吉川浩満×東浩紀@ゲンロンカフェ 

 4月24日のゲンロンカフェは、『理不尽な進化』の著者・吉川浩満と東浩紀の対談。

 吉川浩満は理系と文系の境界上に現れる哲学的問題に関心を持ち続けてきた人。過去には大学の同級生だった山本貴光とともに、ジョン・R.サールの『マインド―心の哲学』を翻訳し、『心脳問題』等の本を出している。新潮社の季刊誌『考える人』の最新号にも、山本との対談が載っていた。
 昨年(2014年)10月に出版された『理不尽な進化』では、一般人がついメタファー的に使ってしまう「進化」の意味を丁寧に解きほぐし、進化論をめぐるドーキンスとJ.グールドの論争を取り上げて、学問と日常的世界像、偶然と必然、科学的解説と歴史的理解、といった哲学的問題に迫っている。

 最初の1時間は、本書の内容を解説。ドーキンスvsグールド論争の仔細には踏み込まず、進化生物学の主流派(=ネオダーウィニスト)の標準的方法とされる「適応主義」――生物は良く環境に適応しているという前提のもと、それがいかなる有利性ゆえに選ばれてきたのかを説明する方法論――をめぐる問題点や、グールドが『パンダの親指』で述べた、進化論は「時間を超えた数量的な一般法則を取り扱う諸科学から歴史の特殊性を直接の対象とする諸科学にまで広がる連続体の真ん中にある」という言葉の本来的意味を解説する。

:「適応主義」は論点先取みたいなところがある。僕が経済学を嫌いなのも、こういう「勝ってるやつは必ず適応している」みたいなところがあるから。行動経済学の議論があまり好きでない理由も、「こういう風に仮説を立てた。その仮説から外れる人たちは一杯いる。しかし、彼らにとってはそれもまた功利主義的だからだ」みたいな議論をするから。いつまでたっても功利的なものの罠から逃れることができない。どんなに非功利的な行動をとる人がいても、その人の効用関数の中で選ばれるんだという論点先取で全部説明するので、すべてが説明できるようにつくられている議論。

 後半は、東の最近作『弱いつながり』と、デビュー作の「ソルジェニーツィン試論―確率の手触り」、一般に主著と言われる『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』を取り上げて、東が一貫して持ち続けている哲学的問題意識と、吉川自身の関心対象の交差するところを明らかにしていく。

 たとえばデビュー作の「ソルジェニーツィン試論」では、すでに現在のフクシマへの関心に通底する理不尽な"絶滅"、"虐殺"のテーマが登場する。カフカの描いたユダヤ人経験的な「理不尽」とソ連が実現していた「統計感覚的な理不尽」とは少し違うということ。

『存在論的、郵便的』は、フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)』の追加論文として書いた「幾何学の起源」(本書に付録2として掲載)にデリダが疑問を呈して書いた「フッサール 幾何学の起源について」を取り扱ったもの。

:20世紀初頭に数学の集合論や物理学の量子力学等が立ち現れたために、「生活世界を足場にして人間の素朴な直観みたいなものを確実に積み上げていくことで高等科学がつくられる」というプログラムが破綻してきた。そこでいろんな哲学の立場が登場して、フッサールもその一人として「超越論的現象学」を打ち立てようとするのだが、しかし待てよ…?と自信を喪失したかのように書いたのが、追加論文の「幾何学の起源」。そこではたとえば「ピタゴラスの定理はピタゴラスが生まれる以前に存在していたのだろうか?」「そもそも学問の歴史とは何か」といった話になってきて、数学の歴史自体がある種の科学的真理みたいなものの自己展開の歴史であって…みたいなことを言っていく。それに対して「ちょっとおかしいんじゃね?」とツッコミを入れたのがデリダの論文。僕が『存在論的、郵便的』で書いたのは、ここで問題になっているのは「数学は歴史がなくて存在するのか、あるいは、歴史がなければ数学が存在しないのか、という問題だ」ということ。

(デリダの『幾何学の起源 新装版』が昨2014年8月に出ている。不勉強ゆえ、フッサールやデリダの当該論文も『存在論的、郵便的』もちゃんと読んでいないので定かでないが、「数学は発見的か発明的か」を問ったマリオ・リヴィオの『神は数学者か?: 万能な数学について』にもつながる、もっと根源的(?)な話のようで興味をそそられる)。ちなみにリヴィオの新作『偉大なる失敗:天才科学者たちはどう間違えたか』では、ダーウィンの進化論についても触れているようで、こちらの方も気になる)。



 東の『ゲーム的リアリズムの誕生』もある意味、ダーウィニズムに関わる、という話や、著者・東自身による『クォンタム・ファミリーズ』の解説も面白い。進化論のような、科学的なことからどうしてもはみだしてしまうものの話から、STAP細胞問題を経由して「大学の言説」からラカンによる4つの"ディスクール"の構造的図式に話題をもっていくところは、吉川もなかなかの芸達者。

 文系と理系の考え方の違いは、何回も歴史が繰り返されても真実であるものを追及する人たち(=理系)と、一回しかない歴史を前提に真理はどうありうるかを考える人たち(=文系)の違い、という話は、吉川のプレゼン資料にも垣間見えた、新規カント派ヴィンデルバントの、法則定立的 (nomothetisch) な方法を用いる自然科学と、個性記述的な (idiographisch) 方法で一回的なものや個別的なもの、特殊なものと関わる精神科学(文化科学)の違いに由来するのだろう。

 最近のゲンロンカフェはゲストがシテで東がワキを務めることが多かったが、今回はゲストがワキ、東がシテとなる展開となった。二人は出会って2回目ということもあるし、数日前の東の「ゲンロン休みたい…」ツイートに対して吉川が気遣ったところもあるのだろう。興行としてみると、白熱した議論や荒っぽい口論、暴言といった「感情のフック」が足りなくて物足りなさを覚えた、という人がいるかもしれない。とはいえ、気合(強度?)勝負の時事的・政治的内容よりも、こうした一般人には理解しづらいコムズカシー内容を魅力的かつ分裂生成的にパフォ-マンス展開することで客席に何かを引き起こす、という方向こそが、ゲンロンカフェの真骨頂であって、カフェ経営的には集客が大変かもしれないが、こちらの方向がもっとあって欲しいなあと思う(後で対談本にまとめて売れるのは、むしろこちらの方ではないか)。まあ、いろいろなゲストがいて、いろいろなパターンがあった方が良いってことに尽きるのだが。できるだけ多様性をつくっておいて「自然淘汰」(?)に任せるってことでw。

 科学的コミュニケーションと哲学的コミュニケーションの境界領域をわかりやすく描出しようと努める吉川には今後も期待したい。(3月に翻訳が出たアンドレアス・ワグナーの『進化の謎を数学で解く』の感想なんかも聞きたかったなあ)。

 文中敬称略。
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