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山口市営Pの沸騰 

 不思議なパフォーマンス・イベントに関わった。YCAMの長期ワークショップ、meet the artist2008の成果発表「山口市営P」である。
 PortB高山明氏の構成・演出によるパフォーマンスなのだが、一般的に「パフォーマンス」という名称から想像できるものとはかなりかけ離れたものだった。演劇的なるものへの関心は野田秀樹あたりで終わっている私にとっては、PortBがこれまでおこなってきた公演の様子も、5月にあったワークショップのオリエンテーションも、最初はいったい何が面白いのだろう?と戸惑うばかりだった。なのに参加した理由は、分かりにくいものにこそ惹かれるという昔の性分がここにきて長い眠りから目覚めたせいなのだろうか。

 YCAMや秋吉台国際芸術村を通してアートの最新動向に触れていると、いかに自分がジャンル分けやカテゴリーを手がかりにアートに接していたことを思い知らされる。絵画、彫刻、インスターレーション、メディアアート、サウンドアート、アウトサイダー・アート、パフォーマンス…。言葉によるカテゴライズは理解の入り口としては致し方ないが、それが考えることの深い部分にまで滲みこんでしまうと大切なものを見失ってしまうことになる。

 「山口市営P」はジャンルという、思考の吝嗇家が分かったふりをするための整理手段をあざ笑い、演劇やパフォーマンスにつきまとう、「観客とパフォーマー」や「見ることと見られること」の固定的な関係を揺さぶる(とまあ、コラボレーターという立場ながら、いわば「中の人」である者が言ってのけるのは気が引けてしまうものの…)。
 そもそも観客、というか参加者は、舞台を前にして観客席に固定されるのでなく、見知らぬ人と3人組になって、路線図とダイヤグラムと指示書をたよりに歩き、Pの謎を解明すべく能動的に「イメージ」を求めていくことになる。昔からあるアーケード街を時間通りに歩いて空き店舗のシャッターの覗き穴をこっそり覗く。そこには遠近法の歪んだ薄暗いカフェがあるだけなのだが、店内の人はただちに自分の存在に気づいたかのように手を振ってくる。それというのも、その「ピーピング行為」は後方に仕掛けられたビデオカメラで撮影されており、店内の者からは覗いている姿が丸見えなのだ。(参加者は終点であるカフェの中に入って初めて気づくことになる)。別の覗き穴を覗くと、今度は覗いている自分の目が大きく引き伸ばされて宙に蠢くのが見える。見る者は同時に見られる者であり、それは見るという行為の主体の座を揺るがし、あるいは裸にする。とはいっても、決して観念的な遊びに淫じているわけではない。消失点に向って猛スピードで遠ざかるアーケード店舗の様子やリュミエール兄弟の初期映画を模した映像は見ているだけでも楽しいし、ほかにも物語喚起やイマジネーションを駆動させるさまざまな仕掛けが設けられている。たとえば、おもむろに現れる怪しいガイドに誘われてタバコ店の奥に入ると、やがて暗闇が訪れてアーケード内に店をもつ人びとの声の切れ端に包まれる。アーケードが景観にもたらした影響や日米自動車摩擦と大店法、郊外型ショッピングモールにまつわる「因果話」など、アーケード商店街は多彩なイメージと言葉によって描出される。タクシーに乗り込んで運転手とおしゃべりをしながら、廃墟めいた巨大な駐車場をぐるぐるとらせん状にのぼっていったかと思うと、今度は糸をたどって路地を進んでアーケード街にもどり、和風スナックで待つガイドがふるまう汁粉をすすることになる。さらには和風スナックの奥の出口を通って屋上にあがり、アーケードの屋根の上を歩きさえする。たとえ雨や雪に見舞われたとしても…。
 舞台ではなく商店街でおこなわれる「パフォーマンス」だけに、ときには本当のハプニングに出くわすこともある。新興宗教の勧誘を演出だと思って途中までついていった参加者もいたそうだ。何が演出で何が演出でないか疑心暗鬼のまま、参加者はダイヤグラムに従って最終地点まで進み続けることになる。
 市営PのPとは何だろう。それは駐車場のPであり、パフォーマンスのPであり、アーケード(=パサージュ)のPであろう。あるいは参加者がダイヤグラムで行動を規定され、どこかで常に監視されているのかもしれないと意識するという意味で、プリズンのPやパノプティコンのPを連想させるかもしれない(ミシェル・フーコーの鍵概念のひとつに「ダイヤグラム」という言葉があったことを思い出す人もいるだろう)。いずれにせよ、解釈の創出は参加者の側に委ねられている。

 完成までのプロセスに関わった者としては、ブログに書くのもはばかられるような事態もあって、当初あった構想のいくつかはあぶくのように膨張しては消え失せ、公演開始の前々日まで完成形がどうなるか分からないというスリリングな経験をさせてもらった。あえてそうしたリスキーなスクラップ&ビルトを繰りかえす高山氏の手法にいろんな意味で「戸惑いを覚えた」のも事実だ。それは観客(参加者)がパフォーマンスに覚えたであろう当惑とはまた異なる意味での当惑で、この体験は真の未知なるもの――既知なるものとは隔絶される怪物めいた「差異」として、私の脳裏に新たに刻まれたことだけは確かである。

 

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