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戸田山和久『哲学入門』第6章 

 読書会でカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』を読んで以来、決定論と自由意志の議論について興味が蘇ってきたので、戸田山和久の『哲学入門』第6章に従っておさらいしておこう。wiki:決定論にも整理されているので、戸田山氏の議論と比較してみるのもいい。その違いこそが哲学の入り口なのかもしれない。

 なお、『スローターハウス5』はテッド・チャンの『あなたの人生の物語』(→ブログ:映画『メッセージ』)の元ネタにもなった小説。ヴォネガットは学生時代、『猫のゆりかご』や『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』、『チャンピオンたちの朝食』等を読んだが、内容はすっかり忘れた。ただ、『チャンピオンたちの朝食』については、東京の企業に就職して初のGWに房総半島の銚子まで電車旅行した際、読んだという記憶だけがある。

 戸田山の『哲学入門』は、哲学的自然主義とでも言うのだろうか。 デネットやミリカン(→wiki) 、ドレツキ(→wiki)らの議論を紹介しながら、意味や機能、情報、表象、目的、自由、道徳といった抽象概念を、科学的世界描像に沿った形で語りつくし、最終章で「人生の意味/無意味」にまで迫るというもの。個人的にはブログ:映画『エゴン・シーレ 死と処女』の最後のところに提示した事柄に対する現代の科学哲学者からの応答だとも言える。

 全知全能の神を想定したところに由来する神学的決定論に対し、17~18世紀にニュートン力学が成功したことから物理学的な決定論が登場。確率論の父の一人、ラプラスは「ラプラスのデーモン」という全知の存在を想定。
 ラプラスの同時代人カントは、物理的世界の決定論と自由意志のリアリティをどちらも何とかして残したいと考え、精神と行為に別の領域を与えた。可知の世界と不可知の世界(物自体の世界)。カントは可知の世界について決定論者であるゆえ、自由の領域として別の世界(物自体の世界)を必要とした。
 20世紀後半に認知科学が成立すると、われわれの心は計算メカニズムであるという考え方が登場。これは外部環境の情報(知覚)と内部状態の情報(欲求と信念)とを入力として計算し、計算結果として行為を出力する。
 この「内部メカニズム」と環境入力でわれわれの行為が決まると想定するのが、(著者の言う)「メカニズム決定論」。これは神学的決定論や物理学的決定論とは異なり、世界全体の成り行きがあらかじめ決定されているという全面的決定論ではない。著者は、「自由と決定論の問題」を「責任ある自由な行為主体と、認知計算メカニズムという、二つの自己理解の対立」として考えた方と好いという。

 自由と決定論に関わる立場には主に以下のようなものがある。
①非両立論
①-1.リバタリアニズム(少なくとも人間の行為は決定論に従わない。単なる物理的システムや計算メカニズムを超えた存在であり、ゆえに自由を持つ)
①-2.ハードな決定論:われわれは決定論的システム
②両立論、あるいはソフトな決定論:われわれは決定論的システムであると同時に自由の担い手である。

 両立論の代表選手の一人、ダニエル・デネット(→wiki)の自由意志論は、正統派の哲学的議論と少しずれていて、自然主義的な精神に貫かれており、正統派が本件を形而上学的問題として捉えるのに対し、われわれが進化の産物のメカニズムであることを前提し、自由がどのように進化してきたかを論じる。
 正統派はわれわれが現にもっている「自由意志概念」を分析して、それと決定論が両立するかどうかを考えるが、これに対し、デネットは科学的世界像に調和する限りでの自由意志の概念を突き止め、そっちの概念に取り換えようと提言する点で「改訂的」。これは「自由意志」概念のインフレを防ぐため。インフレ例の一つとして、ロデリック・チザム(→wiki: Roderick Chisholm)のようなリバタリアンが唱える行為者因果。こうして自由意志にまとわりつく形而上学的装飾を捨て去り脱神話化した、いわばわれわれが望むに値する(worth wanting)自由意志であれば決定論と両立可能。

 自由という概念には(1)「自己コントロール(→wiki)」と(2)「他行為可能性」というサブ概念が関係する。

(1)19世紀にイアン・ハッキング(→wiki)が言う「第2次科学革命」が生じて科学的知識は確実さを失い、蓋然的なもの、間違いうるものと思われるようになり、確率は無知の反映ではなく事象の側の客観的性質とみなされるようになる(この潮流の総仕上げが20世紀前半に確立した量子力学)。原子のようなミクロな対象はある時点での状態が一つに決まったとしてもその後の状態は確率的にしか決まらない。つまりミクロのレベルでは非決定論的だということになる。ただ、「量子力学はニュートン力学にもとづく物理学的決定論は論駁するかもしれないが、メカニズム決定論を論駁するかどうかはわからない(p310)。さらに、「私」が何をするかは偶然に任されていたことになって、単なる偶然によって生じた行為は自由な行為と言えるかどうかという問題になる。つまり、量子力学的非決定性は(それだけでは)自由意志にリアリティを与える助けにならない。偶然の産物は私がコントロールできていないから。私にコントロールできないことには選択の自由はないし、責任も生じない。よって自由意志の概念にとって自己コントロールは重要な要素。「それは原始的な生き物にその萌芽が見られ、人間のそれは、表象の進化にともなってそこから徐々に進化した」。

 (想定される)非両立主義者からの議論への反駁例はp314~。自然法則に従うことは、何かに「コントロール」されることではない。環境にコントロールされてるのでは?という想定反論は間違った擬人化。p320 「わたしは欲求、信念をもち、目的をもつ。しかし、私の内的メカニズムにこれらを帰属させることはできない。それをやったらカテゴリー錯誤」。

(続く)

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