広島市現代美術館(2)~「解剖と変容」展 

広島市現代美術館
 今回の特別展は「解剖と変容」というタイトルで、チェコの二人のアール・ブリュット作家、ルボシュ・プルニーとアンナ・ゼマーンコヴァを取り上げたもので、フランスの非営利団体abcd(art brut connaissance & diffusion―アール・ブリュットの理解と普及) が2009年にフランス国内で開催したAnatomia Metamophosis(解剖学的変容)展がベースになっている。
 ゼマーンコヴァの名は国内でも以前から少しは紹介されているので、アール・ブリュット/アウトサイダー・アートに関心のある人はご存知かもしれないが、ルボシュ・プルニーの名前を聞くのは私自身初めてである。が、得体の知れぬ異星の植物を描くゼマーンコヴァーも悪くないが、私は今回、特にプルニーの作品群に強く惹かれた。

 プルニーの作品の多くは、人体や動物の解剖図のようなものから成っている。唇を添えた口腔から食道を経て単純化された胃腸を通る管が肛門からデフォルメされた手首となりその指や指の間に人の顔が描かれたり、どこからか切り取ってきた解剖写真を貼って、その周囲に血管や神経を想わせる錯綜した管をびっしりと描いたり。それは戦争で負傷して半身不随になった詩人ジョー・ブスケが『幼年の不幸』で描写した、臓器が裏返って外在化したようなドローイングである。
 そういえば小学生の頃、迷路が流行したことがある。迷路といっても立体迷路のことではなく鉛筆で迷路を描いてお互いに解きあうというものだが、他人のつくった迷路を解くことより迷路を描くほうが面白く、大小多数の四角や三角をベースにした角ばった迷路や円形や楕円を積み重ねた乱層雲のような迷路などさまざまな迷路の落書きに夢中になったものだ。プルニーの「羊腸のごとく」入り組んだ管には、そんな子どもの頃の記憶を誘い出す効果がある。

 ルボシュ・プルニーは1961年、チェコのチェスカー・リーパに生まれた。幼少時代から死んだ動物の解剖を好み、成人してからも検死解剖に立ち会い、墓掘り人の資格まで取得していたという。軍隊に入隊していた時に精神科医院に送られ単純型統合失調症と診断される。軍務を終えるとチェコ鉄道の電気技師として6年間働き、プラハに移転してからはデパートの清掃人や古書店の店員、展示場の監視員、ブリキの兵隊の彩色職人など職を転々とした。
 その後、美術アカデミーでモデルを務めたが、「アカデミック・モデル」という架空の肩書を得ようといて、ロダンの《考える人》や《ディスコボロス》など美術史上の有名な作品の登場人物のポーズを自ら模倣して撮影した写真をいくつも貯めていたという。そればかりかヴィト・アコンチやボブ・フラナガンのような自傷的なボディ・アートもおこなっており、自分のまぶたや頬や唇や肘などに針と糸を通して縫合する写真が展示されていた。

 また、《父》と《母》(2009)では、中央に配置したシャーレに両親の遺灰を入れ、その周りに彼らの誕生日から死亡日まで生きた日数を1,2,3,4,5……28564などと細かい文字でびっしりと螺旋状に記していく。多くの彼の作品には制作を開始した日と完成した日の年月日が記載されているのだが、日数への偏執はときに過剰となる。たとえば《臍の雑誌第2号》という二連画では2005年1月1日から同年12月31日まで毎日臍のごまを採取してカレンダーの桝目に貼りつけ、日々何時から何時まで何を着てどこで誰と何を食べたかなどを、文字高3ミリくらいの細かい字でびっしりと記載する。35年間その日に食べた食事の写真を撮り続けてIGノーベル賞を受賞したドクター中松にも感心したが、それとは少し異なる意味でこのアール・ブリュットならではの極度の強迫観念に戦慄を覚える。通常ならばこんなことずっとやってて意味あるんだろうか、と「意味」という幻想を盾に投げ出してしまいそうなことにずっと固執する試みは、彼我の隔絶した差異を想像して身震いする。

 展示会では特設シアターで、abcdのブリュノ・ドゥシャルムが制作した長編ドキュメンタリー映画「天空の赤」が上映されていた。内容はアール・ブリュットの歴史をわかりやすく伝えるものだが、ダダ風のコラージュでデュビュッフェとアンドレ・ブルトンの確執を戯画化したり、さまざまな関係者やアーティストのインタビューを交えたりして興味深い。有名なヘンリー・ダーガーだけでなくジョージ・ワイドナーや松本国三、パーヴィス・ヤング、アレクサンドル・パヴロヴィッチ・ロバノフ、ズデニェク・コシェックといった、デュビュッフェの発見以降の新しい作家も紹介している。なかでも気に入ったのはジョージ・ワイドナー。サヴァン症候群なのだろうか、驚異的な記憶力と計算力をもち、過去にさかのぼって日曜日に起きた航空機の墜落事故の1行情報を、時代順ではなく日付順に並べる作品などが目を引いた。
 また、登場人物の一人が言う「アール・ブリュットには構想がない」という言葉が私がずっとアール・ブリュットについて思ってきたことと一致していて強く印象に残った。プルニーとアンナ・ゼマーンコヴァーの場合、果たして厳密な意味で「構想」が皆無かというと疑問が残るが、いずれにせよ現代の美術家がふつう考える「企図」や「戦略」がないのが、アール・ブリュットの魅力であることは確かである。

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