『ラ・ラ・ランド』から『LA・ジャズ・ノワール』へ 

『ラ・ラ・ランド』(→ブログ)は回春剤みたいな映画で、高校~大学時代によく聴いたジャズに関する記憶を改訂したくなった。

 LAを含む西海岸のジャズといえば、昔の記憶では「白人が演奏する、エモーションに欠けた薄味のぬるいジャズ」という印象だったが、中山康樹の『LA・ジャズ・ノワール』は、一般的なイメージとは異なるウエストコースト・ジャズに焦点を当てている。

 本書はこれまでジャズの「正史」とされてきた物語が、実証性に欠けていたことをあらためて教えてくれる。ラグタイムはジャズ正史から切り離され、スコット・ジョプリン(→wiki)は「ジャズ創始者」の一人としてカウントされなかった。「ジャズの誕生地はニューオーリンズ」という定説は、前世紀末~21世紀初頭にかけてアメリカで盛り上がった「祖国再発見」ブームにより再考を迫られ、現在では「サンフランシスコ生誕説」を唱えるジャズ史研究家さえいるらしい。
 そして、一般に流布しているウエストコースト・ジャズ(以下、Wジャズ)のイメージもまた、「明らかな偏向と誤解の上に成り立」っている。

 Wジャズの代表と言えば、ジェリー・マリガン、チェット・ベイカー、アート・ペッパー、ショーティ・ロジャーズら白人のイメージが強いが、その陰には白人に匹敵する数の黒人ミュージシャンたちがいる。チャールズ・ミンガスやエリック・ドルフィーは好きなジャズ・ミュージシャンだが、Wジャズのミュージシャンとしてカテゴライズされなかった。とはいえ、ミンガスは生まれて間もなく家族とともにワッツ地区に引っ越して当地で育ったし、ドルフィーはLAに移住してきたパナマ移民の息子だった。若いドルフィーを受け入れたチコ・ハミルトン、そしてオーネット・コールマンやビリー・ヒギンズ、ドルフィーらとともに前衛の時代を駆け抜けたドン・チェリー(tp)も、生誕こそオクラホマだが、幼少期に家族とワッツ地区に移り住み、当地で成長した。

 LAのジャズの中心地は、セントラル・アヴェニュー(現South Central Avenue, 主に11~42丁目)だった。1926年に黒人たちのショーやレビューを上演したリンカーン・センターが完成。ダンバー・ホテルやクラブ・アラバムが開店して盛り上がりを見せた。1937年には、当時ピアニストだったナット・キング・コール(→wiki)が当地に移り住み、ドラムレス・トリオの先駆例となるピアノ、ギター、ベースのトリオを結成。レスター・ヤング(ts)の弟、リー・ヤング(モータウンの副社長や、グラミー賞を主宰するNARASの会長を務めた)と親しかったLA生まれのノーマン・グランツは、リーの提案を受け、LAでJATP(Jazz At The Philharmonic)の第一回目となるジャム・セッションを1944年に開催した。



 スウィング時代のTS奏者として知られるコールマン・ホーキンスは、40年代中期からビバップに関心を抱き、マイルス・デイヴィスやセロニアス・モンク、オスカー・ペティフォード、マックス・ローチらビバップ系の若手ミュージシャンを起用。45年には(マイルスやモンク、ローチは参加していないが)JATPの会場にもなったセントラル・アヴェニューのエルクス・オーディトリアムでコンサートを開いた。その後、実業家ビリー・バーグがハリウッドに開店した「ビリー・バーグズ」のこけら落としにも出演。このグループに参加したハワード・マギー(tp)によるビバップの名演奏により、当店は盛況を呈した。

 チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーがLAにやってきたのも、同じ1945年の12月だった。彼らは翌年2月4日まで「ビリー・バーグズ」に出演し、そのあと「テンポ・ミュージック・ショップ」の経営者ロス・ラッセルが設立した新しいレコード会社(後のダイアルレコード)の依頼で録音を行った。ガレスピー一行はNYに帰ったが、パーカーはなぜかLAに居座り、コールマン・ホーキンスと出演料でもめて袂を分かちLAに留まったハワード・マギーに雇用される形で、開店したばかりの「クラブ・フィナーレ」のステージに立った。
 第2次大戦の終結に沸き返っていたLAは、新しいジャズに熱狂した。セントラル・アベニューの北端部にあたるリトル東京では、強制収容所に送られた日系人に替わって黒人の居住者が急増し、界隈にはジャズ・クラブが密集していた。「クラブ・フィナーレ」はその一つだった。マイルスも自伝で、「フィナーレ」でのパーカーのライブに触れている。チャールズ・ミンガスは毎晩のようにやってきたという。『LA・ジャズ・ノワール』の筆者は、LAジャズ史で最も重要な出来事は、この「フィナーレ」で数か月にわたって行われたジャム・セッションだと記している(p66)。

 本書第7章では、『ラ・ラ・ランド』にも登場したハーモサ・ビーチのJAZZクラブ「ライトハウス」について触れている。 ハワード・ラムゼイ(b)主宰の「ライトハウス・オールスターズ」は、この店名に由来する。当初はテディ・エドワーズ(ts)をはじめとして、多くの黒人ミュージシャンがライブを行っていた。マックス・ローチが長期出演した1953年秋には、マイルスやミンガス、ガレスピー、サラ・ヴォーン、パーカーもステージに立ったという。ところが、スタジオとしてレコード制作がメインになる過程で、「商品」として架空の物語が構築され、「白いウエストコーストジャズ」というブランドイメージが形成されたのだという。

 さらに端折ってメモしておく。イタリック体は私語。

・ボサノバはWジャズとサンバが結びつくことによって生まれた(第8章)。

・ドルフィーは最初、クラシックのピアノ弾きだったが、ハンプトン・ホーズの影響でジャズに興味を移し、ハイスクール時代にミンガスと出会う。チコ・ハミルトンの弟バーニーが学友だったことから、バーニーの紹介でチコ・ハミルトン・バンドに入り、問題作『ゴングズ・イースト!』を残す。

・映画『チャパクア』(→ブログ)にも出演したO・コールマンは、1950年代初頭、エド・ブラックウェルとともにワッツにアパートを借り、昼間はエレベータ係として勤務し、夜はセッションに明け暮れるという日々を送った。あまりに独特のスタイルだったため、多くの共演者から煙たがられたが、ドルフィーやドン・チェリー、チャーリー・ヘイデン、ビリー・ヒギンズ等の支持者に恵まれて頭角を現していく(ドン・チェリーの略史を含め第9章)。

・「白いウエストコースト・ジャズ」と映画産業は、演技性と虚構性において相関関係にあり」。

・「ミュージシャン・ユニオンが統合されるのは1953年だが、その後も白人優位の状況に変わりはなく、むしろ統合されることによって黒人ミュージシャンの劣勢が際立つ面も少なくなかった」。

・「ジャズをサウンドトラックに活用した数々の映画の原点は、アレックス・ノースが手がけた『欲望という名の電車』」。

・(今年2月に亡くなった)デヴィッド・アクセルロッドがダウンビート誌のインタヴューで言った「ウエスト・コースト・ジャズは夢精みたいな音楽だ(wet dream music)」という発言は、ある意味『ラ・ラ・ランド』についても言えるような気がするw。

・元ダンバーホテルがあったセントラル・アヴェニュー42丁目の公園はCentral Avenue Jazz Parkと命名され、毎年ジャズ・フェス(→Central Avenue Jazz Festival)が行われているという。『ラ・ラ・ランド』は、日本の『君の名は。』(→ブログ)と同様に、観光促進映画として大成功し、LA市は『ラ・ラ・ランド』の日まで制定したのだから、これを機会にウエストコースト・ジャズを盛り上げる努力をすべきだろう。今度はW(hite)ジャズだけでなく、忘れられた黒いジャズも含めて(日本語で言っても意味ないがw)。

 文中敬称略。
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