カメラ・オブスクラとしての舞台~マレビトの会『PARK CITY』を観る 

 YCAMで松田正隆作・演出、マレビトの会による『PARK CITY』を観る。タイトルは、笹岡啓子 による同名の写真集に基づいており、笹岡自身も出演している。
 観客はスタジオAの3階席に案内される。観客席は60席しかなく、各席の右横に10cmx20cmくらいのモニターが据えつけられている。高所より見下ろされる舞台は大道具がほとんどなく、公園のように平坦で空疎だ。
 開始時刻になると、薄暗い舞台の上に観光ガイドに導かれた白服の集団が現れる。ガイドの説明はマイクの調子が悪く、途切れ途切れでほとんど意味を紡がない。中央奥に設置されたスクリーンに、笹岡が撮影した『PARK CITY』の写真が映し出される。スライドプロジェクターを操作するのは笹岡本人である。
 手元にあるモニターは、川から広島の街並みを映した動画映像を流す。街の景観よりもむしろ、撮影者が乗ったであろう遊覧船のゆったりした動きに意識が向う。「歪曲された証言」というテクストに続いて基町高層アパートの住民たちが証言を始める。広島の過去、広島の今。…舞台上では「島」と名のる白いスーツの男が自己紹介をはじめる。「秋田出身で軍医だった祖父は原爆投下後の広島に足を踏み入れた…」と言い、「広島」は原爆の投下で「広さ」を失い「島」になったのだ、と宣言する。ローベルト・ムージルの記念碑をめぐるテクストを読みあげる。「ただちに降伏しなければそのときは原爆の雨が怒りのうちにますます激しくなるであろう」という林京子『祭りの場』冒頭に出てくる降伏勧告書の一文を読みあげ、「これが神の怒りというなら私たちは一体何をしたというのだ」と激昂する。やがて手漕ぎの舟に乗ってやってきた男たちが彼を取り押さえ、水を溜めた盥の中に顔を押さえ込む…。※うろ覚えなのでシーンの順序もセリフも正確ではない。

  『PARK CITY』は、2007年の松田の演劇作品、『声紋都市(Voiceprints City)』と対になっている。松田はマレビトの会ニューズレターmarebito01の川村健一郎(立命館大学映像学部教員)との対談で、ヨブを例に出してこう語っている。「日本には侵略戦争の責任があるということはみんな言いますよね。(中略)国がやったのだからということで、安易に有罪宣告を受け入れる前に、確かに有罪かもしれないけれども、有罪・無罪の尺度はどこからきているのかをもう少し見極めたい。『ヨブ記』でも、ヨブの友人たちは「こんな痛い思いをするくらいなら、ちょっと何かしたといってしまったら」みたいなことをいうんですよ。「君は有罪だったんだよ、それを認めようよ」と。でも、ヨブは安易に認めないんですよね。覚えはないということを貫き通す。安易に認めずに、しかし自分が有罪であるかどうか迷い続ける」。有罪意識の共有をめぐる問いは今回の『PARK CITY』にも受け継がれていると言っていいだろう。
 『声紋都市』では、松田が故郷・長崎に暮らす父親にインタビューをした映像が、中央のスクリーンに映し出される。スクリーンの前には「坂」を模した斜面が設けられ、役者たちはその上をずるずると滑り落ちていく。長崎は松田の生まれ故郷であり、斜面は街が山の中腹にまで広がった傾斜の多い長崎の地理的特徴を表している。 『声紋都市』は、松田の「私性」がベースとなって作られているが、marebito01の対談で松田は、その「私」が「俳優たちや舞台空間、その上演によって横領されていくと「作者の主体」が浮遊していくのではないか、ずれていくのではないかということを目論んでいるんです」と述べている。
 今回のテーマである広島は、松田にとって私的な記憶が介在しない都市である。そのため笹岡の身体を「私性」の座に置くのだが、笹岡は広島にまつわる私的な記憶をいっさい語らない。スクリーンに映し出す写真にその私性が潜んでいるのかもしれないが、笹岡はひたすら黙ったままスライドプロジェクターを操作し続ける。「作者=松田」の広島との関係における「主体」は、「島」や「ひたすら起こっていることを書き写す男」に「移って/映って」いるのだろうが、スクリーンの写真や写真を次々に「移して」いく笹岡の身体的時間と交錯しつつも融けあうことはない。
 松田は地元ケーブルテレビのインタビューで「展示」と「上演」を対比させ、今回の演劇は「上演」したというより「展示」してみせたのだという。それは笹岡恵子の展示行為、スライドショーの行為そのものを展示する、という二重構造をなしている。観客を3階席という、遠くから俯瞰する位置に固定させたのは、観客が舞台に近いところで真正面に見ることによって「移ってしまう」何かーそれは観客が望んでいることでもあるーをあえて避けるためなのか。その距離は松田の広島との間の距離なのか、多くの観客と広島との距離なのか。

 長崎が、原爆以外に出島を通じた外国との幅広い交流や隠れキリシタン、あるいは坂が多いということも含めて多彩なイメージをもつのに対し、広島は原爆以外にあまり強いイメージをそなえていない。せいぜい広島カープの本拠地とか、隣の市に属する宮島の紅葉くらいのものだろう。
 中国・四国地方で最大の都市である広島市は毛利輝元の城下町で、1888(明治21)年の市制施行時は福岡市より人口が多く、神戸より西で最大の都市だった。また、第5師団司令部が置かれて以来、陸軍の重要な施設が数多く建ち並び、日清戦争時には臨時的に大本営が置かれるほどの軍都だった。(したがって広島に原爆が投下されたのは、何も米軍の恣意的な選択によるものではない)。しかし、世界で初めて核兵器が使用されたことで、広島はその他のイメージ、その他の意味を全て剥奪されてしまったかのように見える。
 広島市の戦後復興は1949年8月6日公布の広島平和記念都市建設法に始まった。この法律に基づいて平和公園を中心とする具体的な都市計画が立てられたが、その際の設計コンペで一等入選したのが、丹下健三による構想図面だった。 平和公園の内外に建ち並ぶ記念施設の多くは彼の設計したものだ。
 丹下健三といえば、赤坂プリンスホテル新館、東京都庁舎、フジテレビ本社屋、新宿パークタワー等々、東京の主だったランドマークを手がけた日本の戦後建築の第一人者である。それこそ上昇志向の超高層大型建築ばかりだが、彼を最初に有名にしたのは、戦中の1942年に日本建築学会がおこなったコンペ『大東亜建設記念営造計画』で一等と受賞したデザインで、「忠霊神域計画」と名づけられたそれは、平面構成を基調として「一すじの縄で囲むことにより」聖域をつくることをめざしていた。丹下は当時書いた計画の主旨で、エジプトのピラミッドに始まり、中世のゴシック教会に象徴されるような「ひたすら上昇せんとする」欧米建築の上昇性を批判していた。丹下が手がけた広島平和記念資料館は、彼の当時の思想を反映したものだと言えるだろう。大空襲を受けた(がために被害の測定が困難とされて原爆投下を免れた)東京は、高度経済成長を経て勢いよく上昇する垂直性を獲得し、かたや原爆で灰燼と化した広島は対照的に現在も平面性を特徴とした公園都市であり続けている。
 丹下が広島を第2の故郷と呼び、平和公園に並々ならぬ熱意を注いだのは、彼が旧制広島高校(現広島大学)の出身で、同校の図書室で読んだル・コルビュジエの著書に強く惹かれて建築家を志したという背景と深く関わっている。今年は広島平和記念都市建設法制定60周年で、平和記念資料館では7月18日から8月9日にかけて丹下の平和記念施設の設計案や関係する文書、写真等を展示している。



 広島をPark Cityと呼ぶならば、とうぜんこの平和記念公園が中心になると予想するだろう。しかし、笹岡の写真はとりたてて丹下の建造物を強く意識していない。笹岡も松田も、死者の追悼のためにある「強い意味の込められた」空間より、むしろかつて原爆スラムのあった広大な空き地やその向こうの基町高層アパートに注目し、言葉にならない行き場のない空間を表わそうと試みる。それは丹下に代表される戦後日本人の価値観の移り変わりから零れ落ちた個々の「記憶」を掬い上げようとする試みなのだろうか。

 演劇と写真、というと、ロラン・バルトの『明るい部屋』の一文を思い出す人もいるだろう。
「「写真」が芸術に近づくのは、「絵画」を通してではない(と、私には思われる)。それは「演劇」を通してなのである。「写真」の起源には、必ずニエプスとダゲールが登場する(が、ダゲールがニエブスの地位をいわば横領してしまったのである)。ところで、ダゲールは、ニエプスの発明を横取りしたとき、シャトー広場(レビュブリック街)で、光の動きと戯れを利用した生きたパノラマ劇場〔ジオラマ館〕を開いていた。要するにカメラ・オブスクラは、透視画と「写真」と「ジオラマ」を三つとも生み出したわけであるが、この三つはいずれも舞台芸術なのである。しかし「写真」は、そのなかでもっとも「演劇」に近い、と私には思われるが、それは両者が「死」という特異な仲立ちによって結ばれているからである(このような見方は、おそらく私だけのものであろう)。
 松田の舞台もまた、無数の死者たちによって、写真と結びついている。それは25万人を超えると言われる広島原爆の犠牲者の数という統計的な意味ではなく、原爆に関わりがあるなしに関係なく広島で亡くなった個々の死者たちである。
 バルトは『明るい部屋』の序章で、なぜ個々の対象を扱う新しい科学がないのか。なぜ普遍学Mathesis universalisならぬMathesis singularisがないのか?と問いかけている。写真の本質が私性にあるのかどうかはともかく、普遍化から零れ落ちる《個別的なもの》へと注意を向けるように促している。

 広島は一枚の写真である。激しい閃光の直後、死の瞬間が大地に焼きついた一枚の写真。それはなにも「人影の石」を例に取るまでもないことだろう。
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