ブレッソン『白夜』@YCAM 

 YCAMのブレッソン特集で『白夜』(1971)をみる。

 原作はドストエフスキーの短編小説『白夜』。ルキノ・ヴィスコンティーも、1957年に同小説を原作として映画を撮っている。ブレッソンの映画では、舞台がセーヌ川のポン・ヌフに置き換えられ、原題も「夢想家の四夜」となっている。

 一昨日にみたモノクロ作品『抵抗』や『すり』、遺作となったカラー作品『ラルジャン』と比較すると、視覚的な快、音響的な快に溢れていて、ポピュラリティへの配慮が感じられる。一般の劇場映画――ブレッソンの言う「シネマ」――に慣れ親しんできた者が初めてブレッソンをみるなら、恐らく本作品が最もとっつきやすいだろう。

 主人公のジャックとマルトは揃って草食系の美男美女だし、色とりどりの光の粒が散乱するパリの夜景、セーヌ川を周遊する遊覧船――バトームーシュ――はあたかも宝石箱のようだ。船内で演奏されるラテンポップスやストリート・ミュージシャンが爪弾くギターなど、70年初頭の雰囲気を示すポピュラー音楽が使われている。また、マルトの裸身やジャックによる愛撫の描写は、じつに官能の悦楽に溢れている。


 ただし、だからといって、ひたすらマスにおもねるだけの通俗的な作品、というわけではない。それは映画内に登場するブレッソン自身による「劇映画の断片」が、「シネマトグラフ」と対比される「シネマ」であることでも暗に示されている。構図はこの上もなくしっかりと考えられているし、シネマトグラフのいくつかの原則は厳密に守られているようにみえる。

 ジャックとマルトが会話を交わす主要な舞台の一つは、アンリ4世の銅像広場である。
 アンリ4世(→Wiki:アンリ4世)は言わずと知れた16世紀末―17世紀初頭のフランス国王だ。王はプロテスタントとカトリックとの間を揺れ動き、両者の融和に努めたが、最後は狂信的なカトリック教徒に暗殺された。王の搖動は、二人の男の間で揺蕩うマルトの気持ちや、(ひょっとしたら)カトリック教徒であったブレッソン自身の心の搖動をもあらわしているのかもしれない。映画の制作は1968年の5月革命の記憶がまだ鮮明だった時代である。

 貧しい画家のジャックがヒッチハイクで乗り込む車も、他愛ない夢想を吹き込むテープレコーダーも、彼が夢みる「美しい光景」も、この映画を撮影しているカメラもすべて、ブレッソンがこれまで抵抗してきた資本の運動によって形成されたものだということを、忘れるわけにはいかない。それはブレッソンが長い白夜に夢想したひとときの改宗?。あるいはコインシデンティア・オポジトゥルムの夢?

 マルト役のイザベル・ヴェンガルテンは、ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』(たしか山口市立図書館にビデオがあったな)やヴェンダースの『ことの次第』、マノエル・ド・オリヴェイラの『繻子の靴』等にも出演している。

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 錯覚かもしれないが、近年はドストエフスキー・リヴァイヴァルの波があるのだろうか。『白夜』のパンフレットに『愛の新世界1848/1968』というテクストを寄せている山城むつみは批評『ドストエフスキー』で毎日出版文化賞を受賞、三浦基演出による地点の『悪霊』は今年頭に一部で話題を呼んだ。
 また、広くロシア文化の話になるが、レフ・クレショフ傑作選 で触れたチェマダン等の活動も気になる。90年代の大学院拡大に伴い、ロシア語やロシアを研究する院生が増加したが、企業ニーズは減る一方で、優秀なロシア研究者が有り余っている…というような話をどこかで聞いた。経済的にペイできるかどうかは別として、2010年代の今、ひょっとしたら、その文化的な果実がいくつか生まれつつあるのかもしれない。

 フラット化への抵抗。文化の豊饒性を維持するためには、英語と中国語の2色に染めあげられるグローバリズムではなく、さまざまな言語―情報チャネルがあるべきだ。(トマ・ ピケティの"Capital in the Twenty-First Century"が欧米で話題を呼ぶ今だからこそ) ソ連の社会主義体制がなぜ崩壊したかについて、レフティーな方々はしっかりと自分たちの問題としてとらえてもっと分析すべきだろうし、ロシア・アヴァンギャルドの最新研究ももっとあって良い。あくまでも、未来の創造に向けて。


[追記]
 当時は文学シーンにまったく関心がなかったせいで^^;、亀山郁夫の『カラマーゾフの兄弟』新訳がベストセラーになったことなど全く無知だった!
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