ルネ・ドーマルと〈グラン・ジュ〉 

 ランス美術館展(→ブログ)で〈グラン・ジュ(大いなる賭け)〉"に参加したヨーゼフ・シマ(Josef Sima 1891-1971)の絵画に出逢ったので、数年前に出た『大いなる酒宴』(風濤社2013)の解説をもとにルネ・ドーマル(Rene Daumal)と〈グラン・ジュ〉についてまとめておく。

 風濤社によるシュルレアリスムの本棚は、豊饒なシュルレアリスム運動の所産から日本ではあまり知られてこなかった周辺域の実験的表現を紹介する活動をおこなっているようだ。

 本書には約100ページに及ぶ解説がついていて、かつて読んだ『類推の山』解説で得た情報を更新してくれる。

 ルネ・ドーマルは1908年3月16日、アルデンヌ地方の小村ブルジクールに生まれた。父親のレオンは師範学校の教員だったが社会主義活動のために小学校教員に降格され、後に徴税官になった。
 1914年の第一次大戦勃発に伴い、ドーマル一家は住居を転々とした。何度も転校を余儀なくされたルネは、成績が良かったため、1922年にリセ第3年次(中学3年生)の途中で、ランスのリセ・デ・ボンザンファンに転校。そこでロジェ・ルコント(Roger Gilbert-Lecomte, 1907-1943)等3人と知り合い、「サンプリスト兄弟」と名乗り、秘密結社めいたグループ活動を行う。マラルメやランボーやアルフレット・ジャリを愛読し、神秘思想や東洋思想、オカルティズム、サタニズムに耽り、危険で実験的な「遊戯」を実践した。たとえば「死の淵まで赴きながら明晰に目覚めたままでいることを」に挑戦するなど。

 1925年、ドーマルはバカロレアに合格し、パリのアンリ4世校の高等師範学校・入学準備クラスに入る。(仏語wikiによると、ここでシモーヌ・ヴェイユ(→wiki)と知り合った)。
 しかし、事故により師範学校への入学は諦める。パリに移住後も「サンプリスト兄弟」たちとは往復書簡を交わし、休暇の際にはランスに戻っていた。彼は当時、ランスにおける恩師ルネ・モブランが進める網膜外視覚の実験に協力し、指先で事物を識別する訓練をおこなっていた。

「サンプリスト兄弟」のメンバーは徐々に増えていき、なかにはスポンサーを買って出る大人たちも現れた。その一人がボヘミア出身のヨーゼフ・シマ。本書解説には、シマによるルネ・ドーマルの鼻のない肖像画が小さく載っている。彼はドーマルより15歳年上で、自分のアトリエをグループの活動のために開放した。

 1927年にはシマのアトリエで後に生涯の伴侶となるヴェラ・ミラノヴァ(1905-62)と出会う。ヴェラはシベリア出身のユダヤ人で、当時はヘンドリック・クラマーの妻としてアメリカから渡ってきたところだった。翌年には、すでに『描かれた闇』等を出版していた神秘主義詩人アンドレ・ロラン・ド・ルネヴィルも加わる。

 彼らは1928年6月に〈グラン・ジュ(Grand jeu)〉――大いなる賭け――という雑誌を創刊する。タイトルの由来は諸説あるが、私が気に入ったのは、19世紀前半~20世紀前半にイギリスとロシアがアジアで繰り広げたグラン・ジュ(→wiki:グレートゲーム)説。ドーマルとルコントはキプリング(→wiki)の小説『少年キム』を愛読していた。
 ドーマルの紹介文によると、〈グラン・ジュ〉は文芸誌でも美術誌でも哲学雑誌でも政治雑誌でもなく、本質的なもののみ探究する場であり、すべての教条を否定する「教条破壊(カス・ドグム)」を掲げた。基本理念は「反・個人主義」で、個人的なエゴや欲望を「断念」することによる解放をめざした。

 本書解説より引用。
「創刊号におさめられたドーマルのテクスト「希望なき自由」および死後刊行の「反逆とアイロニー」に示されているように、〈大いなる賭け〉における「断念の哲学」の過激さは、ダダやシュルレアリスムのような偶像破壊的な過激さとは質がちがう。そこにはむしろ、ストア派の賢者や宗教的な殉教者、あるいは「見者の手紙」のランボーにおける自己放棄の激しさがある」。

 ドーマルは「希望なき自由」に「たった一つの解放は、あらゆる行為に、自分を全身的に捧げることだ」と書き、『大いなる酒宴』でも、語り手が「いまこの瞬間のことを考えるんだ」と自分を叱咤する。(おそらくこれは彼がヒンドゥーの聖典『バガヴァッド・ギーター』など東洋思想のなかから学んだ心得だろう。仏教的メディテーションから生まれたと言われる昨今流行りのマインドフルネス(→wiki)にも通じる)。

 アンドレ・ブルトン一派と〈グラン・ジュ〉の抗争劇についてはオモシロ過ぎるのでここでは記さない。本書を購読すべし。

 新フランス評論」編集長のジャン・ポーランは〈グラン・ジュ〉創刊時よりその重要性に着目し、とりわけドーマルを高く評価していた。

 1932年、アラゴン事件で彼を救うための嘆願書にルネヴィルが署名を拒んだことをきっかけにグループが二つに割れ、同年11月30日の会合をもって〈グラン・ジュ〉は事実上解体する。崩壊までの経緯は谷昌親『ロジェ・ジルベール=ルコント』に詳しい(らしい)。

 ドーマルの生涯における大きな転機の兆しは、〈グラン・ジュ〉崩壊の前にあった。

 1930年頃、ドーマルはシマの紹介でアレクサンドル・ザルツマンと知り合う。ザルツマンは『類推の山』に登場するソゴル師のモデルと言われ、ジョージア(旧名:グルジア)出身の貴族の末裔で、大神秘家グルジェフの弟子だった。ドーマルは、クラマーと別れたヴェラとともにザルツマンを通じてグルジェフの教えを学んだ。
 1934年5月にザルツマンは亡くなったが、同年10月から36年4月までジュネーヴにあるザルツマンの妻、ジャンヌの学院でヒンドゥーの伝統や学問を吸収した。
 1935年、ドーマルの詩集「反=天空」がジャック・ドゥーセ賞を受ける。同年、ヒンドゥーの詩学を踏まえた重要な詩論「詩の本質的な性質について」を執筆。『大いなる酒宴』の脱稿もこの頃だという。

 翌36年5月からセーヴルにあるザルツマン夫人のグループで共同生活を送る。この頃、グルジェフ本人にも出会っている。ただ、過酷な身体訓練と禁欲を伴う修行がたたり、ドーマルは左耳の聴覚を失い、健康上の問題を抱えるようになった。
 1939年夏、高地アルプスのペルヴーで『類推の山』の執筆を開始。当時は、老子の『道徳経』に啓示を受けていた。第2次大戦がはじまり、ヴェラがユダヤ人であったことから、健康問題を抱えたまま逃亡生活を余儀なくされる。

 1943年10月にパリに戻るが、闘病生活はその後も続いた。
 1944年5月21日、ドーマルは『類推の山』を未完のまま遺して他界する。



 追記【2017.9.24】
 シモーヌ・ペトルマン(→wiki)が著した『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ』Ⅱによると、1941年のはじめ頃、ヴェイユは南仏のル・ポエ村でドーマル夫妻と会った。「ドーマル夫妻は、ヴェイユ一家と同じ家に住んでいた」(p300)。彼女はドーマルの手助けでサンスクリット語を学ぶとともに、サレ訳の老子『道徳経』を読んでいたという。
 シモーヌ・ヴェイユはドーマルが他界する9か月前、1943年8月24日に肺結核で亡くなった。34歳だった。

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