映画『淵に立つ』 

 YCAMでようやく深田晃司監督の映画『淵に立つ』をみる。

 概要はこちら(→wiki:淵に立つ)。

 冒頭のシーンから入念に設計された映画だということが伝わってくる。
 カメラはオルガンを弾く少女の背中を真正面からとらえる。オルガンの上には無機質に拍子を刻むメトロノーム、デスクライト、袂には赤いランドセル。設計が過ぎる映画は好きでないが、本作は程好い設計で嫌味がない。

 平凡な家庭がとつぜん現れた男によって揺さぶられていく、という前半の筋はありがちだが、ディテールの積み重ねが入念に考えられているのでぐいぐい引き込まれる。人はドラマを見るときもジャズを聴くときも、次の展開を想像しては、その想像が快く裏切られたり、想像通りに進んだりすることを愉しみと感じる。ずっと想像通りだと退屈だし、想像に反してばかりだと疲れる。その兼ね合いの巧さがドラマの魅力となる。その意味で、ドラマを立ち上げるということへの真摯な姿勢と演出の力量が感じられる。
 欠かせないのは、俳優の演じる力。浅野忠信が名優なのはいうまでもないが、鈴岡利雄役の古館寛治、その妻・章江役の筒井真理子も素晴らしい。古館は深田監督と同じく平田オリザ主宰の青年団に所属。筒井は鴻上尚史の第三舞台出身。

 章江がプロテスタントという設定も悪くない。八坂(浅野忠信)から「写経」によって字が上達したと聞いて「私もやってみようかなあ」と言って八坂にたしなめられるところも、「信仰上の決まり」を守ることへの章江の「ゆるさ」をあらわして巧い。「家族」もまた宗教と同様に、「信仰」で成り立っているということだ。その意味で、八坂は「契約=決まり」に厳格な、旧約の神ともいうべき存在だ。



 この日は深田監督のトークショーがあって、少し疑問に感じた点を質問してみた。映画は抽象的なテーマやサブテーマを、登場人物の具体的な行動やセリフに落とし込む作業だが、なかにいくつか具体にまで落としきれてなかった点があるのでは?と思ったからだ。

 例えば、以下のような会話をどう思うだろう。
 (妻)「今日、楽しいことしたの」
 (夫)「そうか、それはいい」
 (妻)「楽しいことするとねえ、気分が明るくなるの」
 (夫)「そうだねえ、気分が明るくなるねえ」
 (妻)「でしょ。あなたもしなさいよ」
 (夫)「よし、僕も明日、楽しいことするよ」

 極端な例だが、リアリティに欠ける会話だと思うだろう。
 八坂と利雄の過去の事件や、八坂の妻の要介護状態について、上の会話ほどではないが、抽象的なまま放置されていたような印象を受けたのだが、こちらの言葉の選択が拙くてうまく監督に伝わらなかったような気がする。すべての事情を説明しないでヴォイドを残す方が良いのはもちろんだが、それはいったん具体に落とし込んでからぼかした方が良かったように思う。

 日本の都市景は、デザイン性や美観に欠ける工業製品に覆われていて、映画的に見栄えがしない。そうしたハンディキャップの下でも、この映画では重要な場面で色彩設計が行き届いている。登場人物の衣装と公園の遊具、血の色を組み合わせるなど。
 久しぶりにパンフまで買いたくなった作品だ。シナリオだけでなく、2006年に書かれたシノプシス第一稿まで載っている。

 根岸憲一(撮影)、吉方淳二(録音・効果)、小野川浩幸(音楽)が、フランスでのポスプロの様子について語っている。サウンドデザイナーのオリヴィエ・ゴワナール(Olivier Goinard)はグザヴィエ・ドランの『トム・アット・ザ・ファーム』のほか、オリヴィエ・アサイヤスやアニエス・ヴァルタ、ブノワ・ジャコ、河瀬直美らの映画でサウンドデザインを手掛けている。

 文中敬称略。

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