剥がされる面皮の下~高嶋晋一のパフォーマンスと「顔の現象学」 

 鷲田清一の『顔の現象学』は驚くべき書だ。これだけ深い内容をこれだけわかり易く書いた本に遭遇するのは、記憶を辿る限り初めてではないだろうか、とさえ思う。ことわっておくと、ここで言う「わかり易い」とは、「意味」に落ちやすい、とか多義性の縮減というトラップをそなえている、というのでなく、「意味」という縮減性の罠に気づかせる、ということであり、同時に私の意識下に堆積した、複数のというより多数の、しかし無数ではない「文脈」のいくつかにつながるということである。

 鷲田は数多くの哲学者や文学者、美術批評家、文化史家、精神科医等の言説を引きながら、《顔貌》の謎を現象学的に解いていく。それだけではない。《表情》や《素顔》《化粧》《羞恥》、さらには《顔貌性》の正体に迫っていく。
 例えば、中井久夫が『記憶の肖像』でエリオットの「詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうへひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだ」という言葉を引きながら、手の形にこだわるふりをして中井の注意を手に向けさせることで、被写体・中井の顔から意識を取り除く手練の写真家の話をする部分を引用したかと思うと、羞恥心の発生機序を解説し、ウィルソン・ブライアン・キイのサブリミナル刺激を語った後、「被写体としての身体、映像としての顔とは、まさに陵辱された身体の跡、あるいは、陵辱されるべく差し出された顔の跡なのである」と綴る。続いてE・レヴィナスを引いて「ひと」という自己同一的なものの現前としての顔や《鏡》としての他者の顔を語り、それを三木清や宮川淳の諸テクストにつなげ、「自己同一性の間隙」から出現する「内面」へともっていく。さらには、ロラン・バルト『明るい部屋』を経由して、「顔とは政治的なものだ」と言うドゥルーズ=ガタリ『ミル・プラトー』へと逢着し、「あらゆる多義性を縮減し、同化し、単一の同一的な座標軸上に配分し、登録してゆく作用」「記号系への縮減」である「顔の社会的生産」について述べる。

 さながらディスク・ジョッキーならぬテクスト・ジョッキーだが、もちろん本書は他者の言説のパッチワークなどではない。鷲田自身の思想的生地があった上で、彼自身の思考の綾が他者の言葉や概念に貫入し、それらを縫い合わせている。
 とにかく解説を加える必要がないくらいローコンテクストで、要約するとしても要約からこぼれ出るものが実に勿体無く、しかも文庫本なのでローコストという、ただただ買って読むことをお勧めする以外にない書である。

 本書を読むに到った経緯をすべて語るわけにはいかないが、そもそもの発端は他でもない、高嶋晋一のパフォーマンスである。YCAMでは現在、コンタクト・インプロヴィゼーションで名高いスティーヴ・パクストンを取り上げる「Phantom Exhibition~背骨のためのマテリアル」展を5月24日~8月31日にかけて催しているが、この開催に合わせ、〈アート + メディア + 身体表現〉のテーマを表に出した新鋭2組のアーティストの作品による企画展「インターイメージとしての身体」(newClear 《大脇理智+Alessio Silvestrin》+高嶋晋一)を開催している。
 もう3週間前になるが、5月22日にはスティーヴ・パクストンの34年ぶりの来日/初来山の歓迎イベントとして、大脇と高嶋による身体表現パフォーマンスのデモがあった…。(続く)
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