ヱヴァンゲリヲンQ、またはウロボロスの蛇 

 Qは球であり地球であり子宮であるが、同時に小文字のqや数字の9がしめすように0と1からできていて、魂のようにも精子のようにもうつる。
 うつろいやすさ、うつろ舟。ネルフに反旗を翻したミサトはキャプテン・ハーロックめいて「火の鳥」様の戦艦ヤマトで青空を駆けめぐる。先達たちの古きアニメ映像へのオマージュ。やがてシンジは、批評家たちから「ウェルメイド」と揶揄された前作の最後、その素直で神々しいほど常道的とさえみえる抱擁が招いた「結果」を目の当たりにする。
 ミサトやリツコ、アスカ、マリらは、地球を破壊せんとするロンギヌスの槍を、憎悪するとともに愛する。今回それは2本ある。シンジとカヲル。蛇の半陰茎――ヘミペニスのように。

 ヱヴァQへの押井守の批判は、年寄りの説教のように正しくて古くさい。ヱヴァは確実に近代文学をさかのぼり、中世の物語文学のようにいくつもバリエーションを変えながら、何度もよみがえり繰り返される。庵野にとってテーマなどストーリーなど謎めいたセリフなどはそれらをいまだ好む方々への「サービス」なのだ。
 ヱヴァは中世へとむかう時代の空気を暗にさとり、言語でなく形態/メタファーにあふれた新しくもなつかしい思考を愛せとそそのかす。か・かた・かたち――かたちの誕生・かたちの生長、かたちの移動、飛翔、裂開、旋回、射出、展開、膨張、陥没、分裂、崩壊、破砕、衰滅…かたちたちの変容を愛せと。

 テーマなどない。仮にあるとすれば、無(=0)と文節をもたらす線(=1)のもつれあい絡み合う生成の原理。世界を分節し分断せんとする男性原理としての1、とすべてを丸くおさめようとする女性原理としての0。フリーメイソンのシンボルマークであるコンパスと直角定規は、中国の伝説に登場する半人半蛇の伏羲と女媧のミトゥナ像でも描かれている。それは古きバビロンよりめんめんと語り継がれてきた創造の奥義――世界の起源、死と再生をめぐるフォークセオリーにほかならない。
伏羲と女媧
 まさに辰年から巳年へとうつる時季にふさわしい映画。蛇の足を添えるとすれば、もう庵野さんは総理を繰り返す「あべの君」とは少々異なる「うべの君」。
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