北九州市民映画祭2013 

旦過市場top2

 北九州市民映画祭に行く。会場は創業74年という老舗の「小倉昭和館」、現在は2番館として、話題作を封切りから数か月遅れで2本立て上映し、北九州の映画文化を豊かにしている。立地は「古き良き時代」の市場情緒を色濃く残す旦過市場の近くで、昭和風情に浸りたい時には最適の場所である。
 映画祭では、北九州市出身の4人の監督、平山秀幸、福岡芳穂、青山真治、タナダユキ、俳優の光石研を招聘し、4監督の近作や4人が「北九州で観たい」として選んだ映画を2日間にわたり上映した。
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 2日目のタナダユキ『ふがいない僕は空を見た』と青山真治が選んだ唐十郎『任侠外伝 玄界灘』が絶妙な組み合わせだったので、メモしておく。

 『ふがいない僕は空を見た』は、原作が山本周五郎賞を受賞した窪美澄の同名小説。男子高校生の斎藤卓巳とその親友の福田良太、卓巳と不倫関係となる専業主婦の岡本里美(アンズ)を中心に、複数の視点で描かれる。
 卓巳は一軒家で助産院を営む母と二人暮らし。物語は学校で同級生の女子・松永からコクられるシーンからはじまる。卓巳は「ちょっと待ってくれる?」と応じるが、理由は『魔法少女リリカルなのは』が好きでコスプレを楽しむアンズとの不倫関係。女性の性倫理には甘く男性性倫理には厳格な、つまり女性にとって都合の良いタイプの男子だ。
 視点はやがてアンズ――何事にも積極的で都会的な姑から、不妊治療や体外受精などあらゆる手段を講じてでも子どもをつくるよう強要される――の視点に収斂するのかと思いきや、隠しカメラで卓巳との性交シーンを撮影される小さなクライマックスをきっかけに、もう一つの物語、福田良太の物語が大きく駆動する。コンビニでバイトする良太は、認知症の祖母を抱えて団地に暮している。父はいない。母は消費者金融からの督促に追われて情夫のもとにいる。団地は見えない「階級」をあらわす。同じ団地に暮らすバイトの同僚の女子は、アニメ好きの姉が入手した卓巳とアンズのコスプレセックスの画像を手にするが、その後、学校でその画像が大量にばらまかれる。ばらまいたのは誰か? 卓巳のアンズとの行為は、昔の学園ドラマで見られたような「武勇伝」として語られることはない。卓巳が好きだった松永は、画像を見て声を出して笑う…。
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 「少子化」と「妊娠」と「生命」、日本でも再生産・固定化されつつある「貧困」の問題、玄関のシンボリズム等々、映画的な企みが満漢全席。やや「分かりやすい」のが難点と思う人もいるだろう。最後のシーンと卓巳のせりふは蛇足だよね、とか。しかし、戦略的にまず多くの人に受入れられることを優先するのは悪くない選択だ。
 河瀬直美、西川美和、タナダユキ、この10年ほどで「伝わってくるよなあ」と思う映画には、女性監督による作品が多い。母数が増えたこともあるが、そもそも昔は映画監督といえば男の領分であり、振り返ってみるとジェンダーバイアスが露骨な作品が多かったなあと感じる。大島渚の追悼上映をいくつか観たが、「ちょっとこれは現代では通用せんやろ」と思うシーンやセリフがしばしばあった。「セクハラ」という言葉が一気に広がった90年代半ばあたりに、大きな時代の分岐点があったことは間違いない。ただ、一方でこの物語に逆方向からのジェンダーバイアスを嗅ぎ取る人もいるに違いない。
 猪瀬直樹は東浩紀との対談で、日本の近代文学は「父」を描いてこなかったと語ったが、この話も日本近代文学の伝統を踏襲して「父」は不在である。「父を描く」とは「職業を通じて社会的である」という、文学を志すタイプの者にとって最も抵抗のあるテーマなのだ。テレビで「ビッグダディ」が視聴者を集めるのとは真逆を行くのだ。
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 ある意味、『ふがいない僕は空を見た』に描かれなかった「日本の父(というか祖父)」たちをこれでもか、と描くのが、唐十郎『任侠外伝 玄界灘』である。
 セピア色というにはあまりにも生々しい赤茶色の色調で描かれる本作は、本物のヤクザだった安藤昇のほか穴戸錠、根津甚八、李麗仙等が出演するATG映画で、初めて映倫の「R指定」を受けた作品として知られる。あらすじはこちらで見てもらうとして、要するに、血と暴力と汚濁にまみれた世界だ。
 映画の中で、「松本清張先生も言っておる。邪馬台国を見ても分かる通り日本人も朝鮮人もみな一緒。丁半ばくちで丁が出るか半が出るか、丁がいいか半がいいか、みたいなもん(うろ覚え^^;)」、というセリフが出てくる。昨今の日韓問題のいざこざが頭をよぎる。官公庁や大手メディアのエリートたちには品性下劣と映る嘲罵、侮言の応酬だが、そもそも日本、というか東京が表面的に洗練されてきたのはこの20年くらいのことで、都会の美しい皮膜を一皮むけば、日本(だけではないにせよ)で伝統的に繰り広げられてきた、経済行為と有形無形の暴力とが密接にもつれ合うアウトロー文化が随所に顔を覗かせるのだ。そういえば何年か前、斎藤環の『世界が土曜の夜なら』に端を発して「ヤンキー文化」論議が取り沙汰された。「荒くれ者」「アウトロー」というと聞こえがいいが、「戦時性暴力」や「学生紛争のバリケード内で頻発していた強姦」ともつながっていることを忘れてはいけない。
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 特に九州北部や今の山口県あたりは「日本」が成立する以前から半島と近親憎悪的な抗争と交流を繰り返してきた。現政権の大幹部たちがこのあたりの選挙区出身なのは決して偶然ではない。日韓の悪態の応酬もヤンキー同士の「ダーティーダズン」として芸能化するだけに留まってくれればいいのだが。

 登場するお金も「カネ」と表現されず「エン」/「ウォン」と呼ばれるのが、国の「際」だった下関らしい。その国の通貨を流通させるのは、発行母体「国家」の「信用」である。昨今の日韓の通貨供給量をめぐる問題をつい想起してしまう。国際的な産業競争力の維持と経常収支の安定が成長を前提とした経済の根底の価値観を支えている状況では、ほどほどに「信用」を落とすことが是とされる。
 そういえば青山真治の次の映画は、原作が下関在住の芥川賞作家・田中慎弥の『共喰い』である。原作を読むと、主人公の住居のすぐ近くを流れるどぶ川が、女性器の象徴として描かれている。生活排水を直接引き受けるどぶ川は、かつてはいたるところにあったもので、『任侠外伝 玄界灘』でも何度か印象的に映っているのを目にした。ただ、まあだからといって、それを意識して青山が選んだかどうかは定かではない。

 この日は帰宅してニコニコ超会議のタイムシフト予約を見る。映画(フィルム)は今でもときに良質な作品を生んでいるが、それでも若年世代の勢いあるネットカルチャーと比較すると、どうしても20世紀的だと言わざるを得ない。「映画を観たけりゃ大人になりな」――そうかもしれない。親愛なる「大人」の20世紀。

(以上、敬称略)
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