映画『マミー』 

 YCAMでグザヴィエ・ドラン監督の『マミー』(原題:Mommy, 公開2014年)をBD上映でみる。

 舞台は「とある世界」のカナダ。といっても多元宇宙もののSF映画ではない。映画の終盤で表される事態が現実のカナダでは「法律上起こりえない」と目くじらを立てる人びとへの配慮のようだ。(←ちょっとテイストレスな解釈だったか^^;)

 主な登場人物は、夫を亡くしたアラフォー世代のダイアンと、ADHDと診断され施設に入所していた15歳の息子スティーヴ。そして、二人が暮らし始めた郊外の家の隣に訳あって長期休暇でやってきた女性教師カイラ。

 以前見た同監督の『私はロランス』(→ブログ)では、トランスセクシュアリティの問題を扱っていたが、今度はADHD。スティーヴは平静時には情緒豊かな普通の少年にみえるが、機嫌を損なうと誰彼かまわず汚い言葉を吐き、かっとなって母親の首を絞めることもある。家庭内暴力をテーマとしたドラマは日本では80年代以降、『積み木崩し』(→wiki)をはじめとして数多くあったため「ありふれた」感をおぼえた人もいるだろう。これが邦画ならあまりにも感情が前面に出過ぎて見るに堪えなかったに違いない。しかし、演じるのは欧米人だし、口にする言葉もフランス語なので、距離をもってみることができる。若いドラン監督のセンスある映像と選曲に、むしろかえって思わず引き込まれてしまった。

 とはいえ、最初は画面のアスペクト比が1:1――つまり、正方形――であることに苛立ちを覚えたのは事実だ。パソコンでみるデジタル動画やテレビは4:3が標準だし、映画ではスタンダードが4:3で、ビスタやシネスコではそれよりさらに横に長い。
 ドランとともに第67回カンヌ国際映画祭での審査員特別賞を受賞したゴダールは、昔からスタンダードサイズに拘り、日本人が導入した?シネスコサイズはまるで棺桶のようだ、と確かどこかで語っていたが、正方形の画面というのはそのスタンダードよりさらに横幅が短い。横長サイズで動画を見る習慣に慣れ親しんできた者たちは、ある種の「狭苦しさ」を覚えてしまう。

 劇映画における中心的被写体は主に人間だが、人間は寝そべらない限り縦に長く映る。画面の横幅が短くなると、背景が占める面積が自ずと少なくなる。これは、見る側としては(前後のショットで想像可能だとはいえ)被写体の空間的位置を把握する手がかりが少なくなることを意味する。
 写真の世界では中心的被写体をド真ん中に配置することは「日の丸構図」といって忌避される。たいていはやや右か左に寄せて撮る。映画でもど真ん中に被写体を配置したショットは、特別な意図がない限り避けるのが普通だろう。しかし、正方形だと横の"遊び"が少なくなって、どうしても「日の丸構図」が増えることになる。顔のアップにしても、面長の人がほとんどなので、画面が顔だけで埋まりがちだ。観客としては、被写体との距離が近すぎてしまう。

 これは、周囲が見えず、愛情の対象との距離感が掴めないスティーヴの目を通しての映像、ということだろう。終盤に数分ほどこの上なく美しい「ノーマルな」横幅の映像が現れる。ずっとこのままエンドロールまで続いてほしいと願うほどの。



 予告編をみてもわかるように、ADHDがテーマだからといって、ただただ母親が深刻に悩み抜き、観客がどんよりとした気分になる映画ではない。母と子が二人きりで愛憎の自家中毒に陥っている、というわけではない。
 カイラが良い媒介となって、ダイアンとカイラ、スティーヴとカイラという新しい関係が切り拓かれる。眩しいばかりの陽光に溢れた映像には、泥沼のような現実から軽やかに飛翔する夢と希望が表れている。

 スティーヴがショッピングカートと戯れる場面が好い。常日頃、不用意な一言で他人を傷つけたかも…と思い悩んだり、逆に他人の言葉に自分への軽侮を感じとってムカついたり、と職場や私生活での人間関係に汲々としている人びとのなかには、小児期のディシプリンを免れたように素直な感情を発露するスティーヴの姿に「自由」を見てとる人がいるかもしれない。ただそこには、気に入らなければ差別発言する「自由」や、見境もなく女性の胸に触れる「自由」も含まれている。「自由」には解放感とともにダークな暴力性の影がついてまわる。

 亡くなった父親は、ある種の電子レンジの発明者だった。スティーヴはいつもディスクに焼き付けた曲を好んで歌う。それは、父親が亡くなる前、家族でカリフォルニアを旅行した際につくったコンピレーションアルバムの曲だ。
 真の自由は歌の中にある。

 追記:2015/10/28
 未だ見ていないが、ドランは2009年の処女作『マイ・マザー』でも母と息子の関係を扱っている。『私はロランス』でも、幾度となく主人公の母親が登場した。
 たとえば、マッチョなメキシコ人は人目をはばかることなく母親への愛を口にすることが多いが、こういう「マザコン」気質は、恐らくカトリックと関係している。カトリックは表向きにはイエス崇拝だが、その裏には濃厚なマリア崇拝(母性崇拝)がある。聖堂も聖マリアの名を冠する聖堂が圧倒的に多いし、マリアの母親のアンまで崇拝対象にしているほどだ。メキシコ麻薬戦争を扱った映画『皆殺しのバラッド』(→ブログ)でも、刺青入りの殺人者の青年が、刑務所の壁に虎の絵と共にマリアの肖像画を掛けていたのが印象的だった。
 ドラン自身がカトリックかどうか定かでないが、フランス系カナダ人は圧倒的にカトリックが多いと聞く。彼の映画にはどこかしらカトリック的な感性を感じるなあ、と思っていた。そして、今さら気がついた。ドランのファーストネームはXavier。つまり、日本にも渡来した16世紀のカトリックの大伝道師、ザビエルではないか。
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