ハイナー・ゲッベルス『シュティフターズ・ディンゲ』 

シュティフターズディンゲ1

…かれのエージェントがテープレコーダを持って行ったりきたりして街の音や話を持ち帰ってきては、かれのレコーダ配列に注ぎこんで、そうしてかれは音の波や渦や竜巻をそこら中の通りやあらゆる言語の川沿いに生じさせた――ことば塵が切れ切れ音楽やクラクションや削岩機の通りを漂う――ことばが壊れ叩かれねじれ爆発して煙と化す――
                       『ノヴァ急報』W.S.バロウズ(山形浩生訳)

 それは観客が来場を許された時から始まる。いや、それより前に始まっていたのかもしれない。薄暗いステージには3つのプールが縦に並び、右側に明るい格子行燈が同じく縦に3つ並んでいる。鳴っているのは懐かしい7-80年代のノイズ・ミュージック風の音響。
 男が二人登場する。二人はプールの傍らに置いたふるいの上にスプレー缶で文字らしきものを記す。おもむろにふるいを両側から持ち上げ、プールの上でゆすって白い粉を落としていく。
 プールに水は張っていなかった。ふるい落とされた粉は囲いのなかに浅く積もるだけ。二人はほかの囲いにも同じことを繰り返す。続いてホースをつないでさっきまで格子行燈と見えた水槽からプールのなかへと液体を注いでいく。水がゆっくりと満たされて舞台装置が整う。
 オーストリアの民俗学者ルドルフ・ペッヒが1905年に録音したというパプアニューギニアの船乗りによる南西の風を呼ぶ呪文。やがて白いスクリーンが3枚降りてきて、波打ち揺らめく水面の様子を映しだす。背後で閃光。スクリーンがあがると後部の暗闇にひっそりと隠れていた巨大装置に光があたり、その正体が徐々に明らかになっていく。それは皮膚を剥がれて無数の筋を剥き出しにした5台のピアノの集塊、ところどころに人工的な裸木を生やした音楽機械。ムジカ・マキーナ――高野史緒の小説のタイトルが頭をよぎる。雨後の奥山のように雲霧をまとい、随所に取り付けられた機械仕掛けのアームが弦を掻き鳴らし、金属板を殴打して音を立てる古物めいた音楽機械。プールの右側に縦に置かれた2本の円管も、先に取り付けた蠅叩きに似た空気弁が管端を叩かれさまざまに創られた音を発する。
 ピアノの集塊の左上部には、17世紀オランダ風景画の巨匠ヤコブ・ファン・ロイスダールの『沼地』。雑木林に包まれた暗い沼、倒木、雲を孕んだ空。アーダルベルト・シュティフターの小説『曽祖父の遺稿』の氷の話を日本語で朗読する声。シュティフターは小説の時代、19世紀オーストリアのロマン派作家だ。切り立った岸壁、雪煙を舞い上げて滑り落ちていく雪崩等々を描き出すテクストは、日本語に翻訳され読み上げられ録音された男性の声に乗って立ち現れる。絵画の空は徐々色を変えていくが、テクストの内容に集中すると変化に気づかない。認知心理学でいう変化盲だ。
 バッハ『イタリア協奏曲』第2楽章の演奏、ぴしゃぴしゃと水が滴る。クロード・レヴィ=ストロースのラジオ番組「Radioscopie」(1988)の対談内容を伝える日本語の文字が、観客の前に掲げられた電光掲示板に流れる。もはやこの世界に人類未踏の地などない…などと話す。レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』の結びに「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」と書いた。映画『Towers Open Fire』で自作のカットアップノベルNOVA EXPRESSの冒頭Last Wordsの一節を朗読するウィリアム・バロウズの声。「言葉は宇宙から来たウィルス」だと唱えたバロウズ。
 順序は定かでない。視覚的には宙づりになった映像器が、パオロ・ウッチェロ『森の中の狩り』(1460頃)の絵画映像を部分ごとに映し出す。みっしりと生い茂る密林の緑、逃げまわる鹿やいたち、槍をもって追いかける人びと、馬上の男たち。マルコムXのテレビインタビュー音声。レールに乗ってゆっくりと観客の方へとせり出してくる音楽機械。ゲッベルスが1985年にコロンビアでカセットテープに録音した先住民の交唱(本日一番のお気に入りだ)、音楽機械が後退するとプールの底に敷かれたドライアイスが泡のような氷煙をあげる。シュティフターの氷をめぐるテクストに対応するのか、いや『ノヴァ急報』に登場する「温度と濃度を人体と等しくした感覚遮断のための塩ブイヨン溶液」なのか、1930年にサミュエル・バウド=ボーヴィが録音したギリシア民謡カリメリスマ…。

 ハイナー・ゲッベルス(Heiner Goebbels)は、YCAM10周年記念祭のアートディレクターを務める坂本龍一と同じ1952年生まれ。アドルノやハーバーマス等の活動で名高いフランクフルト大学で音楽と社会学を専攻、シェーンベルクの高弟でアラン・レネの『夜と霧』の映画音楽やいくつかの革命歌の作曲で知られるハンス・アイスラーに傾倒した。75年頃からアルフレート・ハルト(※1)とコンビを結成し、音楽活動を開始。素人ミュージシャンと共に「いわゆる極左吹奏楽団」という20人ほどからなるバンドを組み、街頭演奏にもデモにも似た活動でフランクフルトを賑わせた。それはこんにちの反原発運動におけるサウンド・デモにも通じる試みだ。82年にはハルトやクリス・カトラー(イギリスの前衛ロックバンドHENRY COWのドラマー)やクリストフ・アンダースと実験音楽バンド「カシーバー(※2)」を結成、フリージャズやエクスペリメンタル・ミュージックの分野で「伝説」となる。
 ゲッベルスは79年にフランクフルト劇場のペーター・パリッチュからブレヒトの「三文オペラ」のアレンジを依頼されたことで、舞台との関わりを深めていく。80年代には、ポスト・ブレヒトとしてドイツ演劇界をリードしたハイナー・ミュラーのテクストを、ラジオドラマ化している。それは原作のテクストを音声素材にして、街頭で録音した音源やスタジオで制作した電子音と編み合わせ、全体を再構成するという試みだった。(サウンド・コラージュでラジオドラマを作った先駆者の一人にベルリン・大都市交響楽のルットマンがいる)。
 ゲッベルスの創作意思はミュージック・シアター(Musiktheater)へと向かう。ミュージック・シアターといっても一般的に想像されるミュージカルやオペラ等の音楽劇ではない。文学や音楽、美術、演劇等の芸術ジャンルの要素を取り込み、音楽ライブにも演劇にもカテゴライズされない新しい舞台表現である。彼は90年代以降、「不在」をテーマとした音楽劇を多く手掛ける。その多くはテアトル・ドゥ・ヴィディ・ローザンヌとの協働作品である。ゲッベルスは2012年に国際イプセン賞を受賞。『シュティフターズ・ディンゲ』(Stifters Dinge)―つまり、シュティフターのもの―は、2007年の初演以来、おもにヨーロッパ各国で上演されているが、日本ではこれが初公演となる。音声のみのCD「 Stifters Dinge」がECMから出ている。(以上、プログラムに寄せられた新野守広のテクスト等を参考)


 5台のピアノからなる音楽機械、絵画、水槽、金属板、円管、文字、音楽、音、声、光、水、霧、あぶく…。それらの〈もの〉が奏でる〈気配〉のポリフォニー。ゲルノート・ベーメの『雰囲気の美学』を参考に読むのもいいかもしれない。
 地球上のさまざまな場所でさまざまな時代にさまざなま機器で録音されたさまざまな言語のさまざまな〈声〉。登場する〈声〉のいくつかは、その内容ではなく声調やリズムといった音響的な理由のみで選択されたかもしれない。ランダムネスが誘う〈意味〉の湧出。視覚的に聴覚的に語られる自然をめぐるテクスト、それを語る声、声を記録するメディア、再現するメディアをそれぞれ引き離すこころみ。舞台の宙におのずと浮かびあがるのは、そこに登場しない、不在の〈人〉、不在の〈自然〉である。

 ゲッベルスのミュージック・シアターを、『パフォーマンスの美学』のエリカ・フィッシャー=リヒテの言う「パフォーマンス的転回」の流れのなかに置いてみよう。
 「パフォーマンス的転回」とは造形芸術、音楽、文学、演劇を含むあらゆるアートジャンルが「上演」として実現され、アーティストは作品を創作するというより鑑賞者をも巻き込む「出来事」を生成する、という見方だ。ヴィトゲンシュタインやソシュールらの仕事により、哲学的な問題がすべて「言語の問題」として語られるようになる傾向を指す「言語論的転回」を踏まえている。絵画におけるアクション・ペインティング、音楽におけるジョン・ケージの「イベント」や「ピース」、文学におけるポエットリー・リーディング、アクションやパフォーマンス、ハプニングという新たなアートフォームの形成――ウィーン・アクショニズム、フルクサス、ヨゼフ・ヴォイス、アブラモヴィッチ…。「あらゆる」というのは言い過ぎだと思われる人もいるだろう。映画はどうだ?ドライブインシアターや爆音上映は実施次第でパフォーマンスになるかもしれないが。じゃあ建築は?―磯崎新の古い著作に『建築のパフォーマンス』があったが。じゃあ写真は?…… アートの〈メディア〉が技術の進展で無限の複製が可能となる傾向が、かえって〈場所性〉や〈一回性〉、〈いま・ここ性〉をかけがえのないものとして際立たせる、と言った方が妥当のようにも思うが、それはさておき、パフォーマンスにはもう一つ、〈身体性〉が不可欠だというバイアスがずっと継続して存在した。
 シュティフターズ・ディンゲの場合、人間の俳優は登場しない。擬人化された人形や動物も登場しない。人はパオロ・ウッチェロの絵画の中にしか描かれない。
 しかし、〈もの〉による演劇は、彼が世界初かと言うとそうではない。ローズリー・ゴールドバーグは『パフォーマンス―未来派から現代まで (アール・ヴィヴァン選書)』で、パフォーマンスの起源を「未来派」にまで遡ったが、ダダやロシア・アヴァンギャルドを先駆けた彼らの活動を振り返ってみると、マリネッティによる「未来主義総合演劇」の理念に、すでに〈もの〉による演劇が構想されている。
 キャロライン・ティズダルの『未来派―Futurism (PARCO PICTURE BACKS)』によると、物体のドラマ第1弾の『お客様がいらっしゃる』(Vengono)では、「テーブルと大きな肘掛け椅子と8個の椅子」が主たる登場「物」となる(ただし執事や給仕が脇役として登場する)。「未来主義総合演劇」の〈簡潔性〉の理念を徹底化したフランチェスコ・カンジュッロの『爆音』では、人けのない夜の街路で幕をあけ、間があった後に銃声が鳴り、再び間があって幕が下りる。つまり、〈もの〉さえ登場しない(もちろん寸劇だからこそできたことだが)。
 ゲッベルスの「シュティフターズ・ディンゲ」は「未来派」の活動から100年を経て、「未来主義総合演劇」を問い直す試みである。それは映画という複製芸術の勃興を目の当たりにして、映画と拮抗し、映画を乗り越え、「アートと経験を一瞬のうちに統合する」(『未来派―Futurism』より)こころみだった。ゲッベルスの活動ジャンルだったノイズ・ミュージックも、その原初は未来派のルイジ・ルッソロである。
「未来派」は20世紀初頭にあって〈速度〉と〈雑音〉と〈機械化〉と〈戦争〉、つまりは〈近代化〉を称揚した。アートディレクターの坂本龍一は、1986年に「未来派野郎」というアルバムを出し、細川周平と共に『未来派2009』を編集しているので、当然そのことを知っている。
〈複製性〉に呪詛されたメディア・テクノロジーと〈一回性〉を本質とするパフォーマンス・アート、この本質的に相容れないようにもみえる二つをいかに「一致」させるか、それは〈近代化〉と〈環境〉をいかに「一致」させるか、という問いと同様にコインシデンティア・オポジトルム――相反するものの一致へのこころみである。それらこそが21世紀の現在において、アートと環境の未来を考えることである。

 シュティフター『曽祖父の遺稿』の冒頭部分では、老境に差しかかった著者が故郷の生家で、先祖が遺した古物の数々を愛でいつくしみながら次のように語っている。
「当の本人にしてからが、色あせた無趣味な祖先の遺品をみて、苦笑しながら処分してしまったように、孫たちもまた、同じことをするだろう。誰にせよ、つまりは過ぎゆく月日を見つめる物悲しく甘美な思いのみが、思い出の品々を、しばらくは手もとにとどめ、眺め入らせるのだろう」。
 それは電気なしには「気配」を保持しえない現代の「電子データ」化された「もの」たちへの思いに人を誘う。

(※1)アルフレート・ハルト(Alfred Harth)
 アルフレート・ハルトはヨーロッパの即興音楽の巨匠。マルチメディアアーティストとしても活躍。NHKの国民的連続テレビドラマ「あまちゃん」の主題曲でお茶の間に元気を与えた大友良英が率いるNEW JAZZ ORCHESTRAにも参加した(ゲッベルズも90年代に六本木にかつてあったロマーニッシェス・カフェでデイヴィッド・モスや大友良英、巻上公一等と共演している)。

(※2)カシーバー(CASSIBER)は1992年に来日公演を果たしている。『Live in Tokyo 1992』 ちなみにゲストとして参加した篠田昌巳(「じゃがたら」sax)はライブの1ヶ月後に急性心不全で他界)。

以上、敬称略。  
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