猪瀬直樹×東浩紀@ゲンロンカフェ 

 11月29日にゲンロンカフェでおこなわれた猪瀬直樹×東浩紀対談をタイムシフト視聴。

 1946年生まれ、つまり、団塊世代に属する猪瀬直樹の生涯と著作を振り返り、団塊ジュニア世代の東の日本観・時代観を編み込ませながら、日本の戦後史を物語る試み。

 後ろの書棚の縁に合わせたかのようなオレンジ色のセーターで登場した猪瀬に、東はかつて猪瀬に教わったというクラウディ・ベイを振る舞って、対談が開始する。

 クラウディ・ベイは、猪瀬が副知事時代の2009年に出した『ジミーの誕生日』(文庫本で『東條英機 処刑の日』に改題)で、女性主人公が最後に乾杯する白ワインの銘柄。本書は猪瀬のデビュー2作目『昭和16年夏の敗戦 総力戦研究所"模擬内閣"の日米戦必敗の予測』(1983)の後編という位置づけで書かれた、小説仕立てのノンフィクション。マッカーサーが東条英機ら戦犯の処刑日を12月23日に設定したのは、ジミーと呼ばれた今上天皇の誕生日に死刑執行することで、戦後の日本人に戦争の記憶に深く刻み込む意味合いがあったのでないかと推察する作品。

 続いて、近刊の『さようならと言ってなかった』をベースに、東京都の五輪招致運動のさなかに急死した奥様のゆり子さんとの日々を振り返る。 猪瀬は一時、信州大学の全共闘議長をつとめたことがある。先鋭的なイデオロギーをふりかざしてメンバーをぐいぐい引っ張っていくと言うより、具体的な行動に落とし込むことを優先し、率先して後輩たちの世話を焼くタイプだったらしい。「革命の時代」が幕を下ろし、三波春夫がテーマ曲を歌った万博が開かれ、三島由紀夫が自決した1970年に上京。ゆり子さんに経済的に支えられながら大学院で橋川文三に師事し、日本政治思想史を学んだ後、ノンフィクション作家を目指した。

 ちなみに、日本の年齢層別人口推移をみたところ、1920年以降でユースバルジ(全体の人口に対する15歳~29歳の人口比率)が最も膨らんだのは、戦争に突き進んだ1930年代ではなく、1960年代後半(28.8%)である(現在は16%を割っている)。こちらで触れたジェノサイド研究のグナル・ハインゾーンによると、この比率が30%を上回ると、戦争やテロ、内乱が発生する確率が上昇する。「儀式的」であれ、「ディズニーランド」的であれ、60年代後半の過激な行動主義は、青年期を迎えた団塊世代によって形成されたことが、数字からも伺える。

 給料も物価も同時上昇するインフレ時代の70年代を経て、「消費の時代」である80年代へと時代は移り変っていく。東が誕生したのは、猪瀬の"ミカド三部作"の第2作、『土地の神話』(1988年)に登場する五島慶太・東急グループが手がけた青葉台の新興住宅街、1971年のことである。

 東は高校時代に『土地の神話』を読み、戦後空間にテーマパークとしてつくられた「新興住宅地」の裏側に深く気づかされたと話す。
 東曰く「団塊世代は歴史を切断した最初の世代であり、多くの若者が地方から上京して、全く新しいファミリーを築いた世代。」「猪瀬さんは、歴史を切断する世代に属しながら歴史を再発見した。」「僕は、親がどうして歴史のない、テーマパーク的な新興住宅地に惹かれたかについて語っている本として『土地の神話』を読んだ。団塊世代が歴史のない世界を強く欲望したことにどういう意味があり、どういう限界をもっていたかについて、今もずっと考え続けている。家族の問題もそう。団塊世代は核家族を理想状態としてつくったが、団塊世代がつくったニューファミリーの幻想にわれわれの世代も囚われ続けている。それを支えるにはいろんな制度(終身雇用制などのことだろうか)が必要で、それらの制度がなくなると幻想だけが強くなって、今の若い人たちは結婚や育児さえままならなくなっている」

 猪瀬としては、むしろ歴史を切断したのは、戦後に青年期を迎えて『太陽の季節』でデビューした石原慎太郎に代表される先行世代であり、そこでは戦争に負けた空間だけが全てだった。だからこそ、近代化の150年という枠組みを自分なりに捉えなおし、ナショナリズムこそが重要なキーであることに気づき、そこから物事をとらえて、(「おねだり」するだけの「進歩的文化人」とは違って)、自分たちで新しい時代をつくらなければならない、と考えたのだという。

 東は、金沢の寺町出身で浄土真宗の信徒だった父親が、先祖の墓を東京の「仏壇マンション」のようなバーチャルな墓に移してしまう感覚に対し、違和感を発露する。

 猪瀬が言うには、江藤淳が『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)』で示したように、戦後はGHQの検閲によって言葉が「整理」され、伝統と切断されていった。そのプロセスのなかで育った団塊世代が、団地の中で仏壇を置くスペースさえ無くして、仏壇マンションを選ぶようになる、それが70年代であり、80年代だった。(稲作についても70年代から減反政策へと方向転換する)。



 猪瀬はミカド3部作の第3作『欲望のメディア』(1990年)でテレビの歴史を描いた後、『黒船の世紀』では明治維新以降、敗戦に至るまで、大量の日米架空戦記が出版された事実に着目する。平田オリザ(→ブログ:平田オリザ×東浩紀)の大叔父である平田晋作も、その著者の一人だった。

 『ペルソナ』(1995)では、三島由紀夫と官僚機構の関係を描いた。東曰く「政治と文学の関係は70年代に壊れ、それ以降は文学のサブカルチャー化が進んでいく。その中で猪瀬さんは、孤軍奮闘して政治と文学との関係を問い続けた人です」。

 猪瀬としては、第2の敗戦とまで言われたバブル崩壊時代において、誰が近代日本を作ってきたかを明らかにしたかった。その答えが「官僚」であり、1996年には官僚機構が自己増殖していく世界を描いた『日本国の研究 (文春文庫)』を出版する。そこでは小泉純一郎との対談にもページが割かれている。

 官僚機構の自己増殖により、無数の特殊法人が誕生していく日本で、国土交通省を陸軍にたとえると、関東軍ともいうべき道路公団の問題が浮上する時代、小泉が首相になった2001年に提案書を送ったところ逆に指名を受け、道路公団民営化に深く関わるようになる。
 それは、官僚と政治家による「利益共同体」とは距離をとった小泉が進める特殊法人改革に呼応し、官僚になり代わり第3者として実行プランをつくっていくプロセスだった。

 乱暴だが、このあたりで締めることにする。

 官僚でも政治家でもない者が政策立案に参加していく方法の一つとして、政府の審議会への参加があげられるが、東はフローレンスの駒崎弘樹や古市憲寿、貝沼博らが審議会に参加することで「権力に取りこまれていく」のではないかと否定的に捉えているようだ。

 しかし、そこで彼らが何度も「利用」されて、痛い目にあうくらいのほうが、彼らの将来にとっては良いだろう(「痛い目にあった」と認識してくれればよいが)。「村人」として取りこまれて終わるなら、しょせんその程度の人物だったということに他ならない。近年は「批評」圏においても、外部からただ「批判」の言葉をぶつけるより、多少「痛み」を覚えても、内部に関わっていくほうが大事だと思う人が増えてきた。もちろん、それは外部からの「批評」が無意味であることを意味しない。果たして「観光客」ばかりで良いのか、「村人」と「観光客」の境界領域があるのか、ある「べき」なのか。

 猪瀬や平田オリザは、果敢にその「境界領域」に足場をもうけ、猪瀬の場合はさらに村人のなかに介入していき、(うろ覚えで誤解があるかもしれないが)今村仁司が言っていた「第3項」となったのではなかろうか。「第3項」にはキングになるか、「供犠」となるかのどちらかの道しかない、ということなのだろうか。

 文中敬称略。
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