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『着衣のマハ』の理由 


『着衣のマハ』

『裸のマハ』

 この二枚の絵が公衆の面前に晒されたのは1808年のことだ。
 大航海時代には世界を席巻したスペインだったが、その後国力は低下傾向にあった。カルロス3世時代(18世紀半ば)に多少盛り返 したものの、続くカルロス4世が無能だったため、政権は王妃マリア・ルイーサとその愛人ゴドイに委ねられた。ふたりにとって金と 権力は思うがままだった。しかし、これに業を煮やしたカルロス4世の息子、フェルナンド7世はポルトガル討伐を理由に侵攻してき たフランス軍に呼応、アランフェスで反乱の狼煙を上げた。ゴドイは逮捕され、莫大な資産が没収された。資産のなかにはゴドイが 収集した1000枚以上にのぼる絵画が含まれており、『着衣/裸のマハ』もそのなかにあった。
 カトリックの伝統を守る敬虔なクリスチャンは、『裸のマハ』を初めて見たとき卒倒したに違いない。そこに描かれていたのは、 陰毛を晒け出した生身の女だったからだ。当時は裸婦画自体が珍しく、あったとしても神話上の女神かニンフに限られていた。しか も、『着衣のマハ』があるために脱衣という行為がいやでも想像され、エロティシズムが引き立つ。抽象のベールを帯びた美しいヌ ードではなく、劣情を刺激する厄介なネイキッド――。
 当時、敬虔なカトリックの伝統を引き継ぐスペインでは、異端審問所が依然幅を利かせていた。彼らは、この禁断の絵を依頼した のはゴドイ本人で、描いたのは宮廷画家フランシス・ゴヤであることを突き止めた。ゴドイは愛人ペピータ・トゥドーの裸身をゴヤに描かせ、同一ポーズの着衣画も描かせていつでも替えられるようにしていた、と噂された。
 スペイン映画の巨匠、ビガス・ルナの映画『裸のマハ』(DVDビデオ【字幕】ビデオ【吹替】)は、この絵をめぐって、王妃の寵愛によって25歳で宰相にまで上り 詰めた美少年のゴドイ、王妃マリア・ルイーサ、ペピータ・トゥドー、王妃に対立するアルバ公爵夫人、ゴドイの正妻・チンチョン伯爵夫人、そしてフランシス・ゴヤの愛憎を描いた作品だ。ゴヤがひそかに思いを寄せるアルバ公爵夫人の毒殺疑惑に絡んだミステリ仕立てになっていて、お勧めの作品だ。徳間文庫からビガス・ルナ原著で『裸のマハ―名画に秘められた謎』という本も出ている。

 ゴヤは1746年にアラゴン王国の旧都サラゴサの近郊に生まれた。マドリードの王立サンフェルナンド美術アカデミーの奨学試験に 2度も落選し、1775年以降は王立タピスリー工場で下絵を描いていた。1780年に王立アカデミーの会員に迎えられ、1786年には国王 カルロス3世付きの画家となる。そして1789年のカルロス4世の即位に伴い、あらためて宮廷画家に任命された。
 ところが1792年には原因不明の大病に罹り聴覚を失う。ある感覚器官が損なわれると他の機能がそれをカバーするために より鋭敏となり、創造能力を高めるというが、彼の場合も名作と呼ばれる作品を生むのは聴覚を失って以降のことだ。
 先述の政変のあと、フランスの皇帝ナポレオンはカルロス4世とフェルナンド7世の両者を幽閉し、兄ジョゼフをスペイン王位につ けた。これにはスペイン民衆も怒り心頭に達し、ナポレオン軍に徹底抗戦した。ゲリラという言葉はここから生まれたという。
 混乱を極めるなか、ゴヤは「戦争の惨禍」などの銅版画をつくり続けた。しかし、1819年にはマドリード近郊に別荘を購入し、「 聾唖の家」と名づけて引きこもった。そこで彼は凄惨な連作絵画『黒い絵』を制作した。
 その後、彼はフェルナンド7世と仲違いしたままフランス・ボルドーに亡命し、1823年に没した。享年82歳。
 プリハードコムは、『着衣のマハ』について56cmx92cm [M20B号] を、『裸のマハ 』については56cmx92cm [M20B号] 95cmx166cm [80号 変形] を提供している。

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