【 何も言うな。アングルを見よ(3) 】
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「浴婦」
、いわゆる「ヴァルパンソンの浴女」はアングルがローマ留学中に描いた傑作のひとつ。肉付きのひとつひとつが精緻に描かれて、まるで生きているかのようだ。薄汚れて見える白いシーツの襞がなんとも艶っぽい。とくに左腕にまつわりついたシーツが不思議な存在感を醸している。肘から先が切断されたがゆえに巻かれた包帯のようにも見える。こうなるともうアングルはハンス・ベルメールやロマン・スロコンブのような畸形美術の祖に位置づけられるが、ちょっとそれは牽強付会に過ぎるだろう。
サルバドール・ダリが女の背中をよく描いたのは、彼が尊敬するアングルの影響だと言われている。背中は後背位を想起させるとともに、窃視への欲望を象徴する。フェミ系の評論家たちは、女の背中ばかりを描くダリを、女と正面切って向かい合えない脆弱な精神の持ち主とあげつらったが、決してそうではない。男の性欲はきわめて「脳」的ゆえに、ときには接触よりも窃視を欲してしまうのだ。
ハイパーリアルに描かれたシーツとは対照的に、足元に見える電気のコンセントみたいな「ライオンの口」はハーレムの浴場をあらわすだけで、まるで取ってつけた感じだ。あとで弟子が描き加えたのだろうか?
- [2006/02/26]
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【 何も言うな。アングルを見よ(2) 】
アングルの「泉」
である。「グランド・オダリスク」
に比べると官能性では劣るが、そのぶん乙女の清純なエロス(死語^^;)が薫ってくる。この絵画は1820年にフィレンツェで構想されたが、水甕を肩に乗せたポーズはフォンテーヌブロー派の浮彫によく見られるテーマだ。水甕とそこから流れ落ちる水が何を象徴するか想像してほしい。ただし決してそれを口にしてはいけない。
ここで、アングルの略歴をおさらいしてみよう。
Jean Auguste-Dominique Ingre (1780-1867) : トゥールーズ近郊のモントーパンに生まれ、画家・彫刻家であった父にデッサンを学んだ。
トゥールーズの美術学校を経て97年にパリに上京、ダヴィッド
の弟子となる。1801年に「アガメムノンの使者たち」でアカデミーの美術賞であるローマ賞を受賞したが、ナポレオンのエジプト遠征による財政的事情からローマへの留学を1806年まで延期される。
ローマではフランスが所有していたメディチ家の別荘に寄宿して古代遺跡やルネサンス美術を訪ね歩き、デッサンの研究を重ねた。とくにラファエルに傾倒して模写を繰り返したというから、彼独特の典雅にして優麗なる画風はラファエロ
の影響である。ローマ時代に「エディプスとスフィンクス」(1808)、「浴婦」
(1808)、「グランド・オダリスク」
(1814)などを描き上げたが、これらの作品はいずれも「ゴシック的」、「変」だと酷評され、アングルは留学期間を終えてもイタリアに滞在し続けた。
1824年にアカデミーに呼び戻されると、アングルは新たに台頭してきたドラクロワ
らのロマン主義運動に対抗する新古典主義の旗手として担ぎ上げられた。サロンに出品した「ルイ13世の請願」が認められてパリにアトリエを開く。1828年より美術学校の教授として後進の指導にあたるが、34年「聖サンフォリアンの殉教」の不評に気落ちし、アカデミー・ド・フランスの院長としてローマに引きこもる(〜41年)こともあった。
その後アングルは大御所としてパリの画壇に君臨し、55年のパリの万国博覧会では大々的な回顧展が開かれた。
最晩年の1863年には、裸婦画の集大成である「トルコ風呂」
を完成する。(ところが、これも顧客の奥方に不興を買い、引取りを拒否されている)
プリハードコムは「泉」について、本物と同サイズの163x80cm[M100号]
を用意している。フレーム付で63万円は、ちょっと立ちくらみのするお値段だが、きっと値段相応の贅沢感が得られるに違いない。92cmx56cm
[M20B号]
のほうはフレーム付で105,000円。
- [2006/02/25]
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