何も言うな。アングルを見よ(1) 

   ルーブルを見ずして一生を終えてはいかんだろう、と何年か前に生まれて初めてパリのルーブル美術館を訪れた。
 いや、驚いたねえ。アートと美食で食っているフランスの権威を象徴する巨大な建物である。広いのなんの。日本人や中国人のツアー客がうじゃうじゃ這い回っているが、なにせ広いものだから「モナリザ」や「ミロのヴィーナス」像の周辺を除けば気を削がれることなく堪能できる。
 そのとき最も惹かれた絵のひとつが、アングル 「グランド・オダリスク」 (上)である。半身を大きく捻って振り返る裸婦の表情は格別である。古典的な美をそなえつつそれから逸脱せんばかりの官能性。エロティックとエレガンスの絶妙なブレンド。何よりも、この世ならぬ場所へといざなう悦楽的な眼差し。全体に眼を向けてももちろん素晴らしい。
 構図は実に計算されている。中心に膝頭が置かれ、対角線に沿って長い腕や脚が伸びている。胴体の左側の輪郭線や右腕の線は、正中線の上部を中心とした円弧に忠実だ。胴体が異常なまでに長くデフォルメされていると当時の批評家は目くじらを立てたというが、ぜんぜん気にならない。むしろ、絵画史上屈指のデッサンの名手アングルが人体の規範を裏切ってまで表現したかった新たなる曲線美のイデアが強く感じられるではないか。
 フランス革命を果たして神よりも人間が中心を担うようになった時代にあって、アングルは保守派ならではの慎みを保ちつつも、神の支配する古典的な比例美を逸して、人間の求める新たなる美の規範を築いたのだ。

 「グランド・オダリスク」の構図は、師匠のダヴィッドが1800年に描いた「レカミエ夫人の肖像」(上)の影響を汲んでいる。 見比べてみると、こてこての古典主義者ダヴィッドとの歴然たる違いが見て取れる。アングルはドラクロワなどのロマン主義に対抗して新古典主義の旗手に担ぎ上げられたが、この場合の「ロマン主義」はあくまでも古臭い美術史用語でしかなく、本質的にはモダンアートの源泉であるロマン主義の巨匠と言うべきだろう。
 イギリスの有名な美術史家ケネス・クラークは「裸体美術の成功の鍵は、誘惑的なまでにエロティックであると同時に、美術品として冷静に鑑賞しうる新たな肉体美の形式を創出することにある」と語ったそうだが、本作品はその要件をじゅうぶん満たしている。贅沢に時間をかけて精妙に描かれた細部の陰影もまた、なんとも素晴らしい。
 なお、オダリスクのオダはトルコ語で「部屋」の意味。日本でも側室という言葉があるように、トルコの後宮に生きるスルタンの側室――ハーレムの美女、を意味する。ナポレオンのエジプト遠征はフランスに東方趣味をもたらしたと言われており、アングルはローマ留学中の1814年にこれを描いている。

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