映画『エゴン・シーレ~死と乙女』 

 西京シネクラブで映画『エゴン・シーレ~死と乙女』を観る。

 監督のディーター・ベルナーは、ミヒャエル・ハネケ(→wiki)の長編デビュー作『セブンス・コンチネント』(1989年)で主役を演じた俳優でもある。

 主役のエゴン・シーレを演じるノア・サーベトラはなかなかのイケメンで、そのせいか?観客席には中高年~高齢の女性が多かった。
 マレシ・リーグナー扮する妹のゲルティは典型的な妹キャラで、性的魅力が希薄。シーレのモデルとして裸身を晒し、さらにはシーレがふざけて彼女の身体に跨る場面が出てくるが、キャスティング的にも演出的にも近親相姦をどぎつく想像させない。

 シーレが生まれたのは、ゴッホが没した1890年。駅長だった父親は、シーレが14歳のとき梅毒により狂気に落ちて他界した。史上最年少でウィーン美術アカデミーに入学したシーレは、ヒトラーが2度立て続けて入試試験に落ちた名門の同校を3年で退学し、友人らと「新芸術家集団」を結成する。マリネッティが「未来主義創立宣言」を起草したのと同じ1909年のことだ。
 翌年、20歳になったシーレは後見人と決別し、生活のために妹を含む少女たちをモデルに裸体画を描いて、生活の糧を得る。しかし、妹に対しては、亡父の代わりを演じようと努め、素行には厳しい。絵画に不熱心な友人と交際していると分かると罵倒する。妹は性的放縦な兄の身勝手過ぎる厳しさに苛立ちを隠せない。

 映画は主に妹のゲルティのほか、モデルのモア、恋人のヴァリ、アトリエの向かいに住むハルムス家の姉妹(シーレは妹のエディットと結婚)の目を通して、シーレの短い生涯を描く。
 巨匠クリムトは登場するが、同じオーストリア表現主義の作家として比較されることの多いオスカー・ココシュカ(→wiki)やマックス・オッペンハイマーは登場しない。性と死に蒸せ返る、とイメージされたオーストリア=ハンガリー帝国(→wiki)末期のウィーンの様子や第一次世界大戦にも、軽く触れる程度に抑えている。

 物語の中心に据えられるのは、クリムトに紹介されてモデルとなったヴァリとの関係。サブタイトルの「死と乙女」は、シーレが1915年に制作した絵画のタイトルだ。そこにはシーレと彼にすがりつこうとするヴァリの姿が描かれている。

 シーレは下層階級出身のヴァリより、家柄の良いハルムス家の娘エディットと結婚することを選んだ。彼はヴァリを呼び出し、エディットと結婚した後も、毎年夏にはヴァリと二人きりで過ごそうと提案して、覚え書きをかわそうとする。ヴァリはその申し出を拒絶し、その後ふたりは二度と会うことはなかった。ヴァリは従軍看護婦としてダルマチア戦線に赴き、1917年に猩紅熱で亡くなる。翌1918年、シーレもまた新妻とともにスペイン風邪(→wiki)で他界する。
 650年間に渡って中欧に君臨したハプスブルク家の帝国――オーストリア=ハンガリー帝国――が崩壊するのは、シーレの死と同日だった。



「死と乙女」は、ルネサンス以降のドイツ絵画によく描かれたモチーフで、メメント・モリやヴァニタスのモチーフに関係している。ウィーンの作曲家シューベルトは歌曲のタイトルに用いており、ベルギー象徴派の画家アントワーヌ・ヴィールツ(→wiki)も、『麗しのロジーヌ』でこのモチーフを使っている。

 シーレの作品で死を演じているのはシーレ自身だ。映画では、ヴァリの訃報を聞いたシーレが元の題名「男と乙女(Mann und Meiden)」を本タイトルに変える。

 ヴァリを演じるフェレリエ・ペヒナー(Valerie Pachner)が魅力的で印象に残る。公式サイトによると、彼女はウィーン国立音楽大学所属のマックス・ラインハルト・セミナーを卒業後、ミュンヒェンのレジデンツ劇場に所属。テレンス・マリックの最新作”Radegund”に出演予定という。

 ウィーンは「20世紀精神の母胎である」と言われるが、wiki:オーストリア人一覧に示される通り、ウィーン/オーストリアが各界の人材の宝庫であったことは間違いない。哲学者では、早逝したオットー・ヴァイニンガー(1880-1903)、フッサール(1859-1938)、シュタイナー(1861-1925)、ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)、カルナップ(1891-1970)。経済・経営学分野ではシュンペーターやドラッカー、ハイエクらの名前が並ぶ。科学の世界では量子力学のシュレーディンガー(1887-1961)やパウリ(1900-1958)、エルンスト・マッハ(1838-1916)、ボルツマン(1844-1906)、一般システム理論のベルタランフィ(1901-1972)。精神医学・心理学では、フロイト(1856–1939)やアドラー、ハンス・アスペルガー……。建築・美術ではオットー・ヴァーグナー、アドルフ・ロース、フンデルトヴァッサー、ハンス・ホライン、クリストファー・アレクザンダー。さらには数多くの優れた音楽家たち。映画の世界では、シーレと同年に生まれたフリッツ・ラングのほか、シュトロハイム、スタンバーグ、オットー・プレミンジャー、F.ジンネマン、B.ワイルダー…。これにブログ:映画『サウルの息子』で触れたユダヤ系ハンガリー人を加えると、現在からみた文化的存在感の大きさは眩しいばかりだ。

  こちらでも触れたとおり、ウィーンには会社の出張のついでや個人旅行で、過去3回行ったことがある。レオポルド美術館でいくつかシーレの小品を観たが、作品名までは記憶にない。ヴェルベデーレ宮にも一度寄ったが、彼の絵画は他の美術館に貸し出し中で、見ることはできなかった。

「世界の都市の物語」シリーズ8の森本哲郎(→wiki)による『ウィーン』は、かつてウィーンへの関心を喚起した本の一つだ。個人的な記憶を交えながら、ウィーンで暮らして何人かの哲学者やアーティストの生涯を紹介している。
 本書によると、マッハの後継者としてウィーン大学で物理学だけでなく哲学の講義も受け持ったボルツマンは、ヘーゲルやショーペンハウアを罵倒し、彼らの哲学は、正しい問いへの反省がなく、問題の立て方に問題があり、言葉遣いが不適切であるため、不毛な思弁に終わっていると強く批判した。彼と同じくウィーン学団のメンバーだったハンス・ライヘンバッハ(→wiki)も、言葉を科学的言語と絵画的言語に分け、非科学的言語を科学的思考に持ち込む哲学者を非難した。
 しかし、と著者は言う。「あくまでも厳密であろうとし、科学的であろうとする方向は、とうぜんのことながら、みずからの領域を狭めることになった。哲学は最早、人生の意味や道徳の規範や美の原理を探求するという目的を放棄して、もっぱら思考の論理だけを検証することにみずからの役割を限定せざるを得なくなったからである。そこにウィーン学団の、あるいは科学哲学者の"悲劇"があった、とも言える」。そして、ボルツマンの不条理にみえる自殺に、その悲劇を読み取っている。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://travis7.blog54.fc2.com/tb.php/759-07558eea