踊レル者ハ藁ヲモ掴ム~ATAK NIGHT4 

 山口情報芸術センターのAスタジオで公演の『ATAK NIGHT4』ライ ブに行く。ATAKは渋谷慶一郎のレーベルで、今回のツアーはevala、刀根康尚、池田亮司が参加。もともと Pan sonicが出演するはずだったのだがMika Vainioの負傷により来日中止となり、代わりに池田亮司が加わ った次第のようだ。Pan sonicはかつてPanasonicだった時代に何度か聴いたことがあり、その進化した形を 期待していただけに残念。とはいえ、いまや東京現代美術館で個展が開かれるまでとなった池田亮司をナマ で観る機会に恵まれるのは嬉しい限りである。

 Aスタジオの中央には、演奏者と機材をセットする壇が4つ設けられ、スタジオの壁際には8つのd&bスピ ーカーが円形に配置されている。聴衆はその間にドーナツ状になって、オールスタンディングで放置される 。向かい合う壁2面を覆う大きなスクリーンは、音響に合せて抽象的な線形映像を映しだす。演奏はevala→ 池田→渋谷→刀根の順。

 基本的に「踊れない」エレクトロニカであるが、音響の流れの中にリフレインを発見し、あるいはどこか に周期的なものを想像して身体を揺らす者も何人かいる。かつてはフリージャズやテクノ、ノイズで痙攣的 に踊っていた私も、心地良くなると自然に身体を震わせる。しばし疲れて床に座り込むとしても、サブウー ハーの吐き出す重低音が床に反響して腰部をくすぐり、座っていられなくなる。

 他の演奏者のカオティックな電子音響に対し、池田は昨年YCAMで制作、Bスタジオで発表したTest Patternのライブバージョンで、無限に伸びる直線の清冽なイメージをそなえている。ときおり可聴領域の 臨界を試すような音響で脳内に何かが生じたような感覚に襲われ、少々立ち眩みをおぼえるが、別に身体的 な危険はない。ただ、12年前のノイズのライヴで片耳の聴力を失った者としては用心のために生きている方の耳をついかばってしまうのがツライところである。

 刀根康尚は現在73歳、現役最年長のサウンド・アーティストである。渋谷慶一郎の日記によると、万葉集 の文字をスキャナーで取り込んで、そのイメージデータを音声データに変換するという試みをやっていて、10年かけて4000首を音響データにし、全部聴くと2000時間もかかる(!)という作品を完成させたそうだ。刀根は小杉武久とともに日本で最初の集団即興演奏グループ「グループ・音楽」を創設した人で、フルクサス運動にも参加しており、『現代芸術の位相ー芸術は思想たりうるか』の著者でもある。佐々木敦の『テクノ/ロジカル/音楽論』を読むと、刀根が音と音楽とアートに関してこれまで深く深く考え続けてきたことが伺われる。ただ、アートが概念的なものになってきたとはいえ、身体性-感受性を抜きにしたアートはアートでなくて哲学ではないのか?と思う私としては、言葉で読むとスゴイなあと思うものの、実際には(つまり身体的には)ちょっと悦んで聴く気にはなれない。

 佐々木は前掲書で『ATAK001』に関してこう語っている。
「そこでは、「ビート/グルーヴ」なるものの追求が、とかく陥りがちな、慣習的な(そして、そのことに よって実は甚だ「観念的でもある)身体的快楽への回収に対する、おそらくは意識的な拒絶の身ぶりが稼動 している。つまり、「ダンス・ミュージック」を「踊(れ)ること」から、いかにして切断するか、という 、極めてパラドキシカルな興味深い命題が、そこには存在している」(注)
(注)「しかし、「切断」は「廃棄」や「無視」とはまったく違うものである。筆者が危惧しているのは、 ある種の「音楽」において、「踊(れ)ること」、すなわち身体的快楽を過剰に評価し、いわば「目的化= 護符化」してしまうことが、時として最悪の保守性へと転化しかねない、ということである」

 この夜はホワイエでスティーヴ・パクストンの舞踊映像が流れていたこともあって、カネを支払ってでも 観るに足るプロフェッショナルの舞踊者とカネを支払って踊る者との差異が見事なコントラストでそこに露 呈されていた。スタジオAには私も含め「オールスタンディングなんだし金払ってんだからチッタア踊らせ ろよなー」とばかりに安っぽい身体をさらけ出す者たちがいた。
 今回の渋谷の踊らせる要素を極限まで削った演奏と、終演後の「おめーら踊れりゃいいんだろ?」とばかりに投 げやり(?)に繰り出したプレイは、まさにこうした態度への拒絶、佐々木の言う「身体的快楽への回収」 に対する拒絶の身ぶりの徹底であろう。

 身体的快楽を過剰に評価するわけではないものの、かといって身体的な《快》を全く考慮してくれないもの には、文字通り「身体的に」近寄りがたい。
 ただ一方で、身体は思考によって柔軟に変容しうることも確かである。その「変容」の可能性を探るため にも、刀根や渋谷の繰り出す音響を聴取し続けなければならない、のだろうか。
 ありきたりな結論だが、私にとっては踊れるか踊れないかのギリギリを試すような方向性こそが望ましい。あるいは純粋観念的な天上の圏域と地上をむすぶ階段があって欲しい。身体はその階段を上り下りしながら踊るのが良い。
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