浅田彰×中沢新一×東浩紀@ゲンロンカフェ 

 くっつき過ぎてはいけないと思いつつも、オモシロイのでつい視聴してメモしてしまうゲンロンカフェ。ひょっとすると「許可なくまとめブログっぽいもの書きやがって!」とお怒りかもしれないが、ボリュームを抑えるので、貧しい地方住民への「贈与」だと思って寛大な御心でお赦しいただければ^^;。

 ということで、2015年1月17日のゲンロンカフェは、浅田彰×中沢新一×東浩紀。

東:僕は冷戦崩壊から現在までの25年間(それはIT革命の25年間でもある)を、元来ヒッピーイズムとアメリカ的個人主義と技術的楽観主義が合成されたカリフォルニアン・イデオロギーによる"アップデートされた空想的社会主義"の展開として捉えている。それに対するカウンター現象の一つが、今回のシャルリ・エブド事件。

(※カリフォルニアン・イデオロギーについては、個人的に整理したこちら(→ファブラボ考))。

浅田:国家による中央集権でも、バラバラな個人の集合でもない、ソーシャルネットワーキングとしての社会主義ってことね。

中沢:ヨーロッパの移民問題は20年以上前からあったが、フランスは情報管理や監視だけで、パリ郊外で膨張する憎しみの連鎖には対応できずにきた。技術的工学的社会主義と人間の「情動」が完全に離反し、お互いを繋ぐものがなくなっていった。

浅田:冷戦構造の崩壊で、「資本対労働」ではなく、(女性や性的マイノリティ、先住民、障害者等)さまざまなマイノリティの「多文化主義的共存」という話になって、特にフランスはそれを正面に出してきた。しかし、その議論の場から排除された者たちの沈黙の不満が鬱積して、それがいわゆる(たとえばイスラムの)「原理主義」と呼ばれるものとして現れた。ただそれは、宗教とは呼べない代物。

浅田:ピケティの『21世紀の資本』は、累進課税して再分配したら収まるってだけ。承認の問題が残る。90年代以降の「多文化主義的共存」程度の承認じゃダメだったってこと。東:ではどうやって承認すれば? 浅田:勝手に自分で自分を承認できればいい。世の中の人がみんな僕みたいになればいいのに――マイルドなニヒリズム。

中沢:日本でも労資対立の時代から、賃金をあげて健全な中間層の消費者を育成していくフォーディズムの時代になった。池田首相の「所得倍増論」はフォーディズム。日本では80年代から糸井重里やパルコに代表される「消費の時代」となり、ニューアカが登場する。

浅田:もっと広く言うとケインズ主義/修正資本主義。第1次大戦で負けたドイツに大きな課徴金を課したために、ドイツが不安定化してナチズムが登場した。その反省を踏まえて第2次大戦後はアメリカがヨーロッパや日本に大量の贈与を行った。敗者を罰するのでなく贈与する。冷戦が終ったときもそうすべきだったのに、ゴルバチョフが財政支援を要請してもしらんぷりしたために、ロシアが不安定化してプーチンみたいなのが大統領になった。最近のユーロ危機のときもドイツのメルケルが「モラル」に拘らずにそうしておけば、もう少しベターオフだったのに。実はそれができるのはドミニク・ストロス=カーンだったが、モラリティに欠けるケインジアンのならいで?、スキャンダルで失脚した。

中沢:今はすべてを「モラル化」してしまうことが重大な問題になっている。

浅田:モラルとエティックスは違うってことよね。

 鼎談の初めの1時間程度をアウトサイダーなりに関心に従って要約したつもりだが、パパラッチとしてはこれくらいに留めておこう。3人の雑談は哲学・思想的ウンチクが随所に開花するディテールこそが「快」であって、そのあたりも含め、鼎談をまとめる(であろう)『新潮』編集担当者の力量に期待しよう。

 ミシェル・ウエルベックの新刊本Soumissionはちょうどシャルリ・エブド事件発生直後の1月7日に出て、フランスでは大きな話題を呼んだようだ(すでにwikiでは欧州主要各国語のほか、ペルシア語、インドネシア語、中国語で記載がある)。 浅田の解説によると、2022年のフランス大統領選でイスラム政権が樹立する!という話で、実名で登場するマリーヌ・ル・ペン率いる”人民戦線”だけがフランス的価値をイスラムから守ろうとする最大政党となって決選投票に臨むが、他の政党は社会党から保守党までムスリム同胞団と連立を組む方向に進んでいく。主人公はユイスマンスの専門家、全体的には西洋が没落し、中世に回帰する…という話らしい。

 ほかにも、浅田・中沢両人ともヘイトスピーチの法的規制にはかなり懐疑的ということ。岸―安倍とル・ペン父娘の対比、中沢「資本も情報も大きな自然史過程のなかでとらえるべき」。「マイノリティを消す方向でSNSが使われている」件。浅田「アレクセイ・ゲルマンが監督した映画『神々のたそがれ』(原作はストルガツキー兄弟の『神々はつらい』)はイイ」。「浅田さんは美と崇高の人。美と崇高のほかに不気味なものがある。虐げられたものは不気味なもの。いまテロと呼ばれているものは、不気味なものが崇高に移ること。カワイイは不気味なものに近い」、中沢「東君はカワイイ」、浅田「本当はキモカワイイは一掃したいのよ」。「人文知や文学はわれわれの頭の限界を問題にしている。自然に対する制御力があがっても、われわれが人間である以上、問題は反復するので、人文知や文学は永遠になくならない」等々。

 個人的には浅田派か中沢派かといえば本来的に6:4で中沢派だが、さすがに今回は元気な浅田の冴えわたるトークに圧倒された。中沢の場合、著作が多いため、どうしても「どこかで聞いたたことある」観を拭いきれないというハンディキャップがあることも忘れてはいけない。

【追記3/7】 3月7日発売の『新潮』の2015年 4月号に3人の特別鼎談が掲載されています。佐々木敦のゴダールに関するテクスト、多和田葉子の小説も載って、お値段わずか980円!

 文中敬称略。
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コメント

お邪魔します。
文中の、《中沢の場合、著作が多いため、どうしても「どこかで聞いたたことある」観を拭いきれないというハンディキャップがある》。これは両者を端的に説明しますね。
浅田氏が書かない理由は、おそらく最初の着想を超えるものが書かれえないだろうという賢者?の自覚だと思いますが、話せばいくらでも話せるわけで、ちょっと作曲はしないジャズメンを思わせますね。チャーリーパーカーのように、他人の書いた曲を借りてきて延々といくらでも吹くことができ(録音されたものは短いですが)、結果として換骨奪回してしまってるという。

コメントありがとうございます。浅田氏も言ってたように、中沢さんはお心地よくだましてくれる「作家」。かたや浅田さんは切れ味鋭いインプロヴァイザーということでしょうね。

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