大島渚『新宿泥棒日記』 

 YCAMで昨2013年1月に亡くなった大島渚監督の回顧上映をいくつかみる。今のところYCAMでみたのは『飼育』(1961)、『ユンボギの日記』(1965)、『日本春歌考』(1967)、『無理心中 日本の夏』(1967)、『新宿泥棒日記』(1969)。

 昔の日本映画をみる楽しみの一つは、そこに映った時代の風物をみることだ。つまり、都市の人工物や地方の自然の様子、人の服装や髪形、化粧、話し方、他人との関係の取り方、恋人同士の会話、等々。家屋の内部が映っていれば、調度品や台所・居間の様子……。部屋割りやその大きさも、都市か地方か、裕福か貧しいか、2世帯か核家族か等によって異なるし、当時の家族関係の一例が見て取れる。映像人類学や民族誌映画学という言葉があるが、文化人類学的関心によって撮影されたものでなくても、いや、むしろだからこそ、当時の現代劇映画に否応なく映ってしまう時代の諸相が興味深い。
 たとえば『新宿泥棒日記』冒頭には紀伊國屋新宿本店の書棚が映っていて、当時売られていた本のタイトルをいくつか視認できる。ジュネの『泥棒日記』、ジョージ・オーウェル『カタロニア賛歌』、B. マリノウスキ『未開人の性生活』、G.バタイユ『マダム・エドワルダ』、マルセル・ブリヨン『幻想芸術』……、ほかの場面にも、シモーヌ・ヴェイユや萩原朔太郎、ヘンリー・ミラー、ボクサーのカシアス・クレイの本などが登場する。


 大島渚は『戦場のメリークリスマス』で坂本龍一や北野たけしを登用したことでもわかる通り、役者経験のない人物を俳優として使うことがよくある。主人公の鳥男を演じるのは美術手帖 2013年 11月号で特集されていた横尾忠則(なんか雰囲気が川上量生に似てるなー)。裸身をさらす横尾忠則はそれなりに雰囲気を出していたが、本人役で登場する紀伊國屋書店の創業者・田辺茂一の棒読みはちょっとスゴイ…。それだけでもう「メタ映画」である。とはいえ田辺茂一は映画の通り、書店経営者としてだけでなく、文化人としても活動し、紀伊國屋演劇賞の主宰や紀伊國屋ホールなどにみるように、演劇振興に多大な貢献をした。紀伊國屋ホールは、今はよく知らないが、一時期は《夢の遊眠社》や《第三舞台》も公演を行った小劇場演劇のメッカの一つだった。田辺本人は夜な夜な銀座で女遊びをして「夜の市長」と呼ばれたという逸話も残っている。映画に登場する地上9階建ての新宿本店ビルは紀伊國屋の歴史・沿革によると、1964年(映画撮影の4年前)に建てられた(前川國男設計)ものに相違ない。私も一時期は西新宿に住んでいたこともあり、何度も足を運んだ覚えがある。

 大島渚の映画は、その多くが犯罪者を主役としている。本映画では、新宿紀伊國屋で万引きする大学生の「岡ノ上鳥男」が、社長に存在すら記憶されていない女性店員の「ウメ子」(横山リエ)に手首をつかまれ「危うく射精するところでした」と白状して、二人して現実と想像の新宿内外を巡っていく。新宿東口広場の街頭演劇や"性科学者"高橋鉄のカウンセリング、佐藤慶や戸浦六宏、渡辺文雄ら(松田政男もいた)によるエロ談義、花園神社に張られた唐十郎の紅テントの様子などが映し出される。四谷シモン(→四谷シモン人形館)も、ウメ子の恋人役としてちょっぴり登場する。

 映画は基本的にモノクロだが、ところどころカラー映像が挟まれる。手持ちカメラの使用、即興的な演出。タイトルの「新宿泥棒日記」という中央を横切る字幕がくりかえし映像に挿入される。ロンドン現地時間やパリの天候、サイゴンの天候などのテクストが踊り、丸い掛け時計のガラスが破壊される。撮影された1968年はウォーラーステインの言う、世界システムにおける革命の年だ。1月に東大闘争、テト攻勢(ベトナム)が始まり、パリ5月革命、プラハの春、そして映画の最後に示されるように新宿騒乱事件が起こった年である。ウォーラーステインは同年4月のコロンビア大学紛争をきっかけに「世界システム」の分析に着手した。また、霞が関ビルが完成し、西武百貨店渋谷店が開店し、トヨタがマークⅡを、ソニーがトリニトロンを発売開始した年でもある。

 フォークギターを掻き鳴らしながら「こ~こ~は、アリバ~バ、謎の~街。誰か~があなた~に訊ね~ます」とチムチムチェリーの替え歌を歌う唐十郎の艶やかな顔が印象的だ。ある意味、その艶っぽさのみが結果的に唯一ゲイ・コミュニティへの配慮であって、「泥棒日記」と聞いてジュネのそれを頼りにゲイ・ムーヴィーを期待しても、大島自身は筋金入りのヘテロセクシュアルで、男性マジョリティの攻撃的な欲望を肯定する一方、ゲイの文化や心情に一片の共感さえも覚えていないのが見て取れる(その後、『戦場のメリークリスマス』や最晩年の『御法度』でホモセクシュアルを取り上げながらも、である。自ら男性結社を率いたとしても、ホモソーシャル≠ゲイというのが、大島の偽らざる本心なのではなかったか)。性的マイノリティを徹底して存在しないものとしてきた欧米の映画界に対し、日本映画では木下恵介監督の「惜春鳥」(1959)、三島由紀夫原作 木下亮監督『肉体の学校』(1965)という前例があったが、大島はその後を引き継ぐつもりなど一切なかったように思える)。

 脚本には、71年のカンヌ映画祭の帰路に若松孝二とパレスチナに渡り、日本赤軍やPFLPのゲリラ隊に加入して『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』を撮影した足立正生、その足立や松田政男とともに「永山事件」を題材にした『略称・連続射殺魔』を撮った佐々木守が参加している。

 50年代後半から60年代にかけては、前衛映画、というか難解な映画作品が好まれる傾向があったように思う。それは前世代の築いた歴史に対する攻撃性を特徴とする。「既存のもの」「月並みなもの」「ありきたりなもの」への攻撃性でもある。政治的前衛化と文化的前衛化の同期。昨年は、『実験工房展』がいくつかの美術館を巡回したが、当時の政治的「前衛化」が、アートを含む文化の諸側面の「前衛化」と重なる様が描かれていた。あるいはその展示には、今また繰り返される、デモ隊が国会議事堂を取り囲む事態に対し、アート面の「前衛化」を期待する意図がはたらいたのかもしれない。ただ、当時と今では、前衛を担うべき若者の占める人口比率も政治・経済をめぐる状況も大きく異なる。

 「難解さ」は脳を賦活させるし、解釈に向けての試行錯誤は映像を見る上での「快」の一つでもある。人は「映画」に対峙するとき、人の意識の下に堆積した40億年にも及ぶ生命史とともにそれを知覚する。そこは複数のレイヤーから成っており、嗜光性の古細菌レベルのモジュールも参加するし、性的なイメージに反応するモジュール、記憶を呼び起こすモジュール、映像の連なりからストーリーの抽出を試みるモジュール、作り手の意図を推測するモジュール等々。各層のいくつかのモジュールを調整して全体的な印象を形成する上位のモジュールも稼働している。各モジュールの働きとどのモジュールの「快」が優先されるか、及び全体の印象への結合荷重は、個人によって異なる。

 大島の映画をすべてチェックしたわけではないが、『飼育』や『白昼の通り魔』などが見ていてやや「苦痛」なのに対し、67年以降の中期大島映画が、「前衛的」であると同時に「面白い」と感じられるのは、ひょっとしたら佐々木守の力があってのことではなかろうか、と想像する。
 佐々木守は児童文学出身で、〈創造社〉に参加しながらも実相寺昭雄と親交を結び、当時、勢いを増していたテレビの世界で、『ウルトラマン』、『怪奇大作戦』、『シルバー仮面』等のいくつかの脚本を手掛けた。途方もなく暗い『シルバー仮面』も印象的だったが、佐々木が全話を手がけた『アイアンキング』では、大和政権に滅ぼされたまつろわぬ人びと「不知火一族」を登場させて、いたいけな小学生の私を反体制思想に誘うことになる^^;。70年代前半は連合赤軍事件の影響もあり、左翼シンパが多く関わったテレビドラマの世界では、「敗北を覚悟しながら多勢に無勢で立ち向かってゆく」的ロマンティシズムが横溢し、70年代後半~80年代における21時台のエロシーンが頻出するドラマとともに、子どもたちに「よからぬ(?)影響を与えた。とはいえ、74年のテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ 』で最終回までの12話を含む20話で脚本を手がけたのも佐々木守だった。彼は大衆がどんな刺激を「面白い」と感じるかよく分かっていた。

 建築がアートである前に実用的であることが求められるように、劇場映画もまた、興行であることを無視できるわけではない。
 佐々木はそれまでの大島映画に欠けていた、ときに「通俗的」とさえ映ってしまう「面白み」を加味することで、大島映画を「興行」的に支えようとしたのではなかろうか(実際に興行的にどれだけ寄与したのかは不明だが)。
 佐々木守を失った大島はその後、『愛のコリーダ』で性的スキャンダリズムを巻き起こし、大衆の関心を繋ぎ止めることに成功する。
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