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映画『魅惑』ほか 

 福岡シネラのイラン映画特集でアリ・ハタミ監督の『魅惑』(1992/91分)をみる。以下、ネタバレ含む。

 時代背景は1910年代初頭。ガージャール朝(→wiki)のアフマド・シャーは文化をこよなく愛する好人物で、ヨーロッパから自転車やテニスを導入するとともに、自国の音楽文化に誇りを抱いていた。宮廷に出入りするフランス人のムシオは信用ならない宮廷商人だが、シャーは彼の進言を聞き入れ、イランの伝統的な音楽をレコード化することに賛同する。

 当時のイランに録音スタジオはない。元軍人で弦楽器タールの名手であるデルナバスは、パリでレコード制作するべく、優れたミュージシャンを集めてまわる。歌手は内科医のタヘル、カマンチュ(バイオリンに似た弦楽器)は駐フランス大使の親戚ナセル、サントゥール(打弦楽器)は軍楽隊の指揮者ホスロ、そしてタンブール(打楽器)は、一人だけ階級の低いコックのファラジュ。イラン楽器については私家版楽器事典 中東/アラブ/ペルシャの楽器が参考になる。

 当時はもちろん飛行機などなかった。音楽家たちは愛する家族に別れを告げてパリへの長旅にでる。パリにはトルコ宮廷出身の美女がいて、歌手のタヘルは一瞬にして恋に陥る…。

 1992年製作だが、詩歌のようなセリフといい、絢爛な室内装飾といい、ヴィスコンティめいた古典的な風合いの映画だ。美しいパティオやイスラム庭園、ミュンヒェンのレジデンツを想わせる豪華な装飾、オートマタ、ペルシア細密画……。
 デルナバスの荷物にひそんでいた宮廷侏儒が登場して曲芸を披露し、パラジャーノフ風のシュルレアルな幻想シーンを招く。すると、委縮していたファラジュが覚醒して、見事なタンブールの早打ちを聴かせる。

 パリの街角をあらわすためにいくつかのキリスト教バロック彫刻を映し、その上にイランの音楽をかぶせるところは、ウェルベックの『服従』ではないが、イスラム教に席巻されるヨーロッパの未来を暗示するようで不穏な何かを感じさせる。監督の意図ではないにせよ。

 パリではレコード録音のほかコンサートライブもおこなう。しかし、主催者から「歌はいらない」と言われ、タヘルはメンバーから外され、トルコ美女とのかなわぬ恋に身を焦がす。タヘルの燃える思いをあらわす歌の数々が素晴らしい。「この身はウグイスなれど 花が咲いてるときに歌えない」「私の心は小鳥のように貴方の髪のなかで眠る」という古典的な歌詞の曲もあるが、「みんな魅力的な恋人を求めてる♪」とか「欲しいのはただ一つ、愛だけ♪」といったラテンや日本の(昔の)歌謡曲みたいな木っ端恥ずかしい歌詞の曲もある。

 絵画で描かれる最後のシーンは、帰国の途についた楽団が、第一次大戦の勃発で大量のレコードを海に流してしまうことを示している。

 この映画は記録と記憶をめぐる音楽と人の哀切な宿命を表している。エリック・ドルフィーの遺作『LAST DATE』に残された言葉と同様に。

 監督のアリ・ハタミは有名な女優のレイラ・ハタミの父親。レイラはこの映画にも出演している。トルコ宮廷出身の美女がレイラ?


 もう一本は、アズイゾラー・ハミド=ネジャド監督の『戦火の中へ』(1992)。イラン=イラク戦争を描いた映画。中東の戦争というと砂漠や岩漠が舞台というイメージが強いが、これはイラン南西部の湿地帯が舞台。YAMAHAの発動機を積載したボートを使っての銃撃戦は緊迫感が伝わってくる。

 『ソング・オブ・ラホール』に引き続き、またもや昔の旅の記憶を掻き立てる映画を見てしまった。年寄は過去を振り返ってばかりでイカンが、やはり戦時中に横断したこともあって、イランは特に印象に残っている。
 これを機会に、古い本だが『イランを知るための65章』やWIKIで、イランの近代史を振り返ってみる。本書38章(近藤信彰)によると、諸王朝のなかでガージャール朝ほど評判のワルイ王朝はないらしい。グレート・ゲーム(→wiki)を繰り広げる英露の宮廷への介入に翻弄され、政治的腐敗がはびこり、鉄道や鉱山などの利権をヨーロッパ人に売り飛ばした。(イギリスのアングロ・イラニアン石油会社がイランに進出してきたのもこの時代(1908年)だ)。苦しんだ国民の間でナショナリズムや近代的改革思想が広がり、1905年~1911年の立憲革命に結実するが、その過程でガージャール朝は弱体かつ腐敗した政府というイメージを負うようになったという。とはいえ、筆者は現在につながる領土を130年にわたって確保した点を評価している。水タバコやチャイはガージャール朝時代に普及したのだそうだ。
 アフマド・シャー(→wiki)はガージャール朝の最後のシャーとなった。英露協商によりイラン全土は両国の猟場と化して無政府状態となる。レザー・パフラヴィー(→wiki)は1921年に2500の兵でクーデターを起こしてテヘランを奪い、1924年にはガージャール朝の廃止を議会で議決し、翌25年にパフラヴィー朝を創設した。1935年には国号をペルシアからイランにあらため、国家の近代化を推し進めた。第二次世界大戦では中立を宣言したが、政治的態度は枢軸国寄りだったと言われる。1941年にはイギリス/ソ連の連合軍に侵攻を許した(イラン進駐→wiki)。退位したレザーに代わってシャーとなったのが、1978年のイラン革命で失脚するモハンマド・レザー・パフラヴィー(日本ではパーレビ国王と呼ばれた)。以降についてはブログ:アルゴ/パイの物語に書いている。

テヘラン1987
 昔、テヘランで見かけた壁画。イランは当時、イラクだけでなくアメリカ、イギリス、ソ連まで敵に回していた。右はアメリカのレーガン大統領で、左はイラクのサダム・フセイン。当時はまさかアメリカがのちにフセイン政権を打倒することになるとは予想だにしなかった。

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