ルーヴルあるいはクラインの壷 

 ルーヴル美術館はときおり「危険」な展示会を催すことがある。
 たとえば2001年10月~翌2002年1月に開かれた『犯罪のような絵画』展がそうだった。19世紀から20世紀後半にかけての嗜虐的な美術作品を展示する試みで、ゴヤルドンブレイクマグリットらの暗鬱な絵画とともに、イヴ・クラインやウィーン・アクショニストの「全身芸術家」的な活動を記録写真や映像で紹介していた。

アクショニズム

 上の画像は当時のナポレオンホールで撮ったもので、アクショニストの記録映像の一部が映っている。
 彼らの活動内容については次回に述べるとして、今回はイヴ・クライン(Yves Klein)について書こう。
 クラインは1928年にニースで生まれ1962年に心臓麻痺で亡くなったフランスのアーティストである。ウルトラマリンブルーをさらに濃くしたようなIKB(International Klein Blue)という色を発明して特許を取得したことで知られている。IKBによる作品「青いスポンジ」は東京の原美術館で見ることができる。
 彼は若いころ警察主催の柔道教室に通い、本格的な柔道家になろうと思い立って、1952年から日本に1年ほど滞在した。日仏学院でフランス語講師を務めながら講道館で稽古に励み、当時の欧米人として最高位の柔道4段を取得したという。
 1954年に帰国したが欧州柔道連盟は彼の段位を認めず、彼は柔道家としての道を断念した。続いて絵画作品を画廊に持ち込むが出品を断られてしまう。
 1956年にやっとモノクローム作品が認められ、57年にはベンガル花火を用いた『1分間の火の絵画』を発表。その後もガスバーナーでキャンパスに火の軌跡を描く『火の絵画』を作り続けた。
 また、1958年頃から『人体測定』シリーズと題する一連のパフォーマンスを繰り広げた。これは全裸の女性にIKBの塗料を塗ってキャンパスに転写したりスプレーで輪郭をかたどったりするものだ。滞日時に見た魚拓や力士の手形、あるいは広島の原爆の高熱で一瞬にして蒸発してしまった人の代わりに壁に残った人型の焼け跡の影響だと言われている。じじつ「ヒロシマ」と題された作品群が残っている。

虚空への跳躍  ルーヴルの『犯罪のような絵画』展に展示されたクラインの作品は、1960年に彼自身が発行した新聞『日曜』(dimanche)の第1面に大きく載せたモンタージュ写真である。(左画像)
 写真には高い塀の上から両手を大きく広げて跳躍する彼自身の姿が写っている。モンタージュ写真の存在をよく知らない人なら彼がその後、道路に思いきり身体を叩きつけて重傷を負ったと思ったに違いない。じじつこの写真は大きなスキャンダルを呼んだ。タイトルは『虚空への跳躍』(Saut dans le vide)。

 彼が空と空の色である青にこだわったことには理由がある。
 真っ青な空と海に恵まれたニースで生まれ育った彼は、高校で後に廃物利用のアートワークで有名になるアルマン・フェルナンデス (Armand Pierre Fernandez,1928年~2005年)やクロード・パスカルと親友になり、ある日、世界を3人で山分けする約束をした。そのときクラインは空を選択したのだ。

 かつて、1950年代後半から1970年代前半にかけて、欧米や日本でパフォーマンスやハプニングと呼ばれる芸術活動が盛んに行なわれた。イヴ・クラインやウィーン・アクショニストもその流れにあって重要な役割を果たした。彼らにとって絵画とは人間の自由な想像に対する桎梏であり、権力の道具であって、アクション――身振りによって芸術という制度から解放されると考えた。それはいわばダダの流れを汲む反芸術という芸術だったかもしれない。

 『犯罪のような絵画』という企画展名は、ドイツ語の"Malerei als verbrechen"からきており、ウィーン・アクショニストのひとり、ルドルフ・シュワルツコグラーが1966年に書いたマニフェストの中から引用されたものだという。

 彼にとって絵画芸術は人間の自由を妨げる犯罪だったのだろうか。
 シュワルツコグラーは1969年に自宅のアパートの4階から身を投げて自殺した。

 そう、イヴ・クラインの『虚空への跳躍』を身をもって実践したのである。



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