ベルリン・大都市交響楽 

 YCAMでトーマス・アルスランとR.W.ファスビンダーの特集上映があるというので、何本か観に行くことにした。

 トルコ系移民の父をもつトーマス・アルスランは90年代から活躍する「新ベルリン派」。アオリレンズで人と建築を同じ都市の成立要素としてストイックにクールに撮る。
 ニュージャーマンシネマのファスビンダーは、柳下毅一郎の『愛は死より冷たい』や中原昌也の『ソドムの映画市』にそそのかされて、2002年に水道橋のアテネ・フランセに『ベルリン・アレクサンダー広場』のマラソン上映を観に行ったものだ。
 『ベルリン・アレクサンダー広場』で印象的なのは、主人公のフランツやその恋人のミーチェが激しく癇癪を起こすところだ。劇は劇薬。感情は永遠、人生は短い。舞台演出出身だったファスビンダーの映画は、映画=イメージという、美しい化粧壁の下から裸出した、醜悪に縺れ合う鉄の「筋」だ。たとえ部分的に映像が美しいことはあっても、あくまでも「ドラマ≒感情」が暴力的な「主人」であり、イメージは隷属を強いられている。ファスビンダー映画はわりと思い入れがあるので別の機会に書くことにして、今回は、『アレクサンダー広場』後半部と併映されていた『ベルリン・大都市交響楽』について書く。

※原作のデーブリーン『ベルリン・アレクサンダー広場』は早崎守俊氏ご自身による改訳版が昨年出版された。

 映画は揺らめく水面の映像から始まる。やがて音楽と共に幾何学図形が踊る映像へと移り、細長い矩形が振り子めいた動きを見せたところで、映像は同じ動きをとる踏切の遮断機に切り替わる。延々と続く鉄道と沿線に伸びる無数の送電線と鉄塔。蒸気機関車。回転する動輪、ロッド、連結器。工場の煙突。鉄道はドイツ国家の統一と深く結びついた。石炭に始まるエネルギー革命は交通革命を導き出し、電信網の急展開と相俟ってコミュニケーション革命を巻き起こした。機関車はやがてベルリンの街へ。早朝の市街にはまだひと気がない。排水溝。野良犬。風に舞う紙くず。20年代のベルリンは一見、現代とさほど変わらない様相である(ブルーノ・タウトの集合住宅が映っていたがどうかは定かでない)。ショーウインドウ。マネキン。広告人形。朝があけるとともに人が街に増えてくる。まずは店舗や建物を清掃する人びと。都市を維持する人びとだ。自動車や市街電車が動き始める。通勤者の群れ。朝食を食べる人。信号が皆無で代わりに人が交通整理を行い、馬車が健在なのが現代とは異なる。もちろん自動車の形はクラシックタイプで量も比較的少ない。
 工場の門扉。都市と機械の共進化。人工物の遍満は機械による大量生産時代の深化を意味する。ガラス瓶の生産設備。ミルクの瓶詰工程。クランクの精巧な動き。製造機械のどきどきするほど美しいメカニカルな動き。中井正一は1930年、雑誌『思想』に「機械美の構造」を寄せた。あるいは下村寅太郎や高坂正顕の機械と近代化をめぐる議論が脳裏をかすめる。道路では巨大な杭打機を動かす男たち。鉄鋼所の圧延工程。都市は新しい雇用と欲望の喚起とによって人口を集めた。1815年に20万人ほどであったベルリンの人口は、1890年には150万人を超え、1920年の大ベルリン法による周辺部との統合も手伝って、1925年には400万人を突破した。空間経済学を学んだ者なら、そこから「輸送費」と「規模の経済」と「多様性選好」による循環的連関効果に思いを馳せるかもしれない。近代的な中央集権化で先んじた英仏に対し、1871年に国家統一を果たしたドイツの近代化の勢いには、目を見張るものがあった。同時期に明治維新を遂げた日本が成長の手本にしたのも無理はない。オフィスワークも大きく拡大した。秘書たちとタイプライター。電話機。キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』が頭をよぎる。電話交換機。新しいメディアの膨張。新聞の輪転機。輪転機は19世紀半ばに生まれ、短時間の大量印刷を可能にした。吐き出された新聞を束ねる人びと。回転扉。街路ではさらに交通量が増していく。2階建てのバス。交差する市電。交通整理。帽子をかぶった通行人が多い。新聞の売り子。ベンチで横たわる人。人だけでなくゾウやライオンも登場する。当時は市街の中心に動物園があった。
 仕事が終わると娯楽に繰り出す。レガッタ、競輪、さまざまな球技、アイスホッケー、ボクシング、小さなジャンプ台まで備えた屋内人工スキー場(1920年代にすでにあったのか)。小型飛行機、ジェットコースター――当時は遊園地まで市街中心部にあった。目の回る様子は唐突に表れる渦巻きに表現される(マルセル・デュシャンの『貧血シネマ』は1926年)。
 忙しいレストランの厨房。近代化・都市化に伴う「通勤」の増加によって外食が増えたことを意味するのか。次から次へと運ばれる料理。裏側の廃棄物……。
 夜の場面では、カクテルをつくるバーテンダー、劇場、ファッションショー、ラインダンス、照明を受けて鈍く光る濡れた舗道、街路をゆく車の暗いヘッドライト、ビルの電飾やネオンサイン――ネオンはフランスで開発され、1912年のパリ万国博覧会で初公開に至る。

『ベルリン・大都市交響楽』は1927年にドイツで公開された。原案は1920年公開の『カリガリ博士』でハンス・ヤノヴィッツと脚本を手がけたカール・マイヤー。彼は撮影所でのフィクションの製作に飽き、街路の「現実」から立ちのぼるストーリーを欲し、ベルリンをテーマに映像を音楽的に編集して構成する「都市交響曲」のアイデアを思いつく。全くオリジナルのアイデアというわけではない。パリを舞台にしたカヴァルカンティの『時のほか何ものもなし』は1926年公開である。監督を引き受けたのはヴァルター・ルットマン(1887-1941)。モホリ・ナギ『絵画・写真・映画』によると、ルットマンは建築と絵画を学んだ後、ポスター画家として活動していたが、1919年から抽象モチーフを映像化する試みを行っていた。撮影はカール・フロイント。ムルナウの『最後の人』や『フリッツ・ラングの『メトロポリス』を手がけ、後にハリウッドに渡って大ヒット番組「アイ・ラブ・ルーシー」の撮影監督となる映像の歴史的大人物である。
 職人肌のフロイントは、本作で撮影中のカメラを隠すため、スーツケースに似せたレンズ穴つきのカバンを用意し、ベルリンじゅうを動き回った。また、夜景をきれいに映すため、市販のフィルムを高感度にするよう工夫を重ねた。フロイントはあるインタビューでスナップ写真を一つの芸術と見なすかと問われそれは真に芸術と呼べる写真の唯一つのタイプです。なぜって? それによって〈人生〉を描くことができるからです。(中略)人生を撮影する。リアリズム。ああ、それがもっとも純粋な写真です……(ジークフリート・クラカウア『カリガリからヒトラーへ』)。
 監督のルットマンはフロイント等が撮影した大量の映像を編集し、映像交響楽を作り上げた。

 視覚イメージの音楽的構成は、彼独自の試みではない。視覚的音楽や音楽の視覚化、共感覚は、ヨーロッパ近代が好んで追及したテーマである。18世紀初頭にニュートンは弟子のカステル神父と光オルガンや色彩ピアノを試みた。スクリャービンはピアノ、オルガン、合唱、色光ピアノのための「プロメテウス―火の詩」を作曲した。
 機械と運動の美学を全面的に打ち出したイタリア未来主義では、写真家のアントン・ジュリオ・ブラガリアが、1911年よりアンリ・ベルクソンの時間哲学を独自に解釈してフォト・ディナミズモの実験をおこない、1916-17年に「タイス」や「不実の魅惑」という実験映像を発表している。フォトディナミズモや未来派の映画に関しては『未来派―Futurism (PARCO PICTURE BACKS)』の第7章が詳しい。
 未来派はイタリアだけにとどまらなかった。政治的前衛化で先んじたロシアでも、幅広い範囲で未来派的な前衛運動(=ロシア・アヴァンギャルド)が興った。マヤコフスキの言語実験、ロシア・フォルマリズム、クルチョーヌイフの戯曲『太陽の征服』、メイエルホリドの「ビオメハニカ」。カンディンスキーやマレーヴィチによる絵画の抽象化もその範疇に含まれる。
 メイエルホリドのもとで演劇美術を担当していたエイゼンシュタインは、ソシュールの言語哲学に影響されて台本の言語的要素を映像に置換するエイゼンシュタイン・モンタージュを確立する。代表作『戦艦ポチョムキン』は1925年。ちなみにそのドイツ公開時に音楽を付けたのは、後に『ベルリン・大都市交響楽』の音楽を作曲するエドムント・マイゼルである。(12音技法を確立したアルノルド・シェーンベルクも1926年からナチスに追われるまで、ベルリンで暮らしていた。)
 また、新大陸のアメリカでは1913年にNYレキシントン街の兵器庫(アーモリー)で『国際モダンアート展』が開かれ、マルセル・デュシャンが展示した『階段をおりる裸体』が、「運動」を絵画に導入したとしてセンセーションを巻き起こした。
 チューリッヒに始まるダダもまた、未来派の美学や前衛精神に呼応した。詳しくはハンス・リヒターの『ダダ――芸術と反芸術』を読むと良い。そこにはダダがただただアナーキーな反芸術運動という側面だけで語ってはいけないことが明記されている。
デカルト以来、世界のすべてが理性によって説明できる、という迷信がみとめられてきたのである。この迷信は必然的な転回によってとりのぞかれなければならなかった。理性と反理性、意味と無意味、計画と偶然、意識と無意識が共存して、全体の必然的部分をなすという認識、そこにこそダダは重点をおいたのである
 そこに「ポストモダン」の源泉の一つを見て取っても誤りとは言えないだろうし、逆に「ポストモダン」は「モダン」の延長に他ならないという解釈も可能だろう。


 ハンス・リヒターは1918年初頭、トリスタン・ツァラの紹介でスウェーデンの画家ヴィキング・エッゲリングと出会う。エッゲリングはすでに「線のオーケストレーション」に取り組んでいた。二人はいくつかの基本形態を「楽器」と名づけ、〈対照〉と〈相似〉の原理に基づく絵画の運動化を試みる。やがて「連続性」の概念を重視し、細長いセルロイド帯に抽象図形を描く巻物抽象絵画《プレリュード》(1919)を制作するに至る。その後、二人は映画の実験に転じるが、あくまでも絵画性に固執したエッゲリングに対し、リヒターは「絶対映画」へと突き進む。形態を正方形と矩形に限定し、その音楽的な動きからなる『リズム21』(1921)、フィルムに手彩色した『リズム25』(1925)。そして、絵画との関連から脱却した『映画研究』(1926)の後、ジガ・ヴェルトフの「映画眼」(キノグラース)に基づき『インフレーション』(1927)や『競馬交響曲』(1928)を撮ることになる。一方、エッゲリングは1924年に対角線交響曲を製作するが、翌年45歳で亡くなる。
 ルットマンは二人の影響によって『なりひびく波』(1921)や作品Ⅰ~Ⅳ(1921-25)を作った。彼は視覚的音楽を実現するためにマイゼルに協力を仰ぐ。彼が曲を付けた『戦艦ポチョムキン』は、1926年4月29日にベルリンで公開され、その年のベスト映画に選出されるほど高い評価を得ていた。
 ただ、カール・マイヤーは、「絶対映画」に影響を受けたルットマンの『ベルリン・大都市交響楽』に対し、「表面的」という評価を下す。ルットマンはカメラに映った形態の純粋な動きだけを強調し、「意味=内容」が欠落しているというのだ。『カリガリからヒトラーへ』によれば、「ジガ・ヴェルトフが描く社会の断面は、抽象的な動きの美しさだけを描いている時でも、〈共産主義の理念で充満している〉」のに対し、ルットマンの態度は「批判や解釈を叫び求めていた現実」に対して形式的である、というのだ。
 ルットマンはその後、エルウィン・ピスカートルと共に『世界のメロディー』(1929年)を制作。1930年にはサウンドトラックをコラージュしたラジオ番組『Weekend』を放映するなどサンプリング・ミュージックを先駆ける活動をおこなったが、ナチス政権下ではレニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』等の制作に関わったものの1941年に他界する。

 中沢新一は國分功一郎との対談本『哲学の自然』で、1920~30年代に発達した抽象芸術と核技術の間に共通性を見出し、外部からの「贈与」性を切断し、自律への欲望に突き動かされるようになったと述べている。そして、 ハイデガーが「現代の」科学技術について「存在」をエネルギーのような「計算性」の中に取り出してしまうとして批判したことに言及し、人間は「贈与」の次元とその切断の次元を縦糸と横糸のように組み合わせながら生きる。縦糸だけでも横糸だけでもこの世界を構成することはできないと述べている。抽象性の自律的運動がもたらす致死的な危険は、ロボティクスや生命工学、都市化、金融資本主義など、多くの分野で発生する。運動の「自律化」をいかにして制御するのか(あるいは果たして制御可能なのかどうか)が問われている。
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