山陰アートツーリズム(1)~出雲大社 

 さて、旅を再開しよう。
 県内でも島根に比較的近い地域に居住しているのだから、いざ当地を離れるとなったとき少し旅行でもするならば、出雲・松江あたりだろうと思っていた。島根は良い温泉に恵まれているし、いくつか訪ねてみたいと思っていたミュージアムもある。また、引っ越しの準備でたまたま昨年、東京の森美術館で開かれたメタボリズムの未来都市展のチラシを発見してしばらく眠っていた建築への関心が蘇ってきて、昨年末に永眠した菊竹清訓の名建築などを巡るのもよかろうとゆったり気味の4泊5日の島根旅行とあいなった。

 午前6時に家を出たが、一気に出雲まで行くのも無粋だし、ドライブ休憩をかねて有福温泉に立ち寄ることにした。
 国道9号から海洋館アクアスを越えたところで右に折れ、ひと気の少ない田舎道を10分ばかり車を走らせると、山の斜面や川沿いにみっしりと温泉宿や民家が建ちならぶ景観があらわれる。奥のほうまで入っていくと公衆浴場の駐車場があったので、そこに車をとめる。浴衣姿のお年寄りが朝から浴衣とつっかけで闊歩する姿が見られ、鄙びた温泉街情緒が漂っていて好感がもてる。
有福温泉1 有福温泉3
 3軒ある共同浴場のうち「やよい湯」に入ってみる。番台を越えると下におりる階段があって、階段下にはコインロッカーがあるだけで脱衣場と呼べるスペースがない。浴室に入るとカランはわずか3つで、古いタイル張りの浴槽は4人浸かれば一杯という規模。上方に窓があるが景観など望めない。かゆいところに手の届く今どきの温泉事情に慣れてしまった者には合わないだろうが、古き良き湯治文化が偲ばれてこころよい。アルカリ性単純泉で、湯口から独特の源泉の香りがして、もちろんかけ流しである。
有福温泉4 有福温泉2
 「やよい湯」を出て坂をのぼると、洋風レトロな「御前湯」や薬師堂、古民家風のカフェ等が民家と一緒にひしめきあって建ちならんでいる。帰り際に旅館から和服姿の若い女将風の女性が、車で出ていくお客にいつまでも手を振って見送る姿が目にとまって、さらに好印象が残る。

 江津まで行けば出雲まではもう2時間もかからない。途中、出雲そばを食べたり島根ワイナリーに寄ったりしながら出雲大社へ。
 出雲大社は平成25年に遷宮予定で奥の本殿は工事中だった。たまたま訪れた時期が60年に1度の遷宮前にあたるとは、よほど神々とは縁がないのだろう。やむを得ず、西の門を出たところにある神楽殿に参拝する。
出雲大社1 出雲大社3
出雲大社4 出雲大社5
 出雲大社といえば大注連縄である。そもそも注連縄の起源は『古事記』に登場する尻久米縄(しりくめなわ)である。天石屋戸に隠れた天照大神が、神々の宴を覗いたところを天手力男神がその手を取って天石屋戸から連れ出した話は有名だが、この後、布刀玉命が「ここより内に戻れませぬぞ」と告げて引き渡したのが尻久米縄である。民俗学者の吉野裕子氏の説によると、しめ縄の形は蛇の交尾を擬したものであり、全世界的に見られる古代の蛇信仰を物語る表現である。八岐大蛇しかり、佐太神社の海蛇信仰しかり、出雲地方は蛇信仰の盛んな地域だった。ちなみに一般の神社の注連縄が右から巻き始められているのに対し、出雲系の神社では左から巻き始められる。これは天つ神(大和朝廷)に制圧された国つ神―まつろわぬ神々を奉じていることの表れである。

 本宮正面に向かって左側にあるのが、菊竹清訓が設計した出雲大社庁の舎(1963年)である。庁の舎というのは社務所のことかと思っていたが、社務所はほかにあり、庁の舎は主に式典などを執り行う場所のようだ。砂利敷きの地面に堂々と立つ姿には昭和モダン建築ならではの力強い存在感がある。それは高度経済成長期であると同時に安保闘争という形でアメリカに対し激しい異議申し立てをおこなった60年代の威勢の良かった日本を象徴しているかのように見え、隈研吾が言うところの「負ける建築」―環境諸条件に対して受身である建築―というよりどちらかというと「勝ちにいってる建築」のように見える。
出雲大社庁の舎4 出雲大社庁の舎2
『菊竹清訓 作品と方法 1956-1970』によると、50mの大棟梁とこれを支える両端の棟持柱による鳥居型の主体構造に対し、特徴的なプレキャストの横桟や屋根版、方立はとりかえ可能な更新構造としていて、メタボリズム(代謝更新)の考え方が具現化されている。
 菊竹清訓は建築評論家の川添登や黒川記章とともにメタボリスム・グループの初期メンバーだった。「メタボリズム」というのは生物学でいうところの「新陳代謝(メタボリズム)」を都市や建築に応用し、生物が細胞レベルで死と再生を繰り返すように、都市・建築も構成要素を更新する「可変性」をそなえるべきだとする考え方である。彼らの思想は1960年に東京で開催された日本のデザイン史上最もエポックメーキングであった世界デザイン会議の場で披露された。
出雲大社庁の舎3 出雲大社庁の舎1
 永遠性が志向される西洋の建築思想と異なる、式年遷宮にみられる「建て替え」を前提とした「日本的」なる建築思想――出雲大社庁舎は稲掛けをモチーフとしたというが、菊竹が出雲大社庁舎で本当に示そうとしたのは、そうした最終的な意匠というよりむしろ彼の考える「日本的建築思想」だったに違いない。それは強い存在感を示す棟持柱、あたかも「木材」を組み立てるようにプレキャストコンクリートを組み立てること、昼間は自然光を屋内にうまく取り入れ、夜は屋内の明かりを前庭に落とすコンクリートのルーバー等にあらわれている。また、菊竹は多雨地域である出雲の風土を考慮し、日本の水田農業に見られる灌漑に見立てて雨水の処理を工夫している。屋根の水を横桟で受けて小さな水抜穴を通して落とし、「あたかも鎧おどしの糸のように水が横桟を縫って落ちてゆくようにしている」。

 菊竹清訓はメタボリズムの理論を推し進めるうえで、デザイン設計の実践プロセスとして「か・かた・かたち」を提唱した。「か」は構想もしくは思考原理であり、imaginative approachである。「かた」は技術的裏付けであり、technological approachであり、「かたち」は形態的段階でありfunctional approachである。菊竹はこれをノーベル賞を受賞した湯川秀樹をサポートした理論物理学者で科学思想家の武谷三男の「本質論的段階」「実体論的段階」「現象的段階」からヒントを得て構想した。
 ちなみに2007年の内藤廣との対談(INAX REPORT No.171)を読むと、菊竹が「か・かた・かたち」の3段階論を思いついた時期は、出雲大社庁の舎の設計時期と重なっている。庁の舎の設計期間は産みの苦しみを経ておよそ5年に及んだというが、「かた」「かたち」までは固まっているが「か」にまでは至ってなかったという。

 菊竹は出雲大社庁の舎で芸術選奨文部大臣賞・日本建築学会賞を受賞した後、米子の東光園(1965)、都城市民会館(1966)、島根県立図書館(1968)、萩市民会館(1969)など立て続けに仕事をこなし、丹下健三に続く第2世代のホープとして認められ、70年の万博ではエキスポタワー、75年の沖縄海洋博ではアクアポリスを手がけ、2005年には愛・地球博の総合プロデューサーを務めることとなった。

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