日蝕ト花火ト戦争 

日蝕
 7月22日、下関の火の山で日蝕を観る。カメラのレンズの前に暗色のセロハンを2枚重ねただけの手作りフィルターを付けて撮影。薄雲に覆われたのが幸いして、ピントは定まらぬものの、バナナのような太陽のかけらが撮れた。
 この日は、国内のトーチカを中心とした「戦争遺構」ばかりを撮影して2005年に写真集『戦争のかたち』を上梓した下道基行と、次世代型ワークショップでアートの「外縁」に挑戦し続ける「ナデガタインスタントパーティ」(中崎透+山城大督+野田智子)、MAC(Maemachi Art Center)メンバーらによるRe-Fort PROJECTに参加。本プロジェクトは、太陽が最も細身となる食甚の際に火の山の対岸、門司のめかり公園山頂から花火を打ち上げるというもの。水戸芸術館の企画で大掛かりな映画撮影を果たしたナデガタの意向があってか?プロジェクトの様子はDVD映像にまとめられる予定で、動画撮影の可能な参加客は撮影班を組み、火の山公園の他にも関門海峡海上や唐戸、海峡ゆめタワー、巌流島、門司、関門橋上等に散らばり、ヘリコプターまでチャーターして、打ちあがる花火の様子を撮影した。
 プロジェクトは前日から始まっていたが、大雨の影響で主宰者のほとんどが足止めを喰らい、計画は大幅な変更を余儀なくされた。そのせいもあるのか、あるいは船頭が多過ぎたせいか、「戦争を考える」という当初のテーマが前面に出てこなかったという声が聞かれた。ただ、県内で10名を超える死者を出した豪雨に見舞われながらも当日は晴天に恵まれ、正しい時間に花火が打ち上げられただけでも「うまくいった」と見て良いだろう。
火の丸半地下倉庫
 火の山山頂には砲台座跡や半地下倉庫などが並んでいる。次第に欠けていく太陽の下でそれらの戦争遺構を見て回った参加客の耳には、花火を打ち上げる音は砲撃の音に聴こえたに違いない。

 関門海峡で砲撃の音というと、150年前の下関戦争を連想する人もいるだろう。
 1863(文久3)年、長州藩は朝廷の詔勅を取りつけ、将軍家茂に攘夷決行を認めさせたうえで、5月11日、関門海峡を通るアメリカ商船を砲撃した。続いてフランスやオランダの軍艦に対しても砲撃を加えたが、米仏の軍艦はただちに長州の軍艦を報復砲撃、長州海軍及び海峡沿岸部に壊滅的な打撃を与えた。最新兵器で武装した欧米の軍隊に対し、長州藩士は全く歯が立たず、新たに藩に起用された高杉晋作は正規の藩士でない下級武士や百姓、商人などからなる奇兵隊を発案し、外国艦隊からの防備に当てることにした。
 この後、長州は8月18日の京都での政変で宮廷を追われる。翌年1964(元治元)年6月には池田屋事件、7月には蛤御門の変が続き、長州藩の尊皇攘夷急進派は窮地のどん底に追い込まれる。さらに8月初旬、英仏蘭米の4カ国連合艦隊が懲戒的報復措置として下関沿岸部を徹底的に砲撃し、沿岸の町や村を占拠。 これにより藩の主導権は保守派(俗論派)に移り、第1次長州征伐で蛤御門の変の責任者は処罰された。
 しかし、同年12月、高杉晋作は奇兵隊を率いて挙兵。翌1865(慶応元)年には内戦に勝利し、討幕派(つまり「元」攘夷派)は再び長州藩の主導権を握る。彼らは「薩長盟約」を通じて数多くの近代兵器を入手、大村益次郎の指導により、奇兵隊をベースとして、銃を装備した軽装歩兵運用を中心とした軍政の近代化を徹底しておこなった。これは長州閥が一翼を担った明治新政府のもと、国民皆兵制に道を開く原点となった。
 市内にある桜山神社はかつて桜山招魂社と呼ばれ、戦死した奇兵隊士や尊攘派の志士らの霊を祀るための施設だった。東京招魂社の成立過程とその問題点によると、高杉晋作の発案によって1865年に建立されたこの桜山招魂社こそは、靖国神社の原点だという。だとすると、関門海峡こそは、日本の近代戦争が始まった場所ということになる。

 日が欠けていくにつれて、周囲の空気はひんやりしていった。瞼に焼きつく強い陽射しと生い茂る夏草、体感される蒸し暑さはいわば1セットで記憶されている。陽射しはやや弱くなったとはいえ景観は相変わらず真夏のそれだというのに、体感温度だけが下っていくというのは、これまで体験したことのない、じつに不思議な感覚だった。ひょっとすると氷河期に突入する最初の夏というのは、こんな感じなのではなかろうか、とふと思った。
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