【 ニクラウス・マヌエル『アララト山の1万殉教聖人』とベルン 】
第2回はベルンだ。ベルンはこちらでも述べたようにスイスの情緒ある古都で、ユネスコ世界遺産にも指定されている。
奇しくも第1回のウルムと同様、アインシュタインが若い頃住んでいた街の一つだが、別にアインシュタインの足跡を辿るわ
けではない。
ベルン美術館にはアウトサイダーアートの巨頭、アドルフ・ヴェルフリの作品のほか、パウル・クレーの大コレクション
やフェルディナンド・ホードラーの絵画が目白押しなのだが、もうひとり知名度は低いもののスイス・ルネサンス期の絵画
を代表するニクラウス・マヌエル(またはマニュエル)・ドイッチュの作品が数多く展示されている。
ニクラウス・マヌエルの名前を知っている人は、ひょっとすると澁澤龍彦の愛読者ではあるまいか。『滞欧日記』では、
ニクラウス・マニュエルの作品を見るのが目的でベルンに足を運んでいるし、題名は失念したが何かの本で『アララト山の1
万殉教聖人』を紹介していたはずだ。

ニクラウス・マヌエル(Niklaus Manuel;1484-1530)はイタリア移民の薬剤師、エマニュエル・アルマン(Emanuel
Alleman)の息子としてベルンに生まれた。ドイッチュという姓は父親の姓アレマンのドイツ語読みに由来している。
独学で絵を学び、ステンドグラスのデザインも手がけたが、専業の画家ではない。フランスの傭兵としてロンバルディで
戦った経験もあり、その後、地方参事官としてプロテスタント改革に捧げた人でもあり、風刺詩や教皇批判劇を書いている
。メディチ家出身のレオ10世が教皇となったのが1513年、ルターが95か条の意見書を発表したのが1517年、ツヴィンクリが
チューリッヒでローマ教会と絶縁したのが1518年、という時代の最中で活躍した人だ。
その彼が描いたのが『アララト山の1万殉教聖人』だ。写真は一部分だけだが、実際の絵画は戦場で多くの流血シーンを目の当たりにし
たはずの彼に相応しい大量殺戮のパノラマである。
平凡社の世界大百科事典の千足伸行が担当したマヌエルの項によると、代表的な作品の一つである『パリスの審判』では
腹のせり出した女神たちのプロポーションは古典的というよりはゴシック風で、クラーナハの裸婦とのつながりを思わせ、
人物の着衣やアクセサリー、髪型などに見られる凝った装飾性はマニエリスムに通じる、そうだ。全身から垂れる血の筋は
いかにも凄惨なゴシック風だがルネサンス的な明るいリアリズムも感じられる。足元の草を丁寧に描いている点は、アルト
ドルファーやクラーナに代表されるドナウ派の影響だろうか。
『アララト山の1万殉教聖人』は血なまぐさい絵を描くのが好きなヨーロッパの画家に好まれた画題で、各地で目にするこ
とが多い。アララト山は現在のトルコ東端にある標高5000メートル級の山でノアの箱舟がたどり着いた伝説で知られるが、1
万殉教聖人はノアとは関係がなく、アカキウス率いる1万人のキリスト教徒軍がペルシア王サポルによって磔刑もしくは串刺
しにされた話だ。ところが実のところ正式に列聖されているわけではなく、マウリティウスのテバイ軍の殉教物語からの借
用なのだそうだ。マウリティウス(英語名だとモーリス)の話なら日本語訳で出ている『黄金伝説』の第3巻に載っている。
この主題を描いている画家としては、有名なところではイタリア料理のカルパッチョにその名を残すベネツィア派のヴィ
ットーレ・カルパッチョ(1460?-1525/6)やドイツのアルブレヒト・デューラー(1471-1528)が挙げられる。ほぼ同世代と
いうことから考えて、この時代に流行したテーマなのだろう。理由は定かではないが、もしかするとカトリックとプロテス
タントの争いが激化して、殉教者とみなされることもなく何万人ものキリスト教信者の血が流れたことと関係しているかも
しれない。
さて、ベルン旧市街だが、いきなり駅前で以下のようなマネキンを飾るSMアタイアの店を発見した。背景に写った中華料理
屋の「帝国」の文字との組み合わせがなんとも粋だ。まるでリリアーナ・カヴァーニの映画『愛の嵐』のようではないか。
フランス語圏とは違ってドイツ語圏のダウンタウンにはこうしたSMアタイアの店が多い。同じヨーロッパといってもロマ
ンス語を採用したフランスと古いゲルマン文化を頑なに守ったドイツ語圏では、何か深い文化的な違いがあるように思えて
ならない。フランス人を形成したフランク族もゲルマン諸族のひとつだが、「血と大地」を重んじるゲルマン文化は、ナチ
スドイツを生み出したこともあって、特に濃厚な「嗜虐性」を嗅ぎ取ってしまう。まあ、フランスだってジル・ド・レェの
伝説やサディズムの語源となったマルキ・ド・サドなど嗜虐文化は豊かだから一概には言えないが。
ベルン旧市街といえば16世紀につくられた11個の噴水が有名で、なかには右の写真のような食人鬼の噴水
(Kindlifresserbrunnen)というのもある。子供たちが堀に落ちないよう注意を促すために作られたというが、果たして本
当にそうなのだろうか。日本では到底考えられない生々しい嗜虐表現である。
旧市街のセンター街をなすマルクトガッセを東に行くと時計塔がある。(写真は東側から撮影したもの)
時計塔を越えるとクラムガッセと名前が変わり、右手に大聖堂の塔が見えてくる。(写真は大聖堂の南を流れるアーレ川
の対岸から撮影)。
一般に大聖堂と呼ばれているが実は参事会教会で、1421年に建設が始まり1573年に完成したものだ。100mの塔はウルムに
ある聖堂の塔よりは低いが、スイスで最も高く、1893年に完成した。訪れたときは改修中で登られなかったが、塔の上は展
望回廊になっていて、赤褐色の屋根に覆われた旧市街の趣きある家々が鳥瞰でき、遥か遠方にベルナー・オーバーラントの
山並が見渡せるという。
この聖堂の正面入り口には、エルハルト・キュングが制作した「最後の審判」のタンパンがある。1495年頃に作られたそ
うだから、参事会に所属したニクラウス・マヌエルも毎日のように目にしたに違いない。
中央には写真のように剣をもった天使ミカエルが立ち、後方には神に選ばれた者たちと地獄に落ちる者たちを迫真的に表
現した小像がひしめいている。写真に写っているのは一部であり、小像の数は全部で234あるという。
「最後の審判」は聖堂のタンパンによく採用される図像だが、これは世界が終焉を迎えるときに救世主が現れ、全ての死者
を蘇らせて、永遠の生を許される者と地獄に墜ちる者とに分別すべく審判する、という思想である。元来はゾロアスター教
の教義に由来し、ユダヤ教を経てキリスト教に導入されたというが、白黒をはっきりつけたがる2項対立への強迫観念は、ヨ
ーロッパ文化の嗜虐性に深く結びついているような気がしてならない。
- [2007/01/25]
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