大友良英[without records ver.3] 

 山口情報芸術センターで「without records」制作設置のボランティアに参加した。
「without records」というのは、フリージャズやノイズ、映画音楽等の分野で世界的に活躍するギタリスト・大友良英が7月から展示するサウンド・インスターレーションで、会場を埋め尽くす百数十台の古いポータブル・レコードプレーヤーが、レコード盤無し、つまりwithout recordsで発するさまざまな音によって繰り広げるターンテーブル・オーケストレーションである。大友氏は2005年、shin-biギャラリー(京都)で20台からなる作品をつくった後、2007年1月にはせんだいメディアテークで美術家の青山泰知氏と共に66台による展示を実現している。

 今回、ボランティアの参加者は、山口県内だけでなく、仙台、東京、奈良、神戸ほか全国各地から集まってきた。総勢30名以上いたそうだ。まる10日間の日程で私は3日半だけつきあったが、なかには遠方からやって来て全日程に参加したツワモノが5人もいた。
 作業は個々のプレーヤーの加工から始まった。ターンテーブル上のゴムシートを除くと、レコード針が鋼板等を擦って音を発する。針を落とす位置によっても音色は変化するし、鋼板上に凹凸があればそれだけで一定の明確なリズムを刻む。真空管アンプを用いた古いタイプなら、サーっというホワイトノイズ系の音やブォーンという船の汽笛のような音を立てるし、ものによってはフィードバック(ハウリング)を発生させることもあり、実に多彩な音が得られる。また、ターンテーブルにちょっとした加工を施せば、さらに新たな音やリズムが生まれる。私は前に座った芸大生が電気系統をいじって独自の音を次々と創っているのに引け目を感じて途方に暮れていたが、大友氏に「それぞれのプレーヤーが出す個性的な音を発見するだけでいい」と言われ救われる。しかし、そうはいっても「ありのままの私をみて」ばかりでは済まされないだろうと、次にゴムシートの一部を切ることでリズムを刻むというものをもっていくと、今度はビジュアル面の責任者の青山氏に「丁寧に切るよーに」とダメ出しを喰らう始末だった(笑)。
 最後の2日間は、会場内に設置されたスタンドの上にプレーヤーを固定し、床上に露出した大量のケーブルをケーブルモールで覆うといった作業だった。すでに設置レイアウトがFixされ個々のプレーヤーの位置もほぼ決まっていたため、作業は比較的楽だったが、前の日まではかなり大変だったそうだ。
 大友氏は2ちゃんの関連スレに「八百屋の兄ちゃんみたいな人がノイズやってるってのがいいじゃないか」とあったようにとても気さくな人で、作業の際にも打ち上げでも参加者一人ひとりに話しかけていた。青山氏も親切でつきあいが良く、毎晩のように開かれた打ち上げに[たぶん]ぜんぶ参加していたようだ。参加者は生年月日で占いをする人や飲み会で性格が豹変する人など個性豊かな人たちばかりで、プレーヤーが発する音もボランティアスタッフの個性を反映して実に多彩だと大友氏が話していた。

 今回の展示では、個々のプレーヤーのスイッチオンオフを自在に制御し、フィードバック音やホワイトノイズ系の音など音の種類毎に分けて、カテゴリー別に音を発することも可能だという。鑑賞者は林立するプレーヤーの間を散策することになるのだが、特定エリアにあるプレーヤーだけ音を出し、あたかもポルターガイストがつきまとうかのように鑑賞者が歩く方向にそのエリアを移動させることもできるそうだ。
 大友氏は6月27日に出たばかりの新著『MUSICS』で、人は意識によって周囲の音からある音だけを聞き出して意味として認識しているが、意味聴取の脳内ソフトをオフにすると音と音の境界が曖昧になり、全ての音が印象派的に溶け出してナチュラルトリップめいた感覚が楽しめる…というようなことを述べている。ターンテーブルの林をリラックスして逍遥すれば、ひょっとするとこうした感覚が得られるかもしれない。

 タイトルのwithout recordsには、レコード盤を用いないという意味以外にもう一つ、「記録(=record)無し」という意味がある。大友氏は、この展示では一定のプログラムを繰り返すのでなく、いつ来ても異なるパターンの音を体験できるようにすると語っている。つまり、記録されないことによる「音の一回性」がテーマの一つにあげられるのではないかと思う。
 交通手段や通信手段の発達、都市化の進展によって、ひとりの人間が生涯に出遭うものや人、言葉の数は昔に比べて膨大な数に及んでいる。それと並行して、写真、ビデオ、CD、DVD、HDD、USBメモリーなどなど外部記憶メディアへの依存は深まる一方だ。「出遭う人やもの」の数の膨大化と外部記憶メディアへの依存は、各人におけるひとつの対象毎の記憶が細部を失うことにつながる。現代では、印象の強度による記憶の争奪戦がいたるところで繰り広げられていると言っていいだろう。すでにビジネス社会では急速に進んでいることだが、莫大な数にのぼる人やものをいくつかの属性データで格付けするなど、データベース化「処理」する人が増えてきているように思われる。recordがデータベースの構成単位を表すことを考えるなら、without recordsは「生」のデータベース化へのかたくなな抵抗だと解釈できるのではないか。
 without recordsを体験することによって、記録による記憶の吝嗇の意味をあらためて自分に問い直すのも良いだろう。音をつくること、音を聴くことの一回性は、生の一回性のこの上ない尊さと結びつく。ボランティアスタッフが山口で過ごした日々しかり、鑑賞者が展示作品を視聴するであろう時間しかり。
 そういえば、ボランティアスタッフによる作業が終わった6月29日は、エリック・ドルフィーの命日だった。44年前の1964年同月同日に、ドルフィーは旅先のベルリンで客死した。亡くなる3週間にオランダで録音された遺作『LAST DATE』には、ドルフィー自身の肉声で次のような言葉が収録されている。
 When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.

[without records ver.3]は、YCAMにて7月5日から10月13日まで無料展示される予定だ。


 
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