【 マイケル・ファウラー『音庭』 】
6時20分からホールでマイケル・ファウラー(Michael Fowler)による音庭(オトニワ)コンサート。ファウラーは1974年オーストラリア生まれ。アメリカのシンシナティ大学で音楽学の博士号を取得し、現在は帰豪してメルボルン王立工科大学のSIAR研究員として活動中。近年は自らを音庭師(オトニワシ)と名乗り、日本庭園のサウンドスケープをモデルにしたサウンド・インスターレーションを制作し続けている。
2003年に秋芳町の「交流の館」に滞在した際、山口市・常栄寺の雪舟庭に魅了されたことから、今回はその雪舟庭で採取した自然の音を電子処理した作品。中央に2台、周囲に8台のスピーカーを巡らせて複数の箇所から音を放しあう独特のサウンドデザインを展開した。
中庭でおこなう予定だったが、前日の天気予報で雨が懸念されたため、急遽ホールでのライブとなったそうだ。反響が強すぎる屋内での演奏のせいか、最初は音量出力の調整に手間取っていた模様。それでも、鳥のさえずりやセミの鳴き声、枝葉の擦れあう音、葉むらのざわめき等が電子処理され周囲を駆け巡るサウンドデザインは空間イメージを伴って心地よい。ただ、正直なところ、どうしてもやはり電子音よりも外から聴こえる蟲の声の自然音のほうに耳が引き寄せられてしまう。メディアテクノロジーはまだ自然音に匹敵する繊細さを実現できるレヴェルに達してはいない。↑は世界に数台しかないと言われるスピーカーのオーガニック。
コンサートが終わって外に出るとあたりはすっかり暗くなっていた。宿泊棟のレストランあたりから本館にむけて投射される緑のレーザービームが美しい。AIAVのサイトによると、これは萩に住む現代陶芸家、三輪和彦氏の作品だそうだ。
- [2008/09/27]
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【 中野良寿Around myself 08展 】
YCAMの長期ワークショップへの参加がきっかけで山口市に通うようになり、市立図書館には2000年以降の比較的新しい本が多く、雑誌の品揃えも豊富、ビデオも妙に偏っていて趣味にあうこともあり、それらを堪能するため、とうとう山口市に引っ越してしまった。
と、いうことで、昨日は中野良寿のAround myself 08展とマイケル・ファウラーの音庭(オトニワ)コンサートがあったので、秋吉台国際芸術村(AIAV)に行く。
山口市からAIAVまでは約20キロ、車で20〜30分くらいだろうか。
アーティスト・イン・レジデンスを中心とした芸術活動の拠点で、大きく分けてホールやギャラリーの入った本館棟と宿泊施設やレストラン、サロンがある宿泊棟からなる。

来訪者用の駐車場に車をとめて上っていくと、ピンクの客室棟が雁行して立ち並ぶゾーンに至る。
一度泊ったことがあるが、たしか1泊ひとり3000円くらいだったのではないか。複数人で泊ったのでもっと安かったおぼえがある。もう少し安くすればバックパッカー御用達の安宿並みに
なるのだが、まあ交通の便は悪いし、山口市内の中心部でも3000円前後で泊れる場所はいくつかあるし、秋吉台や秋芳洞に行くならYHがあるし、そも
そも施設としてもヒッピーのたまり場にしてしまうつもりはないだろう。

宿泊棟から見た本館棟。

宿泊棟と本館の間にある関係者用駐車場の前には、茜色のヒガンバナに縁取られたタマスダレの花畑が広がっている。

↑花畑側から見た宿泊棟側。正面左は建物は、磯崎の初期の代表作《N邸》を再構築したものらしい。

エントランスから階段をのぼると、巨大なCo2マークが待っていた。
中野氏のAround myself 08は、グローバル・オブセッションとパーソナル・オブセッションから成る。
グローバル・オブセッションは世界規模の2酸化炭素(Co2)へのオブセッション(あるいはCo2削減キャンペーンそのものの固執性?)をテーマとした作品で、このデザインのラベルは山口市内の商店街のボックスショップで買えるそうである。各自買ってCO2を排出する箇所に貼ると良いということか。
続いてパーソナル・オブセッション。2005年にも同名のワークショップを取出や山口で開いている。

↑はワークショップ会場。

パネルには作り方が示されている。


壁には、どことなくサマになっているので中野氏本人が作ったものだろうか、小品がいくつか掲げられている。
どことなくアウトサイダーアートの香りを感じてやってきた。参加型のインスターレーションというのかワークショップというのか知らないが、これは簡単に取り組めて、奥が深そうである。
マイケル・ファウアーの音庭が始まるまでまだたっぷり時間もあることだし、平日で人も少ないことだし、えんえん立てこもって素材の輪ゴムや小枝がなくなるまでつなげまくってやろうかとさえ刹那思う。
ヴェルフリやダーガーになった気分で取り掛かったものの、30分もやっていたら飽きてきた。この「飽き」こそがオブセッショナルなアウトサイダーアーティストと凡人を分け隔てるポイントなのだろうか。アウトサイダーアートとも関係の深い草間弥生の作品群がオブセッショナル・アートと呼ばれるように、中野氏の作品も、無限増殖への固執、もしくは固執の無限増殖がテーマのように思われる。
せっかくつくったのでCo2と記念撮影。
3階に上がって外に出ると柱廊になっている。

フラジャイルな蝶が頻繁に休みながら舞っていたのでつい追いかける。うーむ、望遠マクロレンズとか使って虫や鳥を追いかけるカメラヲタの気持ちがわかる。

柱廊から見下ろした中庭。確かここで音庭コンサートをやると聴いていたが、ホールの中で作業が進んでいる様子。場所が変わったのだろうか。
(続く…)
- [2008/09/26]
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【 大友良英[without record ver.3] 】
山口情報芸術センターで「without records」制作設置のボランティアに参加した。
「without records」というのは、フリージャズやノイズ、映画音楽等の分野で世界的に活躍するギタリスト・大友良英が7月から展示するサウンド・インスターレーションで、会場を埋め尽くす百数十台の古いポータブル・レコードプレーヤーが、レコード盤無し、つまりwithout recordsで発するさまざまな音によって繰り広げるターンテーブル・オーケストレーションである。大友氏は2005年、shin-biギャラリー(京都)で20台からなる作品をつくった後、2007年1月にはせんだいメディアテークで美術家の青山泰知氏と共に66台による展示を実現している。
今回、ボランティアの参加者は、山口県内だけでなく、仙台、東京、奈良、神戸など全国各地から集まってきた。総勢30名以上いたそうだ。まる10日間の日程で私は3日半だけつきあったが、なかには遠方からやって来て全日程に参加したツワモノが5人もいた。
作業は個々のプレーヤーの加工から始まった。ターンテーブル上のゴムシートを除くと、レコード針が鋼板等を擦って音を発する。針を落とす位置によっても音色は変化するし、鋼板上に凹凸があればそれだけで一定の明確なリズムを刻む。真空管アンプを用いた古いタイプなら、サーっというホワイトノイズ系の音やブォーンという船の汽笛のような音を立てるし、ものによってはフィードバック(ハウリング)を発生させることもあり、実に多彩な音が得られる。また、ターンテーブルにちょっとした加工を施せば、さらに新たな音やリズムが生まれる。私は前に座った芸大生が電気系統をいじって独自の音を次々と創っているのに引け目を感じて途方に暮れていたが、大友氏に「それぞれのプレーヤーが出す個性的な音を発見するだけでいい」と言われて救われる。しかし、そうはいっても「ありのままの私をみて」ばかりでは済まされないだろうと、次にゴムシートの一部を切ることでリズムを刻むというものをもっていくと、今度はビジュアル面の責任者である青山氏に「丁寧に切るよーに」とダメ出しを喰らう始末だった(笑)。
最後の2日間は、会場内に設置されたスタンドの上にプレーヤーを固定し、床上に露出した大量のケーブルをケーブルモールで覆うといった作業だった。すでに設置レイアウトがFixされ個々のプレーヤーの位置もほぼ決まっていたため、作業は比較的楽だったが、前の日まではかなり大変だったという。
大友氏は2ちゃんの関連スレに「八百屋の兄ちゃんみたいな人がノイズやってるってのがいいじゃないか」とあったようにとても気さくな人で、作業の際にも打ち上げでも参加者一人ひとりに話しかけていた。青山氏も親切でつきあいが良く、毎晩のように開かれた打ち上げに[たぶん]ぜんぶ参加していたようだ。参加者は生年月日で占いをする人や飲み会で性格が豹変する人など個性豊かな者たちばかりで、プレーヤーが発する音もボランティアスタッフの個性を反映して実に多彩だと大友氏が話していた。
今回の展示では、個々のプレーヤーのスイッチオンオフを自在に制御し、フィードバック音やホワイトノイズ系の音など音の種類毎に分けて、カテゴリー別に音を発することも可能だという。鑑賞者は林立するプレーヤーの間を散策することになるのだが、特定エリアにあるプレーヤーだけ音を出し、あたかもポルターガイストがつきまとうかのように鑑賞者が歩く方向にそのエリアを移動させることもできるそうだ。
大友氏は6月27日に出たばかりの新著『MUSICS』で、人は意識によって周囲の音からある音だけを聞き出して意味として認識しているが、意味聴取の脳内ソフトをオフにすると音と音の境界が曖昧になり、全ての音が印象派的に溶け出してナチュラルトリップめいた感覚が楽しめる…というようなことを述べている。ターンテーブルの林をリラックスして逍遥すれば、ひょっとするとこうした感覚が得られるかもしれない。
タイトルのwithout recordsには、レコード盤を用いないという意味以外にもう一つ、「記録(=record)無し」という意味がある。大友氏は、この展示では一定のプログラムを繰り返すのでなく、いつ来ても異なるパターンの音を体験できるようにすると語っている。つまり、記録されないことによる「音の一回性」がテーマの一つにあげられるのではないかと思う。
交通手段や通信手段の発達、都市化の進展によって、ひとりの人間が生涯に出遭うものや人、言葉の数は昔に比べて膨大な数に及んでいる。それと並行して、写真、ビデオ、CD、DVD、HDD、USBメモリーなどなど外部記憶メディアへの依存は深まる一方である。「出遭う人やもの」の数の膨大化と外部記憶メディアへの依存は、各人におけるひとつの対象毎の記憶が細部を失うことにつながる。現代では、印象の強度による記憶の争奪戦がいたるところで繰り広げられていると言っていいだろう。すでにビジネス社会では急速に進んでいることだが、莫大な数にのぼる人やものをいくつかの属性データで格付けし、データベース化「処理」する人が増えてきているように思われる。recordがデータベースの構成単位を表すことを考えるなら、without recordsは「生」のデータベース化へのかたくなな抵抗だと解釈できるのではないか。
without recordsの展示を体験することによって、記録による記憶の吝嗇の意味をあらためて自分に問い直すのも良いだろう。音をつくること、音を聴くことの一回性は、生の一回性のこの上ない尊さと結びつく。ボランティアスタッフが山口で過ごした日々しかり、鑑賞者が展示作品を視聴するであろう時間しかり。
そういえば、ボランティアスタッフによる作業が終わった6月29日は、エリック・ドルフィーの命日だった。44年前の1964年同月同日に、ドルフィーは旅先のベルリンで客死した。亡くなる3週間にオランダで録音された遺作Last dateには、ドルフィー自身の肉声で次のような言葉が収録されている。
When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.
[without records ver.3]は、YCAMにて7月5日から10月13日まで無料展示される予定だ。
- [2008/07/03]
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