まれながらアナグラム詩を書いたように、精神疾患とアナグラムとの間には何やら隠微な秘密めいた関係がある。
 ほかにもヒルデガルト・フォン・ビンケンの幻視体験及び著述やクエイカーから分離したシェイカーのギフト絵画を例に取り、ヴォイニッチ写本もまた「聖別された意識」の産物ではないかと語る。要するに写本の制作過程に異言や作話、虚偽記憶症候群などのような精神疾患の症例が関係しているのではないかと説く。
 一方、第8章ではモルモン教徒を騙して金をせしめるために偽の預言書を精巧に捏造した詐欺師などの例をあげ、軽信者を騙すための偽作・悪戯説も否定できないと言う。ジョン・ディーもしくはエドワード・ケリーの偽作説は確かに以前から取り沙汰されていた。先述の通り、ディ ーはエリザベス宮廷の諜報員であり、彼らは実際にエノク語という人工言語を創作した実績があるからだ。あるいはヴォイニッチ自身の偽作説もきれいに払拭されたわけではない。
 ヴォイニッチ研究は現在進行形であって、さまざまな仮説が氾濫している。オカルトに嵌りやすいナイーブな人たちだけでなく、暗号学者や言語学者から中世史家、植物学者まで多くの教養人がメーリングリストに集っている。こんなもの解読・解明したところでなんら実利につながらないのだが、狂気と同じく秘密結社や陰謀、暗号は、ごく普通の日常が大嫌いなロマンチストの心を揺さぶるものらしい。コンスピラシーと暗号こそは、ウィリアム・バロウズの唱える言語=ウィルス説を「証明」する手がかりのような気がする。


4791762487ヴォイニッチ写本の謎
ゲリー ケネディ ロブ チャーチル Gerry Kennedy
青土社 2005-12

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魔術の帝国―ルドルフ二世とその世界〈上〉魔術の帝国―ルドルフ二世とその世界〈上〉
ロバート・J.W. エヴァンズ Robert John Weston Evans 中野 春夫

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479495672X魔術的ルネサンス―エリザベス朝のオカルト哲学
フランセス・イエイツ
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