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『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』 

 スティーブン・ジョンソンの『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』を読む。

『世界をつくった6つの革命の物語』に引き続き、発明と発見を技術の詳細に踏み込むことなく、いかなる文化的背景のもとに生まれ、いかに他のイノベーションを促し、今日の人工的世界を形成していったかという視点で、優しく語っている。つまり、発明・発見のプロセスをテクノ・セントリックに語るのでなく、広く文化史や社会史、生活史のなかで示した本だ。

 現代社会は、おびただしい数の人工物で溢れかえっている。いまや環境の一部として、当たり前に目にするモノたちも、かつては驚くべき発明品だった。
 人類が革新的なモノを産み出していった動機には、生活必需品や安全、戦いでの勝利、自由、平等、富、名声を得るため、などいくつか考えられるが、本書ではこれまでバカにされてきた動機(動機とさえ言えないただの慰み)である「気晴らし」、「娯楽」、「遊び」に着目する。そして、そうした「楽しみ」から生まれた一見くだらない発見の多くが、最終的に「まじめな歴史」の領域に変化を引き起こしたという。

「6つの」というのは一見、少なく感じるが、これは人が短期記憶で覚えられる数に絞ったカテゴリーだ。著者は「ファッション&ショッピング」、「音楽(聴覚文化)」、「味(嗜好品)」、「イリュージョン(視覚文化)」、「ゲーム」、「レジャーランド(パブリックスペース)」の6つにまとめている。なお、セックス関連だけはあえて除外している。理由は述べているが言い訳っぽく、たぶん女性読者を獲得するために、下品にならないように配慮したのだろう。

 第1章では、ティリアン染料(→wiki:海紫色)のエピソードに始まり、17世紀後半のロンドンに生まれたショーウィンドウ、店舗ディスプレイ、衣料素材の変革(羊毛→木綿)に始まる大量生産技術(飛び杼、紡績機……)、ファッション革命(流行色、ファッションの民主化、ル・ボン・マルシェに始まる百貨店)などについて語っている。(いちおう)植民地の収奪、奴隷制度、過酷な労働条件にも少しだけ言及し、フェルナン・ブローデルが『文明と資本主義』で予示した「伝統を捨てる移り気な社会の到来」にも触れている。
 ウィーン美術アカデミーで学んだ「前衛的な社会主義者」グルーエン(→wiki )がナチスに追われてアメリカに逃亡し、「売るための機械」としてのショッピングモールを編み出していくさま、ウォルト・ディズニーのイマジニアリングにもページを割いている。このあたりは東浩紀と大山顕のショッピングモール研究(→関連ブログ)にも通じるところがある。東の『ゲンロン0 観光客の哲学』は、メディア論者スティーブ・ジョンソンがイノベイティブでないとみなして?含めなかった、7つ目の気晴らしとしての「観光(=鑑賞)」に興じる客を、哲学的に基礎づけたと言えるかもしれない。

 第2章は、3万6000年前の骨笛(→wiki:古代の音楽)に始まり、イスラム世界で誕生した「ひとりでに鳴る楽器」、ヴォーカンソンのオートマタ「フルート奏者」へとつなげる。コンピュータの歴史は、第1章で紹介されてもよさそうなジャカールの織機を起源としてバベッジにつなげる例が多いが、著者はあえて、音楽/楽器のイノベーションからの潮流に重点を置く。それにより、17~18世紀のさまざまな楽器の発明から20世紀の電子楽器への流れや、鍵盤楽器→タイプライター→キーボードの系譜を示すことができるし、(触れてはいないが)音楽の探求が数学の探求につながったことも暗に語っている。

 そして、コンピュータが暗号戦(→ブログ:映画『イミテーション・ゲーム』)から、インターネットがアメリカ国防省の通信技術から生まれた、とよく言われることに対し、情報共有による新しい文化ツールの創造という点では、音楽(娯楽)こそが道を拓いたことを示す。

 第3章は、大航海時代と香辛料貿易、バニラの話。この章は新味に欠けるかな?(どの点が新しいのかよく分からなかった)。著者はあまり食文化に興味がないのかもしれない。

 第4章は、リュミエールの映画(→ブログ)前史の一つとしてのマジックランタン。ヨハン・ゲオルグ・シュレーファーの話から、いかに哲学書に「ファンタスゴマリー・メタファー」が用いられてきたかを示していて面白い。シュレーファーは幻灯機を改良して、現代のホラー映画に通じるマルチメディア的交霊会を編み出した。ポール・フィリドールはさらにそれを発展させ、ファンタスゴマリーと名づけた。
 ヘーゲルは『精神現象学』執筆中におこなったイエナ大学での講義で、フィリドールの作品を取り上げた。トマス・カーライルがヘーゲルを『衣装哲学』で風刺したことで、現実感を喪った個人や社会の比喩表現に、幻灯機を使うことが広まった。また、ショーペンハウアーは人間の感覚器官を「脳のファンタスマゴリー」に喩えた。
 マルクスは『資本論』で物神崇拝の概念を語る際、「物と物とのあいだの関係」の「ファンタスゴマリー的な形態」として、幻灯機メタファーを導入した。
 幻灯機のような大衆的イリュージョンは、錯視の研究を促した。なお、19世紀末までの最も有力・有名な目の錯覚は線遠近法。この技法を支配するルールは、アルベルティの『絵画論』に略述されている。
 スコットランドの画家、ロバート・バーカーのパノラマ。ソーマトロープ。ゾエトロープ。エジソンやリュミエールについては、ほかに山ほど書かれていることもあって、全く触れていない。
 グリフィスのクローズアップ、『ジャズシンガー』の映像/音声の同期、ジョヴァンニ・パストローネのドリーショット、ディズニー『白雪姫』を支えたマルチプレーン・カメラ。ウォルター・マーチは『地獄の黙示録』でサラウンド音響を発明した、てのは事実かな?

 第5章は、チェスからコンピュータゲームへ。統計学やゲーム理論のコムズカシイ話は避けて、コロンブスが、ネイティブ・アメリカンが遊んでいたゴムボールに出会う話を語っている。ブログ:映画『クレマスター1』で触れたグッドイヤーの加硫法は、オルメカ族が発見したのではないか、と著者は言う。このあたり、イスラムの音楽機械と同じく、「欧米中心主義」史観という想定される批判への言い訳っぽいところが感じられる。

 ゴムボールからラスベガスのルーレットホイールのボール軌道の話につなげるのは好い。MITのエドワード・ソープ(→wiki:Edward O.Thorp)とクロード・シャノンは、ルーレット・ボール軌道の分析から世界初のウェアラブル・コンピュータを発明したという。

 第6章では、ハーバーマスがコーヒーショップの出現によって「公共圏の構造転換」を語ったのに対抗し、パブやバーなど酒場の公共性について語る。レクリエーションの空間としての「自然」は、オラス=ベネディクト・ド・ソシュール(→wiki)にさかのぼる。登山という文化的イノベーション。動物園のイノベーションには、映画『キングコング』の主人公カール・デナムのモデルとなった野生動物商人、カール・ハーゲンベック(→wiki)が関わっている。

 最終章では、これまで語ってきた新たな娯楽の発明・発見に伴う「驚きを求める本能」について語る。遺伝子は予測可能性を重視して進化してきたように見えるが、驚きを求める本能は、その真逆を行く。
 そして、人工知能の将来を考えたとき、われわれが真に憂慮すべきことは、機械が自ら「考え始めたとき」に起こるのでなく、「遊び始めたとき」に起こるのだ、と結んでいる。

 遊びは人工知能ではなく、人類の領分です!というメッセージだ。

 中国や日本や朝鮮半島の発明品には一切触れていない。
 21世紀の世界を席巻する中国は、人口14億人もいるんだから、中国人自身(または極東)で語ればいいじゃん、おれら欧米だけで仲良くやってくからさー、ということか(笑)。17世紀~20世紀半ばまで、欧米人に搾取され、蹂躙され、植民地となり果てた中国は、革命後の混乱を乗り越え、いまや自立した「世界の工場」として世界に君臨し、地球を破壊する勢いで日々、途方もない数量の人工物を生産/消費し続けている。もう、ジョセフ・ニーダム(→wiki)なんて読まないもん!という感じかな。

 一瞬、ひょっとしたらウィキぺディアの記述だけで書いてるんじゃね?と邪念がよぎったが、著者(→wiki:Steven Johnson(author))はメディア論の専門家。そんなことはあるまい。
 ただ今後、歴史を扱う出版物は、切り口やテーマだけ設定すると、あとは人工知能がインターネットをくまなく渉猟し、整理し、「読書」という気晴らし習慣から離れられない人びとのために、自動的に歴史書をつくる時代が到来するかもしれない。

 人類に残された仕事は、自分たちの関心の戯れに沿った「切り口」(=物語)を見つけることだけ、なのだろうか。

 文中敬称略。

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