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王兵『三姉妹~雲南の子』 

 YCAMで王兵(ワン・ビン)監督の映画『三姉妹~雲南の子』を観る。

 映っているのは、中国雲南省の高地に取り残された寒村。雲南省は中国南西部に位置し、温暖で緑豊かなイメージがあるが、海抜3000メートルを超える高地では山々に樹木はない。荒涼とした台地に吹きすさぶ寒風の地鳴りめいたドローンが、村の孤絶を伝えている。

 大きな豚が群れをなしてうごめく。土壁の家々の屋根にはぺんぺん草が生え、その上を薄霧がたち込める景色は、ドイツロマン派のC.D.フリードリッヒの絵画を想起させる。

 三姉妹は長女が10歳の英英(インイン)、次女が珍珍(チェンチェン)6歳、三女が粉粉(フェンフェン)4歳。母親はかなり前に家出し、父親は出稼ぎでたまに帰ってくるだけ。祖父や親類の助けはあるが、ほとんど長女の英英が母親代わりになって、妹たちの世話をしている。



 土壁の家屋のなかは、土間になっている。窓ガラスなどない。囲炉裏にせよ調度品や道具にせよ、およそ前近代的なものばかりで古色を帯びている。近代的な人工物といえば、姉妹の着古した衣服や薄汚れた運動靴などわずかばかり。それらは出稼ぎの父親が遥か遠方の「近代中国」で労働と引き換えに手に入れたものだ。薄汚れた布団は湿り気を帯び、少女たちの髪の毛や皮膚はシラミに蝕まれている。

 電気は来ているが、供給が不安定なのだろうか、あまり使われていない。そもそも家電製品はほとんどない。エアコンや電子レンジどころか洗濯機や冷蔵庫もない。照明は裸電球で屋内は暗く、わずかに映るテレビの映像と音声は、ほかの惑星から届いた電波のようで、屋内の空間から乖離している。

 長女の英英(インイン)は働き者だ。朝から家畜の世話や畑仕事、家事に追われて遊ぶ暇もない。近所の子どもと喧嘩しても、かばってくれる母親はいない。夜は暗い照明のもとで勉強している。

 高地の村では水は貴重品だ。じゃがいもの泥を落とすのは流し水だが、食器洗いも体を洗うのも、小さな桶に溜めたわずかな水でおこなう。不衛生に違いないが、背に腹は代えられない。雪解け水が小川をつくる春を除いては洗濯もままならない。物干し竿などなく、洗った衣類は古い木製の柵などに引っかけて乾かす。食べるときはどんぶりのような食器のみを用い、汁椀や皿はない。その方が洗いものも少なくて済む。

 映画はストーリーらしきものもなく、強い意味づけを喚起することもせず、淡々と三姉妹や村人の暮らしぶりを映していく。映画は演劇とは異なり、撮影者であれ監督であれ、他者がカメラを通じて見た視点で見ることを求める。つまり、観客は「他者の視たもの」をみる。
ハンディカメラで撮影したのだろう、静止を試みてもわずかにぶれる画面からは、撮影者の身体性が伝わってくる。冷徹な客観的な眼でもなく、同情まみれの情緒的過ぎる視線でもない、程よい距離感が保たれる。

 以前にYCAMで『鉄西区』を上映した時は、さすがに9時間を超える映画はキツイと思って断念したが、ちょっと後悔。長大なドキュメンタリー映画作品というと、フレデリック・ワイズマンを想い起こすが、『ミサイル』と『『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』しか観ていないので断言できないものの、映像の丹念な美しさでいうと、王兵に軍配があがるのではないか。人と物の構図といい、光の具合いといい、まさに動く絵画美術だ。

 動物が多い。家畜の豚や山羊、鶏、犬、猫、ロバ。アヒルまでいる。その多くはやがて潰され村人たちの胃袋におさまる。
 ミレーの絵画を思わせる家畜の群れと村人、囲炉裏の炎の明るみを映す子供たちの頬、その表情、咳払い、動物たちのうごめくさま、近代的な壁材・床材では到底あらわせない光の柔らかい質感……それらはじつに「美しい」。しかし、その映像美を可能にした条件の大きなひとつが「貧困」だということが、観客に耽美を許さない。

 行き過ぎた近代化やフラット化する世界に倦んだ人は、単純に「貧困」と決めつけるな、と言うかもしれない。周囲に原発も工場もなく、工業製の食品に頼らぬ自給自足の生活は「理想郷」であると、ロハスな人は思うかもしれない。
 しかし、それは当地で同じ暮らしを5年続けた後に口にした方が良さそうである。

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