映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』 

 福岡KBCシネマで、リューベン・オストルンド監督の映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』(原題:The Square/2017)を観る。

 概要はこちら(→wiki)。

 内容は「ミュージアムあるある」という感じだろうか。バーホーベンの『エル』(→ブログ)と同じく、リベラルの行き過ぎた「政治的正しさ」への批判も込められている。

 昨今のミュージアムは、展示のオープニングで「友の会」メンバーや地元民のためにちょっとした立食パーティーを設けたりするところが少なくない。「関係性の美学ガー」など現代アート界の流行語を口にして煙に巻くキュレーターの話には無反応で、食事の用意ができたとたんに息を吹き返す来場者たちに怒り出すミュージアム関係者。
 貧困問題を真面目にとらえるアートを展示する一方、身近な貧者に対しては意識下の差別意識を隠せない主人公のアート・ディレクター。文化エリートの「後光」でもってナンパに成功する彼が、性交後に使用済みコンドームを寄越すように言う相手の女性に対して見せる、異様なまでの警戒心。

 あるあるエピソードをただ並べただけのようにもみえるが、モンキーマンのエピソードはオモシロイ。制御可能な「野蛮性」には余裕のある態度で臨むが「行き過ぎている」と感じたとたん厳しく取り押さえる。取り押さえるのが早過ぎると「野暮」だと思われそうだし、放置したままだと大変なことになりかねない。そのあたりの塩梅の難しさがよく表れていて、シャルリー・エブド襲撃事件(→wiki)を想い出す。風刺のもつ「毒性」と「薬効」の加減の難しさ。

 伝えたいことには共感するが、いかんせん冗長。30分くらい削れるのではないか。『立ち去った女』のような4時間近いスローシネマをホメてて言うのもナンだが(笑)、あれはビジュアル的魅力が強力だったからこそ。
 最近はハリウッド映画でも2時間以上の長尺ものが増えてきたような気がする。かつてはあった1本90分という基準は、観客の生理を考えると妥当なのではないか。一つの傾向が強力になると、反発が生じるというのは上映時間であれ、政治的正しさであれ、いろんなところに言えることだが。



 タイトルのスクエアは、参加型の現代アート作品として設けられた四角い白線の囲いに由来する。形容詞として使われると「きちんとした」、「公明正大な」という意味があるが、一方で「堅苦しい」「クソマジメ」という意味もある。

 昨今は、民族差別やLGBT等々に関わる政治的正しさが隅々にまで反映された「真面目」な映画が山ほどつくられている。しかし、いっぽうで一部の逸脱した差別主義者や排外主義者が好むような文化コンテンツには、それほど盛り込まれているわけでもなかったりする(ちゃんと確認してないがw)。むしろ、そっち方面に力を入れたらいいのに、とさえ思う。これみよがしだと反感を買うが、うまく意識下に弱者への共感を忍び込ませられるなら、効き目はあるはず。
 差別主義者が好むコンテンツをつくるのは、たいてい差別主義者だ、と言う人がいるかもしれない。しかし、マジメな人が好むタイプの映画にこれでもか、とふんだんに「政治的正しさ」を盛り込んだところで、かえってtoo much感を覚えるだけで、効果的だとは思えない。

 これを言うと「安倍擁護」とラベリングされそうでツライところだが、国内ではリベラル主導の「マジメさ」がゲームのルールとして厳格に適用され、その間に世界では、暴力や脅迫、策謀、狡猾、印象操作を競い合うゲームが主流になっていたとしたら、この先、どんなことが生じるだろう。「蚊帳の外」という言葉は、まさにこういう状況を指すのかもしれない。むしろ「蚊帳の中」か。もちろん、これは「世界で主流のゲームに乗り遅れるな!」という意味ではない。

 本作は正直、パルムドール受賞作品らしい映画ではない。
 しかし、この映画は意識する/しないに関わらず、階級意識があるくせに、口先ばかりの「政治的正しさ」を強調する、ある種の現代アートやカンヌに代表されるヨーロッパ映画の傾向に対する風刺という点で、届くべき人たちに届いている。その意味で「カンヌ受賞作品だから観る」という人向けの映画だ。かくいう自分も、現代アートを扱った作品で、パルムドールを受賞して話題になったという理由で本作を見に行ったわけで^^;、ヨーロッパ的な階級意識が培った美学への憧れがあったのでは?と疑われても、微塵もないとは決して言わない(笑)。
 もともとアメリカでは映画の発祥がニッケルオデオンということもあって、本来、映画は劇場に行けない貧しい人たち向けの娯楽として発生した。それに対し、ヨーロッパでは、1920~30年代のゴージャスな映画館建築をみれば想像できるように、人びとの上昇志向(≒アートへの憧れ)に支えられて成長した経緯がある。昔は貴族階級と知識階級、そして、両者に憧れるブルジョワジーが雇用のキーを握っていたかもしれない。しかし、ヨーロッパでも中間層が大きく成長して雇用のキーを握る時代、人びとがもはや貴族的な趣味に関心を示さないのは、何も不思議なことではない。小売り業界では昔から、上から下の流れは下から上の流れより難しいと言われたものだ。つまり、安売りスーパーが高級百貨店のやり方を取り入れるのは(比較的)易しいが、百貨店がスーパーのマネをしても成功しないということだ。それは現在のショッピングモールを牛耳っているのが百貨店ではなくスーパーであることによく表れている。

 話がずいぶん逸れてしまった^^;。

 製作者は、直接的に「カンヌ的な傾向」を批判すると、「政治的正しさ」を前面に押し立てたほかのカンヌ受賞作品に失礼になる、というところまで、考えたのかもしれない。だとすると、現代アートの美術館は、カンヌの自己批判のダシに使われたとも言えるわけだ(笑)。

 まあ、現代アートの美術館は今度、カンヌ映画祭やカンヌ的な映画をありがたがって観る人をシニカルにとらえたアート作品を展示してリベンジすれば良いだけ。

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