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映画『ブレードランナー 2049』 

 地元の映画館で、『メッセージ』を手掛けたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の新作映画『ブレードランナー2049』を観る。

 概要はこちら(→wiki)。

 製作総指揮は、リドリー・スコット。出演者もスタッフもアメリカ以外からの白人の起用が目立つ。また、未来のロサンゼルスやラス・ベガスが主な舞台だが、実際にはハンガリーやニュージーランドで撮影・製作された。R.スコットは1982年の前作『ブレードランナー』で、イギリスから監督として招かれたが、ハリウッドのしきたりにことごとく衝突したと聞く(『エイリアン』(1979)は主にロンドンで製作された)。

 主人公レプリカントKを演じるのは、『ラ・ラ・ランド』のライアン・ゴスリング。禅僧のような衣装で登場する神秘主義的経営者ニアンダー・ウォレスに扮するのはジャレッド・レト。彼は『ファイト・クラブ』や『ダラス・バイヤーズクラブ』、昨日DVDで見たアロノフスキー『レクイエム・フォー・ドリーム』等に出演。Kの「恋人」役はキューバ出身のアナ・デ・アルマス。Kの上司は『コングレス未来学会議』で「自身」を演じたロビン・ライト。ウォレスの片腕ラブは、『鑑定士と顔のない依頼人』に出ていたシルヴィア・フークス。
 撮影監督はロジャー・ディーキンス。音楽はハンス・ジマーとベンジャミン・ウォルフィッシュ。ヴァンゲリスの「Tears In the Rain」が引用されている。2049年のラス・ヴェガスのコンセプト・デザインはシド・ミード。

 リドリー・スコット及び旧『ブレードランナー』に対するヴィルヌーヴの気遣いが痛いほど感じられて、旧ブレラン・ファンは嬉しい限りだろう。嬉しいけど、もう少しヴィルヌーヴ自身による新しい味付けが欲しかったなあ、的な何かかな。

 R・スコットは自身が監督した新作『エイリアン・コヴェナント』で、人類に叛逆するアンドロイドのデイヴィッドを主役に据えたが、本作では、滅亡に向かって衰弱していく人類に対し、地球を引き継ぐレプリカントの、「老父」を介護・保護する立場として生じるいくつかの「感情」が前面に出ている。最後のシーンにはやはり、涙腺が緩んだ。

 R・スコットは、アメリカが自国の第一の文化と考えるハリウッドに対し、複雑な感情をもっているに違いない。岡田斗司夫も言っていたように、敬愛するキューブリックから自身の後継者として指名されなかったことへの忸怩たる思いというのか、ハリウッドから、アメリカ文化の「本流」継承者と見なされず、あくまでも外国人(エイリアン)であり、「傍系」と見られているような自己認識があるように見受けられる。この場合、ハリウッドの正統継承者とはスピルバーグであり、『スター・ウォーズ』シリーズのジョージ・ルーカスだ。だからこそあえて、フランケンシュタイン・テーマという、19世紀イギリスのメアリー・シェリーが産み出した大きなテーマにこだわっている、と。それは人工知能やロボティクスが社会に浸透し始め、人工生命の存在が取り沙汰される現在では、最も重要なテーマでもある。
 フランケンシュタイン・テーマについては、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』を最初の近代SFと位置付けたブライアン W.オールディスの評論書『十億年の宴』をはじめとして、数多くの本が出ている。ちなみに、メアリー・シェリーの生涯は今年、映画化されたようだ。ぜひ日本でも公開すべきだ。

 そのオールディスの小説、『スーパートイズ』を原案にキューブリックが構想した映画『A.I』は、主人公のアンドロイドの名前がデイヴィッド(つまり、『プロメテウス』や『コヴェナント』のアンドロイドの名前)。亡くなったキューブリックに監督を託されたのは自分でなく、スピルバーグだった。それならば、ハリウッドの傍系たる自分は、後継者としてカナダ人のヴィルヌーヴを指名するぞ、と。「ヴィルヌーヴよ、「ハリウッド傍系」における本流を継承していこうぜ!」という思いかな。製作者自身の、ホンモノ(ハリウッド正統)に憧れながらホンモノ(正統)になれない、切なさとも諦観ともつかぬ思いが本作品に表れている、と想像することは可能だろう。ハリソン・フォードに対するゴスリングというキャスティングも、何かを暗示しているようだ。但し、R.スコットの視野にはアジア人やアフロ・アメリカンの姿はない。まあ、あまり人種やナショナリティにこだわるつもりはないが。



 AI・ロボットが現実社会に普及しつつある昨今、ロボットはあくまでも、人間が主体となって課題解決や効率化をはかるための手段であり、「共感」を招くような設計は不要、むしろ有害になりかねないという考え方がある。その考え方は、いくつかの映画にも反映しており、たとえば、クリストファー・ノーランの『インターステラー』では、あきらかに「共感」を拒否する形態のロボットTARSが登場した。現実の経済原則や軍事目的で開発されるロボットの多くは道具に徹するタイプだ。ソフトバンクのPepperは、顔もリアルでないし、市場ニーズを発掘するためのフィールド実験でしかない。最初に普及・定着する家庭サービス用ロボットは、Cynthia Breazealのジーボのような抽象的な形態か、最近ソニーが復活させたアイボのような愛玩動物タイプだろう。人は生物にせよ、人工物にせよ、形態や動作、動作から読み取れる「思考」が自分と似ているものに感情移入しやすい。但し、感情移入した結果、自分より遥かに優秀で、ついていけない何かを感じたとき、今度は共感より「脅威/恐怖」をおぼえ始める。

「共感の設計」は、映画でも大きな課題だが、現実のロボットの設計でも重要だ。ただただ共感させることを目的化するのでなく、過不足なく「共感」が得られるよう、コントロールされる必要がある。だとすると、映画に登場するロボットも、「なぜ人間そっくりのロボットを登場させるのか」の理由付けを明確にする必要がある。本作で、ウォレス社の社長がスピリチュアルな思想の持ち主で、レプリカントが誕生するプロセスも神秘的に描かれる理由は、そこにある。

 映画では、優れた過去の映画へのオマージュが感じられる。たとえば、タルコフスキーを意識するようなところが随所に見られる。冒頭付近の農場に描かれる一本木は『サクリファイス』だろう。また、ホログラフィのジョイが、Kとのセックスのために、触感のたしかなレプリカントと一体化する、というエピソードは、スパイク・ジョーンズの『her/世界でひとつの彼女』)を踏まえてのことだろう。2049年なので力触覚提示技術はもっと進んでいるはずだが、触覚ゆえにビジュアライズが難しいから、やむを得ないかな。まあ、レプリカントには最新の力触覚提示技術が実装されているという解釈もできる。

 冒頭あたりに映る円形に配置された無数の太陽光発電パネル(というか鏡?)は、ひょっとして、ナショジオ2016.6月号(→ブログ)に載っていたネヴァダ州のクレセント・デューンズ太陽熱発電所かな? 少なくとも着想源にはなっているはず。膨大な数のソーラーパネルをアートっぽくデザインする動きは、欧米で流行しているようだ。

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