映画『新しき土』(2) 

 映画『新しき土』(1)からの続き。

 映画『新しき土』は、日本の映画史を語る上で欠かすことのできない作品の一つだ。否、映画史だけでなく、日本外交史や政治史、山岳スポーツ史、「日本の表象」をめぐる歴史等においても極めて重要な作品と言える。

 まず第1に、『新しき土』は日本初の本格的国際共同映画であるとともに、日独防共協定までの道のりと密接な関係があった。
 海老坂 高の論文「日独合作映画『新しき土』によると、日独合作映画の構想はフリードリヒ・ハック(→wikiと、日独協会の設立者の一人で在ベルリン海軍武官事務所勤務の酒井直衛との会話から生まれたとされる。1935年前半のことだろう。
 日本とドイツはともに1933年に国際連盟から脱退したが、当時の両国の仲はあまり良くなかった。日本側にはナチの人種差別観に不快の念を抱く者が多かったし、経済摩擦もあった。ドイツは満州を承認していなかったし、政策的に親中華民国路線を維持していた。
 とはいえ、軍部には20年代から親ナチ党だった大島浩を筆頭に、国際的孤立を防ぐためにはドイツと接近すべきという主張が歴然としてあった。(『ナチズム極東戦略―日独防共協定を巡る諜報戦 (講談社選書メチエ) 』を読むと、このあたりの事情が詳細にわかる。また、ナチ政権による失業対策や農村救済が「うまくいく」につれて、軍部だけでなく政友会・民政党両党内に、彼らを称賛する意見が増えていく。そして、反共産主義、反ソビエトという点において、両国の利害は一致していると考える傾向が強くなっていった。
 武器ブローカーで日独協会会員のハックと日本の陸海軍は、水面下で日独接近に向けて動いていた。
 ドイツ人の映画監督に日本人俳優を使って映画を製作してもらったらどうか、という酒井のアイデアを受けて、ハックは友人のファンクに連絡をとる。ファンクの映画は日本でも数多く公開され、知名度は抜群だった。第1次大戦時にはドイツ参謀本部諜報部に所属したこともある。ドイツ宣伝省のゲッベルスもこれに賛同し、10万マルクの資金援助を約束した。
 ハックは東和商事の川喜多長政に話を持ちかけた。東和商事は日本最大の映画輸入業者だったが、川喜多は海外提携による映画製作の夢も抱いていた。1935年7月に渡独した彼は、ファンクと契約のあるテラ映画社とすぐさま具体的な話をまとめた。翌1936年2月にファンクは来日する。
 映画が撮影された1936(昭和11)年は、226事件の年であり、日本映画監督協会・日本映画技術者協会設立の年でもある。8月にはベルリン・オリンピックが開催され、ファンクのもとで映画女優を務めたレニ・リーフェンシュタールが記録映画を撮影した。9月末には、満州国と満鉄が折半出資して資本金500万円の国策映画会社が決定された。
 日独防共協定に向けた活動は、映画スタッフの往来を隠れ蓑にして進められた。226事件によって陸軍の発言権がいよいよ増大し、外務省も交渉締結に向けて動きだす。しかし、その内容は日本とドイツに幅広いスパイ網を巡らせていたソ連に筒抜けであった。

 映画は1937年の2月、帝国劇場で華々しいプレミア上映がおこなわれた。皇室や各界の識者が数百名参席し、評判は上々だった。
 新聞では「原節子の何処が美しいか?」について意見を求める森永製菓とのタイアップ広告がおこなわれ、上野松坂屋では「新しき土展覧会」が開催されたという。前述の山本直樹「風景の(再)発見」は、日本のナショナリズム高揚に貢献した志賀重昂の『日本風景論』がこの時期、岩波文庫に入ることで再ブームを巻き起こしていた点に着目し、『新しき土』は『日本風景論』と同じく、「日本」というネーションの枠組みを「日本人」に再認識させたが、『新しき土』の場合、他者の視線が大々的に導入されたことで、さらに「日本」というネーションへの欲望が喚起された、という。
 歴史はまっすぐに突き進むわけではない。むしろ、正反対と思える出来事も同時に発生しつつ、紆余曲折を経て進んでいく。1920年代のモダニズムは、コマーシャリズムの〈快〉を伴う「自由」と「解放」の空気に満ちていた。東京が1923年に起きた関東大震災から瞬く間に復興できたのも、ドイツが敗戦の痛手から立ち直ったのも、アメリカやイギリス、フランスを中心に、自動車や映画、ラジオ等の新技術が大衆に普及し、大量生産と大量消費の時代が到来して将来への「希望」がふくれあがり、信用経済が膨張したことによる「好景気」に助けられたところが大きい。そのつけは29年のウォール街の大暴落以降に回ってくる。精神的なバブルが金融バブルのあとも長くひきずるのは、なにも90年代初頭のバブル崩壊時だけではない。『戦前日本の「グローバリズム」 』を読むと、日本の30年代もまた、国家主義一辺倒だったわけでなく、国際協調やグローバリズムの拡張と、国家主義化への方向性が共存し、錯綜しながら時代が進んだ様子がうかがえる。

 さらに、『新しき土』は、日本の「特撮」史においても極めて重要な作品だった。
 ファンクの来日は、日本の映画人の注目を一気に集めた。撮影陣がもってきたズームレンズは当時、ベンツの新型モデルに匹敵する価格だった。ファンクは日本での座談会において日本の静止写真の撮影技術を称賛する一方で、経済的理由もあって映画の撮影技術はあまり進歩していないことを指摘した(※)。
 そんなファンクの驕った態度に「負けん気」をおぼえたのか、この映画に特殊技術協力として参加した円谷英二は、JOスタジオで自ら完成させたスクリーン・プロセス(→wiki)をふんだんに使用した。円谷のスクリーン・プロセスは、リアタイプ・スクリーンを使用したプロジェクター合成だった。絶望した光子が桜の花をバックに歩くシークエンスでは絶妙な効果をあげている。円谷は戦前の『映画技術』に、本名の英一の名で「『新しき土』とバックグラウンド撮影」と題した報告を寄せている。


円谷英二の映像世界』に再録された「トリック映画今昔談」(中央公論昭和33年10月号所載)によると、スクリーン・プロセスは当時、アメリカではすでに実用化されていたが、(ファンクの話では)ヨーロッパ映画界ではその装置を所有するスタジオは一つもなく、ファンクはしきりに円谷が制作した機械をドイツに持って帰りたがったと語っている。
 トーキーシステムの開発を行っていた写真化学研究所(PCL)と京都のJ.O.スタヂオが合併して東宝映画(株)が誕生したとき、重役の森岩雄は「特殊技術課」を新設して初代課長に円谷を就任させた。そして戦争映画の白眉『ハワイ・マレー沖海戦』が制作されるに至る。
 日本映画は映画技術においてもプロパガンダ性においても、まさに戦争とともに進化・発展を遂げたわけである。
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